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路地の思い出

由衣が四年生まで住んでいた町には、空き地がたくさんあった。廃墟とも呼べそうな工場跡もあった。かつて病院の庭だったという荒れた公園などもあり、すべてが子供たちの遊び場だった。大人たちは、このさびれた工業地帯に時代の疲れを見ていたが、由衣たち子供にとっては生まれ育ったジャングルだった。
それぞれの遊び場へ行くには、好んで路地裏を歩いた。
古い木造家屋の狭い暗い隙間を、体が小さいがゆえに楽々と、時には迷路に迷い込んだふりをして遊んだ。複雑な迷路も、どの道がどこに続くのかを子供たちは熟知していた。狭い下町では、遊んだことのないクラスメートでも、どこに住んでるかをいつの間にか知っていた。
他所の家の軒下や裏口のある場所を、通り抜けるのは、なんとなくいけないことだと知っていた。だから子供たちは声をひそめてジェスチャーや表情で会話をした。喋ってはいけないと思えばよけいに可笑しくなるもので、くすくす笑いながら友達のあとを追った。
ある日のこと、由衣はいつものように友達二人と隠れ家ごっこをするために路地裏に入っていった。夏の終わりで、朝から雲行きが怪しかったのだが、子供のことで雨具など用意してはいない。夏の夕立は突然で、由衣たちは慌てて雨宿りできそうな場所を探した。雨の勢いに目も耳もきかなくなり、気がつけば友達二人の姿を見失っていた。路地の屋根の隙間にも雨は律儀に降りこみ、濡れた袖から水が肌をつたってくる。いつも静かにしているのを忘れて、由衣は思わず友の名を呼んだ。けれど聞こえるのはアスファルトとトタンを叩きつける雨音ばかり。進むのも退くのも恐ろしくなり、由衣は知らない家の暗い窓の下で、ひとり立ちつくしているしかなかった。髪が濡れて頬にへばりつく。それが鬱陶しくて犬のように首をぶんぶん振っていると、ちらりと、動くものがあったのだ。白と黒がまざった小さいかたまり。
「ねこ…?」
濡れて汚れたふきんみたいななりだったが、どうやら猫のようだった。水に濡れるのが嫌いなはずなのに、その猫は雨の中をじっと動かずに由衣のほうを見つめていた。由衣と目が合うと、猫はすっと片方の前足をあげ、水をかくような仕草をした。不自然なそのポーズを見ているうち、市場のラーメン屋の店頭にある招き猫と重なった。
「おいでおいでって……?」
猫は由衣が一歩踏み出したのを見ると、後ろを向いて歩き出した。ついてくる由衣を猫はときどき振りかえって、不機嫌そうな表情のまま、また歩き始める。いくつか路地を曲がっていくうち、由衣は自分がどこにいるのかわからなくなった。隅から隅まで知っているはずの路地なのに。不安が増して涙があふれてきた時、傾きかけた廃屋のそばで猫が立ち止まって、そのとき初めてミャーと鳴いた。そこは由衣の肩くらいの木戸があり、その奥のスペースは物置だったのかひさしが張り出していた。猫は木戸をくぐって入り、振りかえってまた招き猫の仕草を見せた。由衣はおそるおそる木戸をあけて中にもぐった。すると中には毛色が違う猫が三匹、まんじゅうのように寄せ集まって一斉に由衣を見た。でもその顔は怖がってるようでも怒ってるようでもないように思えたので、由衣はそっと猫たちの隣に腰をおろした。下は土だったが乾いていたし、猫たちの体温が空気を温めていた。狭い暗がりで、猫と由衣はただ黙って雨がやむのを待った。

そのまま眠ってしまったのか、気がつくと由衣は知り合いの家の前に座り込んでいて、空はすでに明るくなっていた。路地を出たところでは、友達が由衣を探していた。ぼんやりとした記憶を抱えたまま、そのあとも二人と遊んで夕飯には家に戻った。いつもの一日だった。
それから幾度か、由衣は友達とはぐれたあの場所に行ってみた。けれど、あの猫もあの木戸も見つけられなかった。夢だったんだ、と友達は言うが、寝てなんかいない、と由衣は逆らう。猫に拾ってもらったんだ、と鮮やかな思い出を自慢する由衣は、とても嬉しそうな笑顔になる。

〈終〉

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