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ひとくい館

 この洋館には開かずの間がある。
 不開の間。それも一つや二つではない。ほとんどの部屋が──と言っても部屋がいくつあるのか彼女は知らない。数え切れた試しがない。この屋敷は気まぐれに構造を変えるからだ。さっきまでなかった階段が突然現れる。あったはずの扉が消えている。振り向くといま来た廊下が曲がりくねっている。
 廊下の窓はすべて鎧戸で塞がっていた。なんとか歩けるのは天井がわずかに光を放っているためだ。光を反射し、窓ガラスがおぼろな鏡の役割を果たしている。見るものといえば自分の顔ばかりで、迷い込んだ頃は慰めにもなったが、それもとうに飽きていた。

 足元に揺れを感じ、彼女は身を固くする。振動が次第に大きくなる。彼女はしゃがみ込み、耳を塞いでことが過ぎるのを待つ。
 誰かが餌食になった、と彼女は思う。頻繁に起こる地響きと、ときおり混じる悲鳴。あれは人を喰らう音。骨を砕き呑み込んで、満腹になると眠りにつくのだ。そうやってこの館は生きている。

 扉が開いたときの記憶は再生し過ぎてかすれてしまい、夢か現かもう判断がつかない。なのに胸の高鳴りだけははっきりと思い出せる。はじめて見る部屋は少女の憧れが詰まっていた。彼女好みの壁紙にファブリック。趣味のいい家具。半分開いたクローゼットは美しいドレスであふれ、壁には華やかな画が掛かっていた。光沢のある絨毯に吸い込まれるように踏み出したとき、彼女の目が異常を捉えた。
 窓がない。豪華なカーテンの、窓と見せかけたその下は壁紙だ。彼女は息を殺し、後ずさった。ひとつのごまかしが部屋のすべてを紛い物に変えた。完璧な部屋は見せかけだ。ここは屋敷の胃袋だ。扉は彼女を閉め出すように、ひとりでに閉じた。
 こうして人を喰らうのね。

 それからの彼女は扉に触れることも部屋を数えることもしない。何もしないでいると身体がぼろぼろ朽ちていきそうだったから、代わりに廊下の窓を数えた。正確さはどうでもよかった。窓の中で老けていく女の顔だけが、時間が動いている証だった。
 294999個目の窓を数えたとき、ひとくい館がまた咀嚼をはじめた。彼女は膝をかばい立ち止まる。片足はもう思うようには動かない。背中も曲がってしまった。このままここで朽ちてしまおうか。彼女は考える。それでもいい。でもその前に、あの柔らかそうなベッドに一瞬でも身体を沈めたい。その一瞬で終わってもかまわない。足が痛むようになってからだ。恐怖の記憶が抗いがたい誘惑へと変化したのは。だがいまはまだ窓を数えずにはいられない。あと一回でキリのいい数字に届くのだから。あった。295000個目。彼女はそこで立ち尽くす。耳をすませば、遠く叫ぶ声が聞こえる。
 彼女は息を深く吸い、迷いを吐き出した。300000だ。300000個目の窓まで来たら、今度こそ。そう決めて、彼女は弱った足でまた歩き出した。逃げるように。


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