見出し画像

アーチ

 故郷の町が開放されたという知らせは、古い知人によってもたらされた。
その地区の出身だということを、他人に話したことはない。その人は昔話のついでに最近見かけた小さなニュースを提供してくれただけだった。私は動揺を抑え、興味のないふりでそれを聞いた。長年遠く深く沈めてきた思い出が浮かび上がり、はげしい郷愁に駆られた。他人に隠すということは自分をだます行為だとそのとき知った。

 当時、私は都会で独り立ちしたばかりで、まさかこれほど長く家族や故郷から隔てられるとは思いもよらなかった。未知の感染症が猛威を振るい、なかでも著しく感染者の出た地区が封鎖されると、それきり実家に戻れなくなった。まだインターネットの普及前で電話と手紙が生存確認の手段だったが、電話はその年のうちに通じなくなり、郵便輸送が制限されてからは手紙の数も減った。若かった私は忙しさにかまけて、実家からの手紙が年賀状だけになっていてもそう気に留めなかった。
 被害の大きな地域を封鎖したことで感染症は収束したと言われたが、各地区への世間の目は変わらず冷たかった。ウイルスの蘇りを恐れる団体は、感染症が風土病だとささやき、封鎖地域は忌む場所であるかのように吹聴した。おかげでウイルスの脅威が過去のものとなったあとも、住民たちは差別におびえねばならなかった。封鎖解除を拒んだ故郷は陸の孤島となった。これほど長期にわたり封鎖されている理由は、いまだに危険があるからだと疑う向きもあったが、おそらくはただ忘れられ捨て置かれていただけだ。始まったときは大騒ぎしていても、数十年たてば町のひとつやふたつ、存在することも忘れられる。そこに属していた私ですらそうなのだから。


 封鎖のためのバリケードは、撤去もされず放置されていた。役目を果たしていたのはせいぜい最初の数年だろう。形はゆがみ錆びついている。バリケード付近の建物は明らかに廃墟で、開放されているはずの道にほかの車はない。故郷の様相に、長年離れていた後ろめたさが増す。やがて人家や商店が並ぶ生活圏に入ると、ようやく人の姿を目にするようになった。見覚えのある場所を見つけるとなぜか胸が痛んだ。

 実家はかなり古びてはいたが、景色は変わっていなかった。家の前に流れる川も、畑の中にぽつんと立つ神社も、私の記憶のままだった。だが数十年ぶりに目にした両親の変わりようは、すぐには受け入れられないほどだった。老いて縮んだ両親もまた、年をとりすぎた息子に驚き困惑した様子で、再会できた喜びは想像とは違いひどく遠慮がちなものとなった。父はわずかに頬をゆるめたが歯を見せることもなく口を閉じた。母は私の手を握って、やはり黙ったままだ。なぜ何も話してくれない?
 両親は顔を見合わせ、私に向かって口を開いてみせた。唇が上下したけれど、音は発せられなかった。私は怖じ気づいた。
「もしかして、声が出なくなった……?」
 封鎖地区にまつわる話の中に、住民は全員失語症を患っているという噂があった。陰謀論として一笑に付していたが……
 母はあわてて首を振った。父は無言で苦笑いした。母の口がもどかしそうに動いたので、耳を近づけた。
「そぉぃぅ、わけじゃぁない……」
 蚊の鳴くような声で、それ以上尋ねても説明はしてくれない。私は畳のすり切れた座敷に通され、ひっかき傷のある座卓で麦茶を飲んだ。小学生のときに彫刻刀で彫りつけた座卓だ。懐かしさに溢れているはずなのに部屋がよそよそそく感じられる。
 ふすまが開いて、初老の女性が入ってきた。女性はか細い声でおにいちゃん、と呼んだ。姿はずいぶんと変わっていたが、間違いなく妹だ。私は深く息をついた。たしかに帰ってきたのだと、ようやく実感したのだ。
 妹の言葉はまだ両親よりは聞き取れたので、私は疑問をぶつけることができた。とはいえ、彼女もあまり流暢には話せないようで、筆談を交えながらの会話だった。聞けば封鎖される前後から、最低限の単語だけを小声で話をするのがここの習慣になったと言う。飛沫感染のリスクを避けるための行為が定着してしまったらしい。読書や筆談を面倒がる老人たちはとくに言葉を忘れがちなので、しゃべることが苦手なのだと。私は呆れた。それじゃ不便でしかたないだろう。
「声にしないといけないことって、あんまりないんだよ」
 無表情につぶやく妹は、深いほうれい線のために年よりも老けて見える。元演劇部の朗々としていた声がいまはたどたどしかった。

