カサンドラ妻は見逃すな! アスペルガー・ADHD夫が たった2週間で激変する方法
【大人の発達障害、その情報が妻を絶望させる】
ここ数年で大人の発達障害の理解が少しずつ広がり始めたことは、同時に夫やパートナーについて理解の及ばない言動に苦しんできた妻が気づきを得るチャンスとなり、ある意味での希望や展望を見ることができる時代になった。
しかし、その情報の拡散は受け手にとって誤解を招く表現であることも多く、その情報のネガティブな内容を見聞きするままに受け止めてしまい、解決の方法を間違い苦しんでいる人が多くいるのが現状ではないだろうか。
その最たる表現が『病気ではないから治らない』という文言だ。
筆者は心理職であり、その関係で短い年数ではあるが軽度発達障害の子ども達を支援する仕事に就いていたにも関わらず、夫の発達障害に微塵も気づかず 結婚後の彼の変貌に驚き戸惑い鬱症状になり、体を壊し10年という地獄の日々を送った。
それがカサンドラ症候群と呼ばれる症状だと知ったのはほんの2年前である。
カサンドラ症候群という名称は医学的な診断名ではなく、Wikipediaには「アスペルガー症候群の夫または妻(パートナー)と情緒的な相互関係が築けないために配偶者(パートナー)に生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である」と記されていて、その精神的苦痛はアスペルガー当事者と一緒にいる時間中ずっと、毎日毎日続く。
適応障害をイメージしてもらうとわかりやすい。
発達障害を持つ子ども達の見せる言動には、その支援に携わっている専門家であれば わかりやすい特性が見て取れる。実際、筆者は小学校を幾つも掛け持ちして授業参観で実際に子ども達を見て回り、教員や護者から相談を受けて該当児童が発達障害の可能性を持っているかどうかの見立てを仕事としていたが、その見立てを誤ったことはなかった。
しかし、子ども時代に見過ごされてしまい、苦労しながら何とかコミュニケーションを表面的にこなす技術を身につけた、いわば長年の経験により所作振る舞いのできる大人である夫の言動は、子ども達の様子とは遠からずも近からずだった。もしかして?と頭をよぎることはあったが、企業で管理職につき人事査定や面接など人とかかわる業務もこなしている彼を発達障害の枠に当てはめることは難しかったし、彼を悪者に仕立て上げようとしている気分になり罪悪感を覚えた。
夫との理解不能な毎日を過ごしてきた筆者にとって、それは “地獄 ”としか言いようのない、誰にも理解されない苦しみだった。
昨今 少しずつ その特性や対応法など認知され始めている大人の発達障害。夫の摩訶不思議な思考回路や激昂、大音量でしゃべり続け電源を切ることができないラジオのようなノンストップマシンガントーク、キャッチボールなしの会話、どんなに話し合っても彼から情緒的な言葉が発信され
ることがない暮らしに疲弊しきっていた筆者にとって“障害”というワードは思いっきり筆者を絶望させた。頭の中には床に崩れ落ちる自分がいた。
「病気ではなく脳機能障害であるため治るということはない」
「配偶者がその特性を理解することが大切」
というのが大人の発達障害に対して周知されている情報だ。
筆者の夫が大人の発達障害を抱えていたとわかってから、何か改善方法や妻としてできることがあるのではないかと一瞬の希望を得たものの、「治ることはない」という言葉に何度 絶望を感じただろう。。。
追い打ちをかけるのが「配偶者がその特性を理解することが大切」の文言だ。この言葉を勘違いしない人は専門家以外にいないであろう。配偶者がその特性を理解することとは、発達障害を抱える夫を持つ妻にとって “あなたにとって夫の思考や行動が どれほど あなたを苦しめても、それは発達障害の特性であり治るということはないから受け入れてくださいね”と言われている、そう受け取れる。
【サトラセであり、押し売りストーカーである】
筆者の夫はADHDとアスペルガーの混合型で、多動や口多動、感情のコントロールが難しい、マイルールが絶対という思考などの特性が特に際立つ。目に入ったり関りを持つ事柄、人、建物、交通事情に至るまで湧き出て止まらない批判が日常生活を支配していた。彼が何に対して不満を感じ批判するのかは彼の自由だが、それを筆者に逐一 全て吐露する、つまり頭に浮かんだらもう口に出さずにはいられないのだ。
