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失せ物管理所

春の嵐が来る前に、屋根の修理をなんとか終えた。
屋根に固定した長い丸太のはしごを降りきり、「ひゅう」と大きく息を吐く。白いはずの息もあっという間に風にさらわれる。
管理所に戻ると、猫のサンボンジマが鳴いて訴えてきた。屋根に連れて行かなかったことに怒っているらしい。いつもに比べれば穏やかといってもここはオオカゼヶ丘だ。その名の通り常にごうごうと風が吹いている。サンボンジマのような小さな猫はとたんに吹き飛ばされてしまうだろう。
「ライオンくらい大きくなったら上がっていいよ」
サンボンジマは尻尾で床をぱしぱしと叩いた。
仕切りの時期だ。失せ物の棚を整理して、新しい帳簿も準備しなければならない。
やることが山積みだが、ひとまず熱いコーヒーを入れた。冷たい風に体が冷え切ってしまったので、サンボンジマを膝にのせて暖をとる。そこへ呼び鈴がけたたましく鳴った。サンボンジマが飛び降りて様子を見にいく。器用にドアを開けた隙間から冷気が入りこんできた。飛来物が呼び鈴にぶつかっただけならいいんだが。そう考えながらコーヒーをすすっていると、サンボンジマがひときわ大きく鳴き出した。残念ながらほんものの来客らしい。
「失せ物管理所というのはこちらですか」
サンボンジマが案内してきた客は、長いコートとマフラー、それにニット帽を着込んでいた。手袋までしているのに、足には靴を履いていない。寒さのせいでひどい顔色をしている。とりあえずストーブの前に案内し、コーヒーを勧めた。男が人心地ついたと見て、俺はお決まりの質問から始めた。
「失せ物探しですか」
「ええ……どんな落とし物もここでなら見つかるとか」
「見つかるかどうかは保証しかねます」
期待されすぎては困るので俺は釘を刺しておく。
ここはオオカゼヶ丘。世界中の失せ物が風に運ばれてたどり着く場所だ。それを耳にした落とし主たちは期待してやって来る。それ以外にこんな荒れはてた地に足を運ぶ理由などない。しかし最終的にたどり着くのがここだというだけで、すべての失せ物が即座に届くわけではないのだ。ここに来るまでにどこに埋もれてるかもしれない。ほかの誰かが所有しているかもしれない。時期が来るまではここへは運ばれてこない。いつたどり着くかは失せ物次第の風まかせだ。
「それで、なくしたという物は?」
 男は顔を下に向けた。靴下はボロボロでところどころ肌が見えている。
「……靴ですか?」
男は頷いた。気付いたら裸足であったと、ここまで裸足で来たのは、買った靴はどれも自分には合わず、履いては捨ててきたからだと言った。
「それまで履いていたはずの靴を探しているんです。裸足だと心もとなくて……」
「そうでしょうね」
サンボンジマが男の足元にうずくまって、足を温めはじめた。男はうっとりした顔になって、やっとマフラーと手袋を脱いだ。
「で、どんな靴ですか」
「それが、はっきりとは思い出せなくて……この頃は頭がぼんやりしていろいろなことが思い出せないのです」
詳細がわからないとなると、確認にもそうとう時間がかかる。男物の靴だけでも何千とあるはずだ。
「まあ気長にやりますか。どうせ当分は帰れませんからね」
春の嵐がもうすぐ来る。嵐が過ぎるまでオオカゼヶ丘には電車は止まらないのだ。ほかによそへ移動する手段はない。
「大丈夫。ベッドも食事も提供しますから」
俺はまず一番に、靴下を貸してやった。それから失せ物探しだ。帳簿を片手に預かり中の靴を出しては、ひとつひとつ男に確認させる。しかし男の記憶が曖昧で作業はなかなか進まない。色も形もはっきり思い出せないらしく、履き心地で候補をしぼるしかなかった。
「これはどうです?」
「つま先が痛いです」
まるで靴屋の客と店員のようなやり取りを幾日も繰り返した。