 鉄道は止められていた。レールは雑草にびっしりと覆われて、そこが線路だとわからないほどだ。再び開通するのはまだ先だろう。駅近くの踏切では、面白がった誰かの手によって遮断機がツル植物のアーチに作り替えられていた。写真を撮ろうとすると、目の前をコミュニティバスが通り過ぎる。バスの窓から物珍しげな目がいっせいにこちらを向くので、撮影は諦めてその場を離れた。学生時代の遊び場など思い出の場所をいくつか巡ったが、商業施設はなくなって、商店街も様変わりしていた。封鎖がなかったとしても年月が経ちすぎているのだ。母校の小学校だけは当時の校舎のままだった。校庭では子供たちが跳び箱の授業をしていたが、当たり前に聞こえるはずの子供がはしゃぐ声がいっさい聞こえない。住宅街を歩いても、テレビの音や音楽が漏れてくることもない。防音壁なのかと疑うほどひっそりとしている。聞こえるのは蝉の声ばかり。たまに行き交う人々も両親のように口の動きと手話らしき手振りで会話している。私の耳がおかしいような気分になり確認のために咳払いをすると、辺りの人が鋭い目で振りかえる。実家に戻るとどっと疲れが出て、昼から横になった。当然だが、私も相当年をとったものだ。
 夕方になって目覚めると、妹の家族が来ていた。彼女の夫と子供たちと、ひそひそ声の挨拶をかわす。姪はすでに結婚して赤ん坊を抱いていた。思わず喜びの声をあげると、妹以外はびくっと身を固くしたので、あわてて詫びるジェスチャーをした。大学生の甥はオンライン授業を受けているため「外の音量」に慣れていてコミュニケーションをとれたけれど、妹の夫はコミュニティバスの乗客と同じ目で私を見つめるし、彼ら同士の会話は半分も聞き取れなかった。薄い表情の変化も私にはわからないが、彼らには互いに読めるのだろう。唯一気を許せたのは姪の子供がむずかったときで、泣き声が世の赤ん坊並みの音量であることに驚き、それでも家族が当たり前に世話をし可愛がっていることに安心した。
 夕食のあと、二階のベランダで風に当たっていると妹がやって来た。私を部屋に引き込み窓を閉める。暑いよ、と言うと、妹は口に人差し指を立てて制し、ポケットからメモ帳を取り出した。文字が書いてあった。
『ここをでるとき、わたしもつれていって』
 えっ、と顔を上げると、メモ帳とペンを私の手に押し付けた。どうして?と私は書いた。
『うたいたいの』
 歌?
『ここではうたえない』
『こえをだすのはよくないことだから』
 うつむいて書く彼女の表情は見えない。
 歌ったらいいんだよ。もうウイルスの心配もなくなった。ここで好きに歌っていい。
『むり』
 うつむいたままゆっくり、大きく首を振る。その仕草に遠い昔の学生だった彼女を思い出す。
『ここでは歌えない』
 妹の言いたいことはわかる。だが連れて行くとは一時的に旅に出たいという意味なのか、それとも外に移り住みたいという意味なのか。喉の筋肉が衰えているはずだから、歌えるようになるにも時間がかかるだろう。
『わからない』
『でもとにかくここを出たい』
『お兄ちゃんが帰ってくるの待ってた』
『ここのみんなといたら歌えないから』
 ペンの動きが速くなり、字が大きくなっていく。その字が滲み、メモ帳が落ちた。拾い上げると、妹の両手は口に押し当てられていた。声が漏れないよう、強く、固く。

 出発の日は朝から強い日差しが照りつけていた。家の中は相変わらずの静けさで、蝉たちが幅を利かせている。
 今朝、父が湯飲みを床に叩きつけた。短気だった父の妹へ向けたいらだちは、表情を除けばそれだけだった。言葉をなかば奪われたことで怒りを飲みこむようになったのなら、それは家族にとって悪くはないとうっすら考えた。母の眉間には、不安があらわれていた。べつに今生の別れじゃない、封鎖は解除されたのだから必ずまた帰ると抑えた声で言い聞かせた。母の唇が動いたようだったが、穏やかな表情に変わっていたので聞き返すのはやめた。
 門を出ると、車で待っているはずの妹がいない。名前を呼ぼうとして思いとどまる。辺りを探すうち、道路下の川に向かう妹を見つけた。河原に降りると、妹は両脇を甥と姪にはさまれて、小鳥が寄り合うようにして岩に腰かけている。いい絵だな、としばらく後ろから眺めていた。甥が私に気付き、無表情で手招きした。見れば、三人とも靴を脱いで足を水に浸けている。甥が自分のとなりをぽんぽんと叩くので、私も裸足になって浅い川に足を伸ばした。ひんやりと気持ちが良い。よくこうして、妹や友達と何をするでもなく過ごしたものだった。川のせせらぎと蝉の声に包まれてただ水の感触を楽しむだけの時間。
 思い出に浸りきる前に、妹が立ち上がった。おそらくは精一杯の大声で「じゃあね」と言うと、遠くで水鳥が驚いたように飛び立った。姪と甥が岩に腰かけたままで母親に手を振る。無言の見送りを背に車に乗り込むと、私はわざと声を張り上げた。「出発!」
 彼女も続ける。「しゅっぱつ」
 いまはまだ弱々しい声を合図に、外につながる道を目指す。

(終)


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』8月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「すずむ」。夏まっさかりの今読みたい、読んで気持ちがすずしくなるような小説が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
https://note.com/bunkatsu/n/nb6dc3ce24df7

#文活 #短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?