昔、サトラレという映画があったのをご存知の方はいるだろうか。
主人公の頭に浮かんだこと(心に思ったこと)は全て周囲に伝わってしまうため、周囲の人々は気づかないふりをして主人公の尊厳を守ってあげるという心温まる映画だ。
我が家の場合は一切 心温まらず、聞かされる方はネガティブと攻撃性の洪水の中で気が狂うか死ぬかという状態で身悶える毎日だった。
この、口から全部言葉が出ちゃう、サトラレとは真逆のサトラセ状態の積極的な発信は、
直接話せない出張で離れている場合、起床から就寝までの逐一をメッセージで送ってくるという形に変わる。
これは彼が持つ障害の特性、衝動性と多動性からくるものだ。
外食に至っては、店内、オーダーを待っている時の水、最初に運ばれてきた料理から順次、食べ終わり空になったお皿までの一連がライブで次々と送られてくる。
「もう辞めて!」とメッセージ上で筆者が叫ぶまで、それは日に50通でも続くのである。サトラレというより無理やりサトラセ夫なのである。
例えば、いわゆるストーカーであれば、筆者の起床時間から外で食べたものを逐一カメラに収めるのかもしれないが、我が家の場合は彼の生活を本人自らが逐一カメラに収めて送りつけてくる。
「押し売りストーカーかっ!」と携帯に向かって罵倒したくなるような状況なのだ。
【大魔神とアントニオ猪木】
そして、もう一点 筆者をとても苦しめていた彼の特性がある。
感情のコントロールが難しいことに加え、「声のボリューム調整が苦手」「思い通りにならないとパニックになる」「異なる意見に対して自分が攻撃されたと感じ逆切れする」などの要素が相まって突然地雷が大爆発することだ。
定型(発達障害を持たない人)同士の会話であれば 引っかかることもなく笑って流れる会話が、鬼の形相、突然の激昂と怒鳴り声、罵倒になるということに筆者は疲弊しきっていた。
1つ例をあげると、引っ越し後に夫と新居の窓に設置するカーテンレールを見に行き必要なレールの本数で意見が分かれたことがある。夫は6本だったと言い、筆者は7本必要なはずという記憶であった。通常であればどの部屋に幾つ必要だから計何本だよねという確認をお互いにすれば済むことだが、夫はここで みるみる形相が険しくなり鬼のようになる。そして大声で怒鳴り出す、「何言ってるんだよ! 君は頭が悪い! 数が間違ってる!! 6本なんだよ、6本! 6本だろーーーーっっっ!!!!!」
店内にいるカスタナー達がぎょっとした顔で一斉にこちらを見る。
あんたは大魔神かアントニオ猪木かよ、である。
店内中に響き渡るほど腹の底から出す大声で、鬼の形相で怒鳴りまくる。そんなことが日常茶飯事だった。
こんなモラハラ全開の暴君を、障害の特性だから理解しなげればと受け入れていたら妻は心が崩壊してしまう。実際 崩壊しかかった。
こういった、情報の誤った受け止め方がベースになって鬱や体調不良になりカサンドラ症候群の妻が増え続けていることに筆者はやるせない気持ちになるのだ。少子化の一途をたどる日本にとって人口増加は嬉しいニュースだが、カサンドラ妻の増加は祝えない。
離婚をしてしまえば解放される苦しみとはいえ、離婚をしないのには誰しもそれぞれに想いや事情があるからで、筆者もほとほと夫との生活に疲れ、残りの人生を毎日こんな気持ちで送るということの無意味さから1度は離婚の決意をして準備を始めた。しかし、いざ準備を始めると不都合も起き、ならば『自分ができることはやり切ったと思えるところまでやり尽してみよう』と見る方向を変え、自身のメンタルヘルスケア、夫の行動変容を促す様々な心理技法、自分と対峙することなど、成果がなくて転んでは他の方法に期待をもって起き上がるということを延々とトライし続けてきた。
【おいおい、もしや希望の光? わずかずつだが改善!】
様々な心理技法を駆使し、夫婦関係改善の講座で学び、仕事のブラッシュアップも兼ねコミュニケーショントレーナーの資格も取得、自分の意識改革にも取り組んだ。その甲斐あって幸いにも筆者の夫はわずかずつだが変化が見られた。わずかずつ変化をしていく夫を見ていて思い出したことがある。
発達障害を持つ子ども達の状態は環境次第で良くも悪くもなるため、集団生活やコミュニケーションへのソーシャルスキルトレーニングで より良い状態になるよう(改善)を支援していたことを。
