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テーブルマナー

将来、子どもが成長した時代では、国際的な交流機会が多くなると想定し、和食や洋食のマナーについて家族で学んできた。箸の上げ下げから食器の扱い方ナイフやフォークの使い方や、様々な場所での立ち振る舞いなどだ。もちろん、子どもにうるさく云ったのでは身につくはずもない。楽しく身につくように、少し奮発してマナーの必要なお店で定期的に食事をしてきたのだ。
礼儀作法、マナーは皆が身につけたほうがいい。そういう考えからだ。




ところが、ナイフやフォークを使う欧米の「テーブルマナー」について最近気づかされたことがある。この「テーブルマナー」は、白人社会がその「育ち」を区別するために仕組んだフィルターだというのだ。身分を差別する道具として「テーブルマナー」が機能しているという。確かに一同に会して同じテーブルを囲めば、互いのマナーの出来不出来がすっかりわかってしまう。


だからといって、料理人の心尽くしのお皿を美味しく食べられるように食事する側も食べ方を知っておいたほうがいい、ということを否定するつもりはない。テーブルマナーは作り手との会話の役割をも担っていたりするからだ。せっかく培ってきた食文化を何でもかんでも非難したいわけではない。




しかし、長年堆積してゆく差別への抗議が世界を揺るがしている今日、そういったことが実際に機能してきたことを理解しておいたほうがいいだろう。その事実の理解の有無が、自身の行動や思考、感性に大きな差をもたらすからだ。社会の習慣の中に巧みにインストールされ、人々が無意識に差別を機能できるようなシステム。それは意外なほど身近にあるのだ。ぼくたちは気づかずに、そして無意識に、差別に加担してしまっている可能性がある。




今、様々な既成の考えがひっくり返りはじめている。
ヘーゲルが「法の哲学」序文に「ミネルヴァの梟」のくだりで記した「迫りくる黄昏」とは、ぴったりそのまま現代を表わしていると感じるのはぼくだけではあるまい。今まで当たり前だと思って受け入れている習慣や価値観を、いま一度学びなおし見直す時期に来ているのだろう。


時代は大きく変わろうとしている。
世の中が不安定なこの時こそ、大切なものを大切な人を大切なことを、襲来する否定に狼狽えることなく、意図的に二元化された選択に囚われることなく、往来する眉唾ものの話に惑うことなく、脇目もふらず真っ直ぐ大切にできる自分でありたい。

そしてそういった生き方のできる人たちを増やすことが、ぼくのやりたい事だったりするわけである。

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