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鳥の先生

鳥の国は、いっぽんの巨大な木のなかにある。
森も湖も海も浮き島も、すべてが木のなかに存在している。
この木のどこか奥深く、いちばん枝の茂ったところに、真っ暗な場所がある。
木の枝が絡み合って、どんな鳥も高くは飛べない。
そこに迷い込んだ鳥は枝に羽を絡めとられ、死ぬまで二度と出られない。

鳥の国の伝承だ。
影の鳥が現れるようになってからは、鳥たちがもっとも怖れる話になった。影の鳥はそこから生まれるのだと鳥たちは思っている。古くは鳥籠と呼ばれていた場所だ。けれどその単語は忌むべき言葉で鳥たちは使いたがらない。私も自分からこの話を持ち出すことはしない。
影の鳥は闇を連れてやってくる。闇は、ことに昼の鳥たちにとっては、恐怖を運んでくる。伝承にある暗闇の空間は、鳥たちの恐怖の象徴だった。
けれどいまは暗く冷たい冬を追い払い、明るい春を迎えたばかりだ。鳥たちは春の仕事に忙しく、冬の間に抱えていた不安も思い出す暇がない。

鳥の国の春は騒がしい。草木がぐいぐい背を伸ばし蕾がぱりぱりと花開き、山野が息を吹き返す音で満ちる。鳥たちの交わす恋の歌や、喧嘩する声、生まれたてのヒナたちの不揃いな合唱。ヒナたちが巣立つとようやく静まるかと思いきや、若鳥たちははしゃいだり危なっかしいことをしたりで、ここは秋になるまで賑やかだ。

鳥のセンセイ、とカワラヒワの巣立ち雛が私を呼ぶ。ヒトってセンセイよりずっと大きいってほんと?
そうだよ。ヒトの国に行けば大きいものばかりで驚くよ。
ここは学校というのでもないが、いつの間にかヒトとヒトの世界について教える場になっていた。この樫の木に住む私が鳥のセンセイと呼ばれるのは、私の前にも「もとヒト」がいて、先代か先々代のセンセイだった名残だ。
センセイと呼ばれている間はいやでもヒトであった頃のことを思い出さねばならないので、私は自分がいまだに鳥でないような気分になる。ヒトがどんなものを食べてどんなふうに暮らしているか、そんなことを教える必要があるのだろうかと思うのだが、ヒトという生き物への関心は高く、若鳥たちには答えてくれる存在が必要らしい。だから私は春から夏が終わるまでこの樫の木で時間を過ごしている。

「センセイセンセイ」
カワラヒワは今年初めての生徒だ。彼女のほかにはまだ誰も来ないから、初めてで最後かもしれない。年々知りたがりの若鳥は減ってきている。それでいい、と私は思っていた。
「ねえ。どうしてセンセイは飛ばないの?」
飛べるよ。これでも飛ぶのは得意だったんだ。ホバリングだってやれたんだよ。ただ一度羽を痛めてしまってね、高く飛ぶのは危険だから自重しているのだよ。この樫の木にいる限りはあまり飛ぶ必要もないしね。きみがまだあまり飛べなくても、すぐに私が追いつけないくらい空高くまで飛べるようになるからね。

じっさい、老いた体では高い枝まで飛ぶのも疲れるようになってきた。太陽に近づくのも目にこたえる。樫の低い枝でこうして過ごしているのが楽なのだ。
カワラヒワはここが気に入ったのか、とくに質問がなくともやってくる。地面をつついて虫を探したり、水遊びしたり、ジャンプして低い枝に乗ろうとしたり。あまりにずっとここにいるので、私が親鳥の代わりに預かっているような具合になっている。
「センセイ、怖いお話して」
怖い話?
「真っ暗な穴のお話をモズたちがしていたの。怖いからって母さんは教えてくれないの。鳥のセンセイなら知ってるよね」
ああ。あの伝承か。
言い伝えではね、鳥の国はとてもとても大きな木でできていてね、この木の中には、まだ誰も行ったことのない場所がたくさん隠れているんだよ。その中には夜の鳥たちも怖がる真っ暗闇の場所もあってね。そこへ入り込んだ鳥は、暗闇につかまってもう出られなくなってしまうんだよ。

刺激が強くないように話したからなのか、カワラヒワはきょとんとしている。
「どうして怖いの?」
「真っ暗闇だからだよ」
「まっくらやみって怖いの?」
ああそうか。この子はまだ生まれたばかりで、暗闇を怖いと感じたことがないのか。この子自身が闇から出てきたばかりなのだから。影の鳥だってまだ見たことがないだろう。恐怖を覚えるのは羽毛が綺麗に生えそろって、この木を飛び越えられるようになってからのことなのだ。
そうだねえ。私も昔は怖かったけれど、この頃はあまり怖くなくなったよ。うん。暗いってだけで怖がることはないのかもしれないね。でも、怖いときは仕方ないんだよ。怖くてたまらないときには、そうだなあ。まっくらやみの先を見るといいよ。明かりがきっといつかは見えるから。
「こんなふうに?」
カワラヒワはくちばしを持ち上げる。うっそうと茂った樫の葉の隙間に木漏れ日がちらちらと光っている。
こんなにいっぱいではないかもしれないけどね。ほんのちょっと、砂粒ほどの明かりでも見つければそんなに怖がらずにすむんだよ。もしも本当に入り込んでしまったとしても……。

「センセイ?」
カワラヒワが首をかしげる。
あの場所……あの空間を何と呼んでいたのだったか。たしかついこの間まで覚えていたはずなのに。
いくら探しても思い出せない言葉ができると、それは潮時ということだ。
うん、なんでもないんだよ。ほら、きみのお母さんが迎えに来たみたいだよ。今日はお終いだ。

カワラヒワももうじき完全に巣立ち、ここに来ることもなくなるだろう。そうすれば私もこの木を去って、樫の木には、私の代わりとなるもとヒトが来るだろう。それが決まりなのだ。私はヒトの世界を忘れて、一羽の老いた鳥に戻る。
声が遠ざかり、カワラヒワは帰って行った。静けさを取り戻した樫の下で、木漏れ日が揺れている。さらさらと、笑うような葉ずれの音がした。


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