陰陽論19精神の発生13

本神篇の続きです。

心は憶するところあり、之を「意」と謂う、意の存するところ、之を「志」と謂う,志に因りて存変する、之を「思」と謂う。思に因りて遠く慕う,之を「慮」と謂う、慮に因りて物に処する、之を「智」と謂う、故に智は生を養うなり。

知っている漢字ばかりでありながら、今の意味とは違ってたりするために、ちょっとわかりにくいですね。ざっくり言うと、人の思考は「意志」が先にあり、その後に過去の記憶への蓄積があるということになります。

一つずつ見ていきます。

「憶する」は記憶でなく、心に意(音や映像のように浮かぶもの)が生まれる状態と考えられます。(憶う=おもう)と読んでいる人もいます。そこに「志」があるとなっています。これも「こころざし」という意味で捉えると、わかりにくくなります。むしろ現代の哲学でいう「志向性」の方に近いと私は勝手に考えています。志向性は、人が考えているときには必ず「考える対象」があるということです。「当たり前やんけ!」となりそうですが、結構重要です。考える対象を持つことで、人は世界を形成しているとも言えます。志は心の行き先を表した文字とも言われるので、まあそんなハズレではないでしょう。

この志が存変する?「存変」は見慣れない熟語です。

「保持されつつ、変化する」のようなことでしょう。考える対象はあるけれど、それは静止画像をいつまでも眺めているようなものではありませんから、変わっていきます。これが「思」という状態だと。まあ今の「思う」とそんなに違いなく感じます。 

「思に因りて遠く慕う。之を「慮」と謂う」はどうでしょうか。「慕う」は現代では目上の人に焦がれるような意味で使いますが、この時代ではもっと広そうです。

「慕」の字源にはいろいろな説がありますが、ここで勝手に考えてみます。形と音がよく似た文字に「暮「墓」「募」があります。これは物が下へ集まる状態と考えるとしっくりきませんか?土が下に集まって墓、力を下に集めるのが募る、日が天の下に集まったらもう真っ暗で暮れの時間。

では「慕」とは、本来志向性のあった心が移ろう「思」の中、また一つに集めようとする状態のことではないでしょうか?

「遠くに慕う(慮)」は意識の中で、「そこにないもの」や「抽象的なことがら」について考える努力のことだと、私は捉えています。

そこにないものや抽象的な思考などをふまえて、現実の目前の問題に対応せんとする力、これを「智」と呼んでいることになります。この最後の部分は現在の生活でも理解できるところです。


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