見出し画像

啓子

永見です。

過去に一度、観劇中に作品と自分のつらかったことがあまりにシンクロしすぎてちゃんと観えなくなったことがあります。「なんて作品をつくってくれたんだ」と理不尽な怒りを覚えたのですが、後になり、作者の方がわたしと同じ時期によく似たことがあったことを知りました。その人は、わたしが自分の心の中だけで押し殺していたものを舞台に昇華したのだと思うと、表現者として頭の下がる思いでした。

今回、『食卓殺人』の啓子という人を演じました。本番で、練習中に一度も感じたことのない、ピリピリとしたものをずっと感じました。その正体は「共感」であったのかなと。というより、啓子という鏡を通して、一部のお客さんは自分を見ていたのではないかなと思うのです(あくまで舞台に立った25分に感じたものなので、違うかもしれません)。

振り返ると、15歳で演劇を始めてから約10年。いただいた役で人から共感されやすい役はそれほどなかったなと。そういう意味では、今までで一番怖かった本番かもしれない。今わたしは、だれかのつらかった瞬間を思い出させているかもしれない、と。

でもそれが舞台に立つことなのですね。その時間、責任を持って自分ではない誰かとして生きる。上手く言えないのですが、もし誰かがわたしを通して自分が見えた時、「なんでそんなことをするの」とか「そんなはずはないよ」とか思って傷つかないでほしい。

今思えば、わたしがマスクをぐちゃぐちゃにしたあの舞台は、わたしの痛みそのものだった。正しく表現されていて、わたしは正しく傷ついた。あの舞台が少しでも違うものだったら、わたしは別の良くない傷つき方をしたと思う。

色んな作品があるけれど、おーきさんの書くものを表現するには、そういった覚悟がいるんじゃないだろうか。役を自分の身体に、人生に落とし込む必要がある。だから、わたしはこれからも、日々の喜びも悲しみも、恐れも高揚も逃さず心の引き出しにしまっていきます。


画像1

画像2

画像3

画像4


10年してきてまだそこか!って気もするけど、それでもいいか。

スタッフワークについては、考えるのもつくるのも楽しかったし、自分から出てくるものが嫌いじゃないと思った。


画像6

画像6

画像7


そんな感じ。今回関わってくれた全ての人に感謝とらぶを。ではでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?