2021共通テスト問題分析 国語

【はじめに】

   こんにちは!国語の問題分析を担当する文科三類色々あってまた1年のいちのすけです。今回は共通テストの問題分析に加えて「どのように考えて解いたか」にフォーカスした解説を別リンクで付けてみようと思います(普通に書いたら某進予備校とかが出してるのと似たようなもんになっちゃいそうだし、、、)。
 やりやすい解法は人それぞれなので100%私の真似をする必要は全くありませんが、解法が安定せず勘で解きがちな方や参考書の真似をしてるけどイマイチ物にできていない方には是非これを読んで参考にして頂ければと思います!

※筆者は漢文→古文→評論→小説の順で解いていましたが読みやすさ重視で大問順に載せています。

①第一日程(1/16)

【概論】

  全体的に思いの外センターっぽいけど、「授業中の一コマ」のような問題が出てきている印象。

 評論は傍線部を分析して選択肢を選ぶという従来の問題ではなく、傍線部が本文のキーワードになっており各段落の内容を要約できれば比較的容易に答えが出せた。問5は新傾向っぽいが見出し付け、要約、資料を踏まえての本文考察のいずれも要約力が大切。

 小説は今まで通り傍線部の言い換えや理由説明をする問題がメイン。感情語のコアイメージを押さえることも大切。問6が新傾向っぽいが批評文の読解はリトル評論問題であるし、考察問題もセンター小説の表現問題と同じようなもんである。本質的にはセンターとあまり変わっていないように思える。

 古文は大きな変化が見られなかった。単語や助動詞のニュアンスをしっかり掴んでいることが大切。主語がほとんど明示されていないのでちょっと読みにくい。尊敬語が使われていることや選択肢の内容などから長家(亡き妻の旦那)が主語だと分かりたい。あとはザックリ長家が何を思っているか描写を追っていけばいい。問5は一応新傾向だがただ和歌が増えただけで従来の和歌読解である。

 漢文も文章が2つになったもののやることは変わらない。単語や句法の知識知らない単語の推測力が武器になる。2つの文章に共通する主題である「人馬の調和」を念頭に入れると選択肢が選びやすい。文章が複数なだけに共通する主題を見抜く力が重要。

【解説】

 第1問(評論文) 

 〜リード文と問題文を読む〜 

 リード文からタイトルに注目。「江戸の妖怪」がテーマっぽい。「革命」とあるので何かが変化していることが読み取れるのかもしれない。

 問1は漢字。同音異字を当てちゃう可能性もワンチャンあるので一応傍線部に辿り着いてから解く。とりあえずスルーで。

 問2は傍線部の言い換え問題。「民間伝承としての妖怪」が出てきたら要チェック。

 問3も言い換え。「アルケオロジー」ってなんだろな?よー分からんけど説明してくれるはず。要チェック。

 問4もまたまた言い換え。妖怪が「『表象』化」するらしい。カッコをつけるぐらいなら説明が入る重要なワードなはず。要チェック。

 問5は新傾向くさい。(ⅰ)は見出しをつけろ問題だから2〜3段落4〜5段落をそれぞれ読んだら解いてみる。本文の要約があるのは地味に嬉しい。(ⅱ)は英語でよくある要約の穴埋めといった感じ。近世(人間がⅢを作り出す)と近代(ⅠⅤが認識されて妖怪がリアリティを持つようになった)との二項対立に注目。(ⅲ)は考察の穴埋め補充という感じ。近代の「私」観(自己分裂?)に注目。

