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死ぬことはなぜ怖いのか

俺という存在は28年分のリールが巻きついた一本のフィルムであるように考えられる。

分かりづらければ、長い長い筒状の絵巻物のようなものを想像すればいいだろう。

まあつまり、28年分の「記録」が一つに形をなしているなら、比喩はどうでも構わない。

だがよく考えてみると、このような「記録」が引き継がれるという出来事はこの「記録」の中には存在できない(のだからフィルムや絵巻物という閉鎖的ですでに繋がって一面的になっているものを例えに持ち出すのは、おかしかったのだ)。

すると、たしかに28年間生きてきたという記録をもつ人間がいるのだとしても、次の瞬間に45年間生きてきた記録をもった人間になってないとは言えない。そのはずである。

おそらく、いわゆる輪廻転生とはこのような発想から生じたのだ。

輪廻転生のよくある描かれ方としてはまさしくフィルムや絵巻物であるだろうが、輪廻転生の興味深さは、むしろこれらの平べったい一面的なものを「切断」するという描かれ方がされなければ、片手落ちである。
輪廻転生のおもしろさは、その転生がどの時間軸にも位置付けられないという点にある。そういった意味では、俺は常に輪廻を転生しているのだ。

となると、なぜ死んだり殺されたりするのは怖いのだろうか?
輪廻転生を突っ切って解釈すれば、そもそも常に切断=死は起きており、同じ人間(つまり虚無・ラ・ガエリ)であり続けているという可能性とまったく違う人間であり続けている(ひょっとするとさっきまで夏目漱石だった)という可能性とを今の俺には区別できないのだ。つまり、さっき死んだのかもしれないのだ。

それなのに、未来にある死、となると急に肌寒くなるのはなぜなのか? 

「これからお前の脳を破壊して殺すが、お前の考えによれば、それは生き続けていることと区別がつかないのだから構わないだろう?」

なるほど、構わないはずだ。先述のとおり常に輪廻転生しているのだから、変わらないはずなのだ。

だが、おそらくだれもこれに首肯しない。死にたくない。
「区別がつかないこと」と「区別がないこと」は違うのだ、そう言いたいはずである。 



混乱してきた。整理してみたい。

・転生をする瞬間つまり、記録を引き継ぐその瞬間は記録に残らないこと。これは切断であり同時に死と言えるが、我々が恐れているのはこういった引き継ぎを念頭においた切断=死ではなく、そもそも記録が引き継がれない可能性という意味での死ではないだろうか。
・いや、引き継ぎが起きているか起きていないのかを我々は判断できない。はっきり言えば我々は、観念上の死(引き継ぎを念頭においた死)と実際の死(引き継ぎがない)を区別できないのではないか?記録の引き継ぎの瞬間はその記録にはないのだから。そうつまり、死ぬその瞬間は知り得ないのだから。

ここまで話が進んだといえる。
このように整理して、俺は先ほどの問いを訂正しなければならないという必要性を感じる。

「なせ死ぬことは怖いのか?」よりも前に、
「なぜ我々は死ぬという現象を理解していることになっているのか?」があるように思うのだ。

というのも、区別がつかないことが区別がないことにはならないのはもちろんだが、区別というのは人間のすることだからである。
なにより、仮に区別がついていないのだとしたら、そもそもどうやってその区別のつかないはずの「死」というもの自体を考え出せたのだろうか?
だからもし、死ぬという現象を何らかの形で理解していなければ、それは区別がないと言われてもきちんと否定できないのだ。















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