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浮き島

浮き島に暮らしていると、時の流れに鈍くなる。
ここでは天候も季節も、地上ほど変化に富んでいない。昼と夜の継ぎ目ですらあまり意識されない。霧が立ち込めているわけでもないのに、浮き島から見る地上はいつもぼやけている。同じように、地上からも浮き島のかたちははっきりと捉えられない。見えてはいても目にはつきにくい存在なのだ。昼間の月とも似て。
それでも月が存在するように、この浮き島も存在している。鳥の王のおわす島。太古の昔からその座にいて、浮き島をつくったのも王自身だという。島は王の居城そのもので、その隅っこに暮らすわたしは、王の食事をつくることでなんとか時間の感覚を保っている。 

浮き島に来てずいぶん経つが、王にじかに会ったことはない。わたしは料理番で料理をするのが役目。王が住むのは別の階層で、給仕は別の鳥の役目だからだ。わたしが知るのは王の食事についてだけ。王は、生の昆虫などはあまり食べず、加熱した肉を好む。水分の多い果実(地上から運んでくるのが難しい)と、魚の類(これまた新鮮な状態で運ぶのが難しい)が好物らしい。鳥の王はもとヒトだったという噂だが、たしかに食の好みはわたしと近い。もとヒトのわたしが料理番として選ばれたのはそのためだろう。

豆と木イチゴが運ばれてきた。今日の食事の材料なのだが、あとでモグラの肉が届くというので、支度にかかるのはそれからでいい。
調理場にひとりきりでいる毎日は、鳥というよりもヒトの暮らしのようだ。そのためにときどきヒトに戻ってしまう夢にうなされる。鳥も夢を見るのだ。そんな日は調子が出ないので、飛行に出ることにしていた。
鳥の国に入るには、ヒトとして生きた記憶を置いてくる。だからあちらでどのような生活を送っていたかは忘れてしまった。それなのに手足や素肌といったヒトの体の感覚が、夢の中では蘇る。浮き島に来てからのことだ。頭が忘れたことを体は覚えているらしい。ヒトとしての記憶の断片が、空を飛ぶわたしを引きずり下ろそうとする。夢には、娘も現れる。娘はわたしを引き下ろすでも助けるでもなく、ただ遠巻きにわたしを見ている。彼女自身も羽ばたきながら。

壁のない調理場から、翼を広げ風に乗った。飛ぶのは得意だ。鳥になって最初の数日で風に乗れたことは今でも自慢だった。晴れた日はどこまでも空を昇っていけそうな気がする。 
城のまわりを飛行する。浮き島のほとんどは王の居城で占められている。その大きさ故に城と呼ばれてはいるが、木の枝や泥で固められた巨大な蜂の巣のようなものだ。常駐する鳥たちのねぐらも作業場もある。城のまわりのわずかな地面にはどこから湧くのか、水浴び場となる泉があり、島のぐるりを林が囲んでいた。浮き島から離れられないわたしが飛べるのはこの空間しかないのだった。
島で一番高いクスノキの枝に止まると、近くにほかの鳥の気配を感じた。王に仕えている鳥は多いから、城の外で出会っても不思議ではない。付近を見回すと、大型の鳥が高い枝から地上を見下ろしていた。灰色の羽は換羽の季節でもこれほどはと思うほどの乱れで、くたびれた毛布のようだった。頭部には金色の羽が混じっている。かつては美しい兜を思わせたことだろう。視線に気付いたのか、灰色の鳥はゆっくりと首を回してわたしを見た。
年老いたイヌワシのようだ。けれどどこか鷲らしさがない、もとヒトにしては鳥に近すぎる、奇妙な鳥だった。年をとりすぎるとこうした佇まいになるのだろうか。
「誰だ」鷲の声に、木の葉が揺れた。鳥の国でこのように響く声を聞くことはない。驚きで体が震えた。これは王だ。鳥の王に違いない。
「わたくしは料理番です」
「今日は何だ」少し考えて、献立の話かと思い当たった。
「モグラと、豆と、木イチゴです」念のために付け加えた。
「モグラは焼きます」
老鳥にも食べやすいよう薄く切ったほうがいいだろう。
「それがいい」
王は頷くと、背を向けて城へと飛び去った。 
それからも、飛行するとたびたび王を見かけた。いつも何か探しているかのように熱心に、島の外を見つめている。わたしに気が付くと献立を尋ねて立ち去るのも同じだった。 

その日はどんよりした空模様で、いつもにもまして視界が悪かった。わたしは飛行に出たものの引き返そうとしたところに、王の姿を見つけた。そのまま行き過ぎるのがためらわれて、わたしは王のそばの枝に降りた。
「トウモロコシが届きました。蒸しますか」
「いや」王はすぐさま答えた。
「トウモロコシは生のほうが甘い」
「では、そうします」
 わたしも生のほうが好きだ。
 雨が落ちてきたので、王とわたしは葉の茂った辺りへ移動した。浮き島での雨は、今日が昨日と違う日だと教えてくれる空のしるしだ。
「そなた、もとはヒトか」
 王が単純な質問をした。
わたしがもとヒトであるのはひと目でわかることだ。王は目が悪いのだろうか。その目を確かめたかったが、王はこちらを向かなかった。
「ヒトの国から連れてきたものはあるか」
この問いには覚えがあった。鳥の道の入り口で、門番のカラスがわたしに聞いた。 

『ヒトの国からは何も連れていけない。すべて置いてきたか』

わたしは娘のことを思った。
鳥の国に来たとき娘はまだわたしの一部で、連れてくるも置いてくるもなかったから、門番には迷わず「はい」と言えた。わたしたちが分離した存在だったなら、鳥の国には入れなかっただろう。わたし自身でないものは置いてこなければならなかった。
「ありません」と王に答えた。あると答えて追放されるのを怖れたからだ。
「そうか」
短い沈黙があって、王が口を開いた。
「我は連れてきてしまった」
わたしはぎくりとした。
「我の意図したことではなかったが。しかし、そのことが災いを招くこともある」
王はわたしに背を向けると、雨の中を飛び立った。 

気が付くと雨で背中が濡れていた。
わたしは体をぶるると振って、雫と一緒に王の声を振り払った。短かすぎる打ち明け話は、わたしへの忠告のようにも感じられた。今さらの忠告だった。娘を「連れてきた」ことは許されているはずだ。でなければ鳥の国にはいられない。ただ、許しはわたしに対するもので、娘にではない。当時の彼女はまだヒトになりきっておらず、何物でもない存在だったのだから。だから彼女は最初から鳥の国の一部なのだ。わたしよりもずっと、ほんとうの鳥なのだ。 

葉の隙間からのぞく空が、明るくなってきた。戻ってトウモロコシを剥かなければならないけれど、調理場にまっすぐ帰る気にはなれなかった。
雨上がりの空を、気のすむまで飛んでから行こう。
わたしは葉の陰に隠れて、いま少し太陽を待つことにした。  

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