〜本文を読む〜

 1段落は「フィクションとしての妖怪」がいかなる歴史背景のもとで生まれてきたのかという問題設定の段落。
 2段落は近世中期に発展した領域である「フィクションとしての妖怪」という領域の歴史性を主張する段落。
 3段落ではそもそもの妖怪は「日常的理解を超えた不可思議な現象に意味を与えようとするミンゾク(民俗)的な心意から生まれたもの」であったと述べている。つまり自分の経験や知識で説明ができないものを「妖怪のせいなのね」と考えることでなんとか秩序立てることで不安や恐怖を解消していた、というわけである。このような「リアリティ」をともなう妖怪「民間伝承としての妖怪」であった。
 4段落では先述の「民間伝承としての妖怪」と「フィクションとしての妖怪」とは性質の異なるものであるため、後者の領域が成立するために妖怪に対する認識が変容したはずだと述べている。
 5段落では妖怪に対する認識がどのように変容したかいかなる歴史的背景から生じたのかと前段を受けて1段落の問いを詳しくして問題の再設定をしている。
 6段落では前段の問いに対してフーコーの「アルケオロジー」の手法を用いることで考察すると述べている。
 7段落では「アルケオロジー」を「思考や認識を可能にしている知の枠組み-『エピステーメー』の変容として歴史を書き出す試み」と説明している。この「エピステーメー」とは事物の秩序を認識するために事物の間に関係性をうち立てる「時代とともに変容する」枠組みであると書いてある。つまり「アルケオロジー」は人間が設けた(not「客観的」)思考や認識の枠組みの変容から歴史を捉える営みである。
 8段落では前段で述べた「エピステーメー」の変容を「物」「言葉」「記号」「人間」の関係性の再編成とするフーコーの著作を紹介して「知」のあり方の変化について述べている。
 9段落では前段までで述べられた「アルケオロジー」という方法によって「同時代に存在する一見関係のないさまざまな文化事象を、同じ世界認識の平面上にあるものとしてとらえることを可能」とし「日本の妖怪観の変容を、大きな文化史的変動のなかで考えることができるだろう」と述べている。所謂「ヨコの歴史」を捉えられる、というわけである。
 10段落からは「アルケオロジー的方法によって再構成した日本の妖怪観の変容について」述べられている。
 11段落では妖怪を神霊からの「言葉」を伝える「記号」とする中世の妖怪観について述べている。そして「人間」は所与のものである「記号」として存在する「物」を「読みと」り、神霊に働きかけることしかできなかった。「人間」にとって妖怪は神霊から与えられた「記号」でしかなかった「民間伝承としての妖怪」だったのである。
 12段落では近世に「物」から「言葉」や「記号」といった性質が剥ぎ取られ、「物」そのものとして認識されるようになっていったことが述べられている。
 13段落では近世では前段の「物」の認識の変化に伴い、「記号」が「人間」によって完全にコントロールされるようになったと述べられている。こうした記号が「表象」である。
 14段落では妖怪という「記号」も伝承や説話といった「言葉」の世界から切り離され、名前や視覚的形象によって弁別される「表象」に変化したと述べられている。妖怪の「キャラクター」化である。「物」が自然から人間の支配下に入ったことで妖怪はリアリティを喪失し「フィクションとしての妖怪」になったのである。
 15段落では近代に妖怪が「リアリティのなかに回帰する」と述べられている。
 16段落では近世では絶対的であった「人間」が近代になると妖怪を「見てしまう」不安定でコントロール不可能な部分を抱えた存在として認識されるようになったと述べ、(フロイトの夢診断などが良い例)フィクショナルな「表象」だった妖怪が「人間」そのものの内部に棲みつくようになったと述べている。
 17段落では近代特有の私にとって「不気味なもの」であるいっぽうで未知なる可能性を秘めた神秘的な存在である「私」という思想について述べ、近代の妖怪は「私」をトウエイ(投影)したものであるとしている。
 18段落はまとめの段落である。

