見出し画像

沼地を迂回して森を抜けると、ようやく番小屋が見えてくる。
俺の姿を見つけた駅番が手を振っている。
俺は背中の荷物を降ろして大きく息をついた。重さから解放されて足がふらつく。
番小屋から出てきた駅番がさっさと荷を解いて、黙ったまま中身を籠に分けはじめる。食料を入れた籠を両手に抱えて番小屋へ運んでいった。俺も残りの籠を持って彼女のあとに続く。駅番も若くないんだから、力仕事は他の者に頼んでもいいのにと思う。
「これで全部だ」
鳥のことばで俺が言うと、駅番は少し間を開けて「ありがとう」と返す。彼女は自分からはあまりしゃべらない。普段ヒトのことばを使っているから、俺にうっかり話しかけてしまうと、迷惑がかかると用心しているのだ。聞くだけなら咎められることはないのだが。
「駅」は鳥の国のはずれで、鳥の道の近くにある。だから、あちらとの境界線があやふやな場所なのかもしれない。それともそういう風に作られた場所なのか、ここでなら多少のことは許される。
 
乗り物が発着するわけでもない小さな集落に「駅」と名付けたのは鳥たちだ。人間のたくさんいるところ、というような意味なんだろう。そこの番人はしぜん駅番と呼ばれるようになった。鳥の国に馴染めず、ヒトに戻るには時間が経ちすぎた人間たちの集落。鳥たちからは脱落者と呼ばれる彼らは、鳥の国を出る前に「駅」に滞在して、ヒトであった頃の記憶を取り戻す。駅番である彼女は彼らの世話をし、ヒトに戻るための手助けをしている。だから彼女自身は鳥となったが、限りなく鳥よりもヒトの世界に近い、特殊な身分だ。
 
俺はここが好きじゃない。来るたび気が滅入る。人間に毒されてしまった気がして数日は落ち込みが続く。何の理由もないのに。……いや、理由はある。自分が今は鳥だってことを忘れて、ヒトに戻ってしまいそうになるのを、ヒトの世界を懐かしむようになるのを、恐れているんだ。ちくしょう。こんなことを考えてしまうことがもう「駅」に毒されている証拠だ。
早く戻りたいが、まだ仕事が残っている。次に補充すべき品物の点検と、滞在者の確認を済まさなければならない。
 
「長いこといた婆さんがいないな」
「ああ、あのひとならやっと泣けたの。昨日出て行ったわ」
駅番は重い口ぶりだった。心配しているのだろう。これがいけないのだ。彼女の優しさは鳥よりヒトに向けられている。
「駅」の滞在者のほとんどは、自らヒトに戻ることを望んだ者。禁を犯して追放される者もいる。脱落者たちは一様にうつろな目をしており、その姿にも不安が滲み出ている。だが今日は中に一人、新顔がいた。さえずることを禁じるしるしを顔に付けられていた。駅番の説明を求めるまでもなく、思い当たる。鳥たちの広場でヒトの言葉を発したどころか、歌まで歌って追放された奴だ。口元のしるしは深く大きい。あれではヒトの国に戻っても言葉を話せないかもしれない。なのにその男は、ほかの者と違って生気に溢れていた。とても呪いをかけられたようには見えない。
なぜなんだ、と男に聞いた。その姿でヒトの国に戻ることに不安はないのか。
男はひざまずくと、指で地面に何かを書いた。隣で駅番が内容を伝えてくれた。
 
“はなせなくても いいんだ ひとにはもじという ことばがある もじをかいて はなすことができるのは ひとだからだ”
 
男は俺を見上げて頷いた。そして立ち上がると、住まいである小屋のひとつに入っていった。
「脱落者とは思えないな。もう完全にヒトじゃないか」
「いいえ、まだ涙が出てないの。でも、すぐに泣けるようになると思うわ」
駅番は答えた。今度は力強い口調だった。
 
「ここを辞める気はないのかい」
俺は駅番に聞いた。もう何度目の質問だろう。
「せっかく鳥になったのに、こんな仕事を死ぬまで続けるつもりなのか」
「ある程度生きるとね、生き方より死に方のほうを考えるようになるの」
「死ぬ準備をするほど年寄りじゃないだろう」
駅番は俺を見つめると、驚いたことに微笑みを浮かべた。ヒトのする表情だ。俺は胸のざわつきを感じて顔をそむけた。限界だった。これ以上彼女と話すと、俺がヒトに戻ってしまいそうだ。
「そろそろ帰る。日が高いうちに行かないと」
彼女は笑みを引っ込めた。俺たちは鳥のことばで別れを告げる。
(もしかすると今回が最後かもしれないな)
こう考えるのもいったい何度目になるのだろう。
風がざっと吹いて、俺のつぶやきをさらっていく。
空気に、雨の気配がした。
 
俺は足を早め、駅と彼女から離れ、鳥の世界へ飛び立った。


前のページ次のページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?