陰陽論8精神の発生2

前回の続きの前に,今の段階で生じる疑問点について補足します。


多分これから何度も言うことになりますが、今回にかかわらず、どんな疑問もホントのところわかりません。「こう考えれば、全体像がより矛盾なく把握できるだろう」という思考のもとに、構成した私見です。本noteは一貫して、その考えで記しています。純粋な古文読解としては、0点をつけられて当然で、ご都合主義と言われても甘んじて受けます。当時にも色んな学派がいたわけで、私は今その世界にトリップしながら、一員になったつもりで書いているわけです。


そのつもりでお読みくださると幸いです。


1,徳と気は、人が生まれてくる時だけの話なのか?後半の意識の発生の記述は、脳内で常に生じている変化のことのように受け取れるのではないか?


結論から言うと、「両方が書かれている」と思っています。小さい子供が自意識を持つようになる過程を思弁的に書いているようにも見えますが、実は大人になってからも、その作用は常に続いているということです。なぜそうなるかというのは、「所以任物者謂之心」以降の説明をお待ちください。



2,徳と気は、天地にあたいするものとして存在していますが、これが天地から流れ込んで来たものか?


外から入ってきたと言われると、ちょっと困ってしまいます。そう言ってしまうと何か反発したくなるでしょう?だって、天地からニョニョって生まれてないもん、私の親は人間の男と女だもん!精子と卵子だもん!


古典においても、父母の両精が相まってできたものを先天の精とすることが記述されています。動く方の精子は陽であり、待っている方が陰になります。かと言って、父から徳が、母から気が生じるというのも、ちょっと違います。もし古代人がそう考えていたとしても、どこかでそう書いていたとしても、ここで真に受ける必要を私は持っていません。何でかと言えば、そう考えないほうが、全体を理解、説明するにふさわしいからです。


天地の秩序が万物に生じる!だからお腹に新しい生命が誕生した途端に天地にあたいする徳と気が混じり合う瞬間があるのだ、みたいな解釈をしていきます。

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