夜、その日に持ち出した靴の山を片付けていると、男が起きてきた。風の音で寝られないと言う。相変わらず顔色は青白い。
「まるで高速道路で寝ているようです」と男は不平をこぼす。
「これでもましなほうだ。いまにわかりますよ」
仕事も終わりなので、俺はふたり分のお茶をいれた。飛来物が外壁に当たり、電灯が揺れる。男は不安そうに天を仰いだ。天井近く、明かり窓の向こうに白い線が流れている。
「雪が降ってますね」
「ああ。いや、雪は雪でも、風が運んできた雪でね。ここの天気はいつでも風。雨と雪とひょうがいっぺんに降ってきたりもします」
男はカップを手に、じっと窓を見つめている。
「雪を見ると懐かしい気がします」
「雪国の出身ですか」
「そう……はい、そうでした」
くっと男の背筋がのびた。
「昔から雪が深くて……住んでいたのは……島で……そうだ。島で作った靴だ。代々腕のいい靴職人がいて、島の人間はみなそこで作ってもらってた」
 男の声に力がこもり、熱いお茶のせいか血色も戻ってきた。
「はっきり思い出しました。これで靴を見つけられます」
「確認が楽になるのは助かります」
ふいに、風の音が変化した。
ごおおおん、といういつもの唸りの奥に別の音が混ざり出した。遠くから運ばれてくる音。春の嵐だ。
「急ごう」
「え。何を」
「壁の棚に避難する」
管理所の壁は作り付けの巨大な棚で、一段一段がちょっとした小部屋だ。途中、慌てて駆けてきたサンボンジマと合流する。高く長い移動はしごをよじ登って、一番上の棚におさまった。壁に近いと、外を吹き荒れる風音がじかに体に伝わってくる。暴れる風のあとを、ざざざざ……と水の隊列が追ってくるのが感じられ、背中がぞわっとする。そして波が風に勝った瞬間に、ふっと静けさが訪れた。明かり窓の外は水と泡だ。粘っこい静寂がソーダ水の中にいるようだ。何か話していないと息苦しくて、俺は男に説明を始めた。
「春の嵐は、オオカゼヶ丘に海を連れてきます。海に沈んでいた失せ物もごっそり網にかかる。だから海に落とした物なら明日見つかるかもしれませんよ」
希望のある話をしたつもりだったが、男はまだ混乱している様子で考えにふけっていた。棚がみしみしときしみ、背後からはざぶざぶと海の音が襲ってくる。
「そう言えば、むかしクジラが嵐に連れてこられたこともありました。あの時は大変でした。網が破れるんじゃないかとひやひやしながら回収したんですが、解体したら腹の中から予想外の失せ物が出て来て、片付けに大わらわで」
昔話をしているうちにいつしか寝ていた。
「にゃあ」
サンボンジマの鳴き声で目を開けると、明かり窓から朝日が射しこんでいた。静けさは過ぎ去り、いつものように風が吹きすさんでいる。
はしごを降りると、床には水たまりができていた。毎年どこかしら浸水するのだ。
「今日は床掃除だな。でも先に崖に行こう」
サンボンジマを先頭に、岩を掘った長い通路を進み、広大な崖の前に出る。崖の下は深くて底が知れない。世界の果てを目の当たりにして、男は息を呑んでいる。
崖の上には巨大な網が張り渡されていて、これもきりが見えないほど長い。昨夜の嵐で網目にはありとあらゆるものが引っかかっている。今朝は海が行き過ぎたあとだから、魚もたくさんかかっていた。いわば副産物だ。男がサンボンジマと靴を探しているうちに俺は生ものの回収に励んだ。新鮮なタコや魚をバケツに放り込む。無心で拾っていると、サンボンジマが呼びに来た。靴の片方を見つけたのだ。網に引っかかっていたのは、俺の目にはありふれたブーツだった。雪道を歩くための靴らしい。網を渡って道具で回収すると、ぐしょ濡れなだけでなく、中は半分泥が詰まっている。逆さに振ると、泥と一緒に貝が落ちてきた。
「もう片方も見つけないと」
男は網を端から端まで何往復もして、夕暮れまで崖を離れなかった。俺は管理所の床を掃除し、食事の仕度もしてから崖に戻った。男は崖に向かって立ちつくしていた。
「見つかりましたか」
俺は声をかけたが、見つければサンボンジマが知らせに来るはずなので、そうでないことはわかっていた。男は首を振って網の一点を指さした。
「別のを見つけました」
見れば、一枚の板きれだ。手の届きやすい場所にあったので俺はすぐに取ってきてやった。墨で字が書いてあるが、かすれて読めない。
「何かの看板ですか」
「私の物ではないのですが。いえ、私のだと言ってもいいのかもしれません。島の靴屋の看板です。私の祖父と叔父が靴職人だったので」
傷だらけの板の上を、男は文字をなぞるように指でたどった。

「靴の片方はまだ見つかりません」
男はまだ探したがっていたが、夜の回収は危険なので連れて帰った。肩を落とす男に俺は夕飯の皿を押し付けた。魚のフライとタコのサラダだ。
「ここにいれば見つかると思って来たのに。もうこの世にはないんでしょうか」
「なくし物はいずれはここにたどり着く。それは確かです。ただ、海でのなくし物がここへ運ばれて来るのは春の嵐だけだから、時間はかかるでしょうね」
「来年なら見つかりますか」
「さあ。何年後か何十年後になるかもしれません」
男は風の音にまぎれてため息をつき、皿に手を伸ばした。
見逃したことを期待して、男は明くる日もその次の日も探し続けた。けれど俺は経験からわかっていた。落とし主がひと目で見つけられなければ、それはここにはないのだ。男も薄々感じていたはずで、崖にいる時間は次第に短くなり、網を覗くこともなくなった。

止まっていた電車が動き出す日、男はきれいに洗ったブーツを履いていた。もちろん片足だけで、左足は俺のやった靴下のままだ。引き取り手のない古い靴を譲ってやったというのに、自分のブーツを脱ごうとはしない。俺の仏頂面を見て、男は裸足の右足だけその靴を履いた。左右がちぐはぐだ。片手にあの看板をかかえている。
「これで行きます。履き心地はいまひとつですが」
両足が揃うまでそのブーツを預かっておくこともできると言ったが、
「いいんです」と男は首を振った。
「もう片方は、海に残していきましょう」
最後に男は声を張り上げた。風にかき消され聞こえなかったが、たぶん礼を言ったのだろう。頭を下げると体を丸めて駅へ向かっていった。ちぐはぐな靴が歩きにくそうだった。

〈了〉


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