対応する人間の意志と姿勢が重要であったのだ。筆者は自身の意識改革をはかったことで夫に対する自分の弱点、食べさせてもらっているのだから大きな口をたたいてはいけない的な上下関係を自ら作ってしまうという弱点を
ポジティブに変換することができたことも力となった夫婦関係のパワーバランスを整える力となった。
こういったトレーニングや働きかけは成長期の子ども達のみに有効であって、大人、とりわけ既に中年と言われる年齢になってしまった人たちには無理なのだと捉えていたのだが、多方面からのアプローチを試し続けた結果、
大人の発達障害であっても、結婚生活が継続できる改善の可能性があることの手ごたえを感じたのである。
確かに、病気ではないので根本的な完治はなく特性そのものが消えることはないが、環境によって該当児童が荒れたり、穏やかだったり、朗らかだったりというように状態が変化する様子を、この目で見て、経験してきた。
そこで夫を「成熟した大人の男性」として見ることを少しの間お休みし、彼の行動をかつて支援してきた子ども達とみなして対応してみた。そこに至るまでには筆者自身が自分と向き合い、夫との関係を精神的に自立した人間として築けるようになるという時間が必要ではあったが。
精神的な自立は結婚生活の維持に重要な要素で、その意味で「結婚生活が破綻したらどうしよう」という恐れ(彼への種々の依存)が解消されてからは面白いように彼の反応が変わり、私たちの関係は それまでに比べると格段に良くなった。
【格段に良くなった関係のからくり】
格段に良くなった私たちの関係。そこには夫への気遣いを一切やめたという、世間の常識と真逆の対応がある。
思いやることを辞め、妻としてやるべきことを淡々とこなす。こちらから話しかけることもしない、気持ちの上では家族という想いをもちつつ生活は1人でしているものとして頼ったり相談などはせず全て自分の力でする。夫からの会話にはお付き合いするが外出なども基本的には同行しない。彼が困っていることは助けるが、筆者自身が困ったら業者を利用するなど一人暮らしであるように対処する。
夫にわかってもらえない苛立ちを顔で表現するとか、そういった精神的依存がなくなった筆者は、ただただ普通に生活を営んだ。寮母さんのような感じだろうか。
筆者の態度が気に入らなくて夫が離婚をしたいならそれで結構と腹も決まっており、一切の気遣いを辞めたことで肩の力が抜け、とても楽になった。朝の挨拶でこちらの顔を見ない夫に落胆することもない、なぜなら筆者も「おはよ~」は言うが彼の顔を見ての挨拶は辞めたから。彼のマシンガントークにストレスを感じながら付き合うことも辞めた、耳が痛くなってきたらほかの部屋へ移動。外出に誘われても「私はいい」と断る。これまで家族であれば当然と思い込んでいた思いやりや気遣いを手放すってなんて楽なんだろう!
一方、夫はさぞ筆者の変化に戸惑っているだろうと思いきや、なぜだか安定している。10年余りの結婚生活で、かつて見たことない落ち着きようだ。いつ夫が筆者の変化に怒り心頭になるかと様子を見ていたが肩透かしをくらった気分であった。
そこでハタと気づいたのだ。彼はそもそも挨拶の際も筆者の顔を見ないし、筆者が彼の顔を見なくなっても気がつかない、他人にあまり興味がない。発達障害の特性ゆえ自分ファーストだし、常に頭の中に自分がやりたいことが次々に思い浮かぶ上に急な予定の変更が苦手。つまり、筆者が話しかけたり、「何故顔を見て挨拶をしないの」と咎めることもなくなり、用事を頼まなくなったことにより、彼の頭の中は「彼のことだけ」という独身でいた頃の状態に戻り、邪魔な情報が入らなくなった結果 安定したのだ。
考えてみれば至極シンプルなことなのだが、目から鱗が落ちるような発見でもあった。
筆者がいつまでも “温かい(と筆者が定義する)家庭” や “愛し合っていると感じられる夫婦 ”にこだわって目が合うことや会話のキャッチボール、「君は頑張ってるよ」「つらいね」など情緒的な思いやりを彼に期待し続けていたら、このご褒美は手に入らなかった。ある意味、棚ぼたラッキーである。
こうして私たちの関係はなかなか良い距離ができ、だいぶ過ごしやすくなった。
とはいえ、彼の激昂がゼロになることはなかったし、弾丸トークがいくらか減ると、代わりに絶え間なく足をゆすり続けるという新たな症状が顔を出し、その貧乏ゆすりが筆者の大きなストレス材料として残っていた。
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