〜問題を解く〜

 問1(ア)「民間伝承」なのだから「民族」より「民俗」が適切。各選択肢は「所属」、「海賊」、「良俗」、「継続」なので3が正答。(イ)「喚起」なので「召喚」、「返還」、「栄冠」、「交換」の中なら1が正答。「喚」と「換」の違いに注意。(ウ)「援用」なので「沿線」、「救援」、「順延」、「円熟」の中なら2が正答。(エ)「隔てる」なので「威嚇」、「拡充」、「隔絶」、「地殻」の中なら3が正答。(オ)「投影」なので「投合」、「倒置」、「系統」、「奮闘」の中なら1が正答。
 問2の「民間伝承としての妖怪」第3段落にまとまっている。正答は1。「日常世界の中に導き入れる」が気になるかもしれないがリアリティをともなう妖怪観と合致している。2は「フィクションの領域」がマズイ。「フィクションとしての妖怪」とは別物である。3は「予測される未来の不安」を「認識」というのが二重に間違い。予測できない不安の解決策が妖怪なのである。4は「意味の体系のリアリティ」を「気づかせる」というのが間違い。意味の体系に導き入れるのが妖怪である。5は「意味論的な危機」を「生み出す」が間違い。危機の原因ではなく解消策である。
 問3の「アルケオロジー的方法」については6〜9段落で説明がある。1は「考古学の方法に倣い」「客観的な秩序を復元」が間違い。人間の知の枠組み(「客観的」ではない)に注目する方法である。2が正答。エピステーメーの変容にまで述べられていてgood。3は「文化事象を」「分類して整理」が間違い。エピステーメーを「物」「言葉」「記号」「人間」の関係性から捉えるのであってこれらは文化事象そのものの分類ではない。4で述べているのはアルケオロジー的方法がもたらすものであるので三角。5は「関係性」そのもの(エピステーメー)ではなく、その変容に注目したいので不適切。
 問4の「妖怪の『表象』化」については12〜14段落に注目。「〇〇化」とあるので変化前の11段落も踏まえられれば完璧。1は「人間が人間を戒めるための道具」とは述べられていないので不適切。2は中世から近世への妖怪観の変遷を正しく追えているので正答。3は「人間世界に実在するかのように」が間違い。妖怪はフィクショナルな「キャラクター」になったのである。4は表象化の原因を述べているので不適切。5は「人間の性質を劇画的に継承」とは書かれていないので不適切。
 問5(ⅰ)はまずⅠについて「娯楽の対象としての妖怪」、つまり「フィクションとしての妖怪」については第2段落でしか述べられていないので1、2、3は不適切。2段落では直接「歴史性」というとワードを用いており、3段落で述べられている「民間伝承としての妖怪」はそもそもの妖怪観であるから2〜3段落の見出しとして4「妖怪に対する認識の歴史性」という見出しが最も適切。一応Ⅱについても見てみる。「意味論的な危機から生み出される」のは「民間伝承としての妖怪」なので1は不適切。「妖怪娯楽」は第2段落の内容のはずなので2も不適切。やはり3、4にある「妖怪認識の変容」が見出しとして適切。
 (ⅱ)はⅢについて近世の妖怪観11〜14段落に注目。14段落には妖怪という「記号」が「言葉」から切り離されて「キャラクター化」したとあるので3が適切。1、4はそれぞれ「恐怖を感じさせる」、「人を化かす」が本文中にないので不適切。2は「言葉を伝える」のは中世の妖怪観なので間違い。
 ⅠⅤについて近代の妖怪観15〜17段落に注目。妖怪がリアリティを持つようになったのは16段落を見ると人間の不安定さ、コントロール不可能性が原因だと述べられているのでが適切。1、3にある人間観は近世のものであり不適切。これが揺らぐのが近代である。2は「私」が「自立した人間」とあるのが不適切。寧ろ思い通りにならないのが「私」である。
 (ⅲ)は近代の「私」観についての考察である。ノート3にはドッペルゲンガーが自分の知らないところで活動している様子が書かれている。選択肢を見ると1は「別の僕の行動によって自分が周囲から承認」「他人の認識の中で生かされている」は本文にない内容なので不適切。2自分にはコントロールできない「私」観に合致するので正答。「ひとまずは安心」という表現も「仕合せにも」と対応していると見ることができる。3は「自分に代わって思いをかなえてくれた」が本文中にないので不適切。4は「分身に乗っ取られる」が本文中にないので不適切。5は「他人にうわさされることに困惑」が本文中にないので不適切。


第2問(小説文)

 〜リード文と問題文を読む〜 

 リード文からタイトルの「羽織と時計」がキーワードらしいことが分かる。「私」の同僚であるW君は苦しい生活を送っている上に病で休職していたことも分かる。
 問1は語句の意味問題。読んでから文脈を見て考える。
 問2は傍線部の言い換え問題。「擽ぐられるような思」とはなんぞや。
 問3も言い換え。「やましい」「気恥しい」「重苦しい」に対応する表現を探してみる。
 問4は理由説明問題。「妻君の眼」が「私」にとってどのような意味があるのか考えてみる。
 問5は傍線部の説明問題。「W君の家の前」で「餡パン」を買うことにはどのような意味があるのだろうか。 
 問6は新傾向。批評文の読解問題といったところ。(ⅰ)は傍線部説明問題。「羽織と時計とに執し過ぎたこと」が否定的に見られているようだがなぜだろうか。
 (ⅱ)は考察として適切なものを選べ問題。「羽織と時計―」の繰り返しに注目。

〜本文を読む〜 

 ※便宜上独自の場面分けをします。
 場面1(1〜14行目)にはW君が休職中の世話への「ほんのお礼の印」として「私」に羽二重を用意してくれ、それを「羽織」にしたことが書かれている。
 場面2(15〜28行目)からは「貧乏な私」にとってW君から貰った羽織が「最も貴重なものの一つ」であることが読み取れる。羽織が貰い物であることを妻に打ち明けていないので「私が結婚の折に特に拵えたものと信じて」羽織を褒める妻に対して「擽ぐられるような思」をしながら誤魔化している「私」の様子も読み取れる。また、「私」にとって羽織は「着る毎にW君のことを思い出さずに居な」いものであったと分かる。
 場面3(29〜42行目)には転職する「私」にW君が記念品として「懐中時計」を贈ってくれたとある。この記念品について社の同人がW君を非難したことに対して私は「非常に不快を感じ」、「W君に対して気の毒でならなかった」らしい。また、W君の情誼に「涙ぐましいほど感謝の念に打たれる」と同時に「常にある重い圧迫」を感じていたようである。
 場面4(43〜44行目)には「羽織と時計―」という「私の身についたものの中で最も高価なものが、2つともW君から贈られたものだ」という意識が「私」に「感謝の念」「なんだかやましいような気恥しいような、訳のわからぬ一種の重苦しい感情」を起こさせるとある。
 場面5(46〜52行目)にはW君が病気を再発し、パン菓子屋を始めたことを聞いたとある。しかし交友の範囲の変化や仕事の忙しさ故に「一度見舞旁々訪わねばならぬと思いながら、自然と遠ざかって了った」らしい。「久しく無沙汰をして居た」ことに対して「一種の自責を感ずれば感ずるほど、妙に改まった気持になって、つい億劫になる」ようである。
 場面6(53〜65行目)には「羽織と時計―」を持って居ることで「私」が「常にW君から恩恵的債務を負うて居るように感ぜられた」ために「不思議にW君の家の敷居を高く思わせた」とある。そして「私」は羽織や時計「良人が進げたのだ」と言うW君の妻の眼、「尽すだけのことは尽してあるのに」無沙汰を続ける「私」を「随分薄情な方ね」とW君に向って責める様子を想像して「W君よりも、彼の妻君の眼を恐れた」らしい。
 場面7(66〜73行目)では「逃げよう逃げようとし」てW君のもとへ「迚も行く気にはなれなかった」ために「何か偶然の機会で妻君なり従妹なりと、途中ででも遇わんことを願った」とある。
 場面8(74〜80行目)では「陰ながら家の様子を窺い」「全く偶然の様に、妻君なり従妹なりに遇おうという微かな期待をもって居た為め」散歩中W君の店へ子供に食べさせる餡パンを妻に買わせたことが描かれている。結局その期待は叶わず、それ以来「私」はW君の店の前を通ったこともないらしい。

〜問題を解く〜

 問1(ア)「術」とは「手段・方法」のことであるから2が正答。(イ)「食いっぱぐれる」という似た言葉を思い出すと良い。「食べそびれる」という意味合いで使う言葉であろう。「言いそびれる」という意味なのは2である。(ウ)「足が遠くなる」とは2、4のように文字通り「距離が遠くなる」わけではなく「会わなくなり、疎遠になる」ことであるため1が正答である。

 問2の「擽られるような思」場面2にある。「くすぐったい」という言葉には「くすぐられてむずむずする」の他にそこから派生した「きまりが悪い」という意味もある。羽織が貰い物だということを妻に言いはぐれたことに対する気持ちであろう。1は「笑い出したい」が不適切。馬鹿にするというよりはむずむずした気持ちなのである。2は「不安」とは書いていないので不適切。3は「落ち着かない気持ち」がきまりの悪さと対応している。「後ろめたさ」はともかく「ほめられた嬉しさ」はイマイチ読み取れないがむずむずした気持ちと呼べる感情ではあるのでギリギリ許容。4はただの奥さん大好きマンなので不適切。5「妻への不満」は読み取れないので不適切。「妻」も馬鹿にしたわけではないだろう。「どのような気持ち」問題は感情語のコアイメージを押さえておくだけで解けてしまうことも多い。

 問3の感情は場面4にあり、原因は場面1〜3で描かれた羽織と時計である。「身についたものの中で最も高価なもの」を決して裕福とは言えないW君に貰ってしまったことに対して後ろめたさ(「やましい」)きまりの悪さ(「気恥しい」)を感じ、ある種の負担(「重苦しい」)とまで思ってしまっているのである。1にあるような「自分には到底釣り合わない」という感情、W君の厚意へのとまどいという解釈が妥当。2は「さしたる必要を感じていなかった」とは述べられていないので不適切。3は「欲の深さ」が述べられていないので不適切。懐中時計を貰うことは「私」の希望だが、記念品を贈ると決めたのはW君である。4は「哀れみを感じ取っている」が「重苦しい」とイマイチ対応していないので不適切。しかもW君も生活は苦しいのだから哀れむ立場にはなさそうである。5は「見返りを期待する」が書かれていないので不適切。また、羽織を贈ったことは誰からも批判されていない。

 問4の感情は場面6で述べられている。1のようにW君の「厚意」(羽織と時計)にも関わらず疎遠になってしまった「私」を「冷たい」(「薄情ね」)と思われるかもしれないと考えたことが原因である。2は「彼の恩義に酬いる番」とは書いていないので不適切。何かを贈ろうとは考えていない。3は「つい忘れてしまうふがいなさ」「偽善的な態度」については述べられていないので不適切。4も2と同様に「厚意に酬い」ようとはしていない上に「卑屈にへりくだらなければならないことを疎ましく」感じたとも書かれていないので不適切。「恩恵的債務」をW君と妻君につい感じてしまうのである。5も「窮状を救いたい」とは述べられていないので不適切。「債務」という単語から「返済」(高級品を贈り返す、経済的支援など)することを連想するのも完全に誤りとは言えないが(かなり立派な手土産を持って行きたいとは思っているわけだし)1のように文中で直接述べられている内容が連想ゲームよりも優先である。

 問5の行動は場面8にある。5のように「偶然を装」ってW君と会う、こっそり「様子を窺う」ことが目的である。「今更妻に本当のことを打ち明けられない」も餡パンを子供に食べさせるため、と誤魔化しているところと対応している。1の「質素な生活を演出」は述べられていないので不適切。というかW君に失礼すぎる、、、。2の「疎遠になってしまった後悔」は述べられていので不適切。また「妻にまで虚勢」というよりはW君のことを未だに話せていないので誤魔化している、と言った方が適切だろう。3の「せめて店で買い物」は述べられていないので不適切。4の「間柄がこじれてしまった」り「誤解」されているとは書いていないので不適切。場面6の妻君の様子は全て「私」の想像である。

 問6の【資料】では加能(作者)は「生活の種々相を様々な方面から多角的に描破して、其処から或るものを浮き上らせ」ることによって「作品の効果を強大にする」ことが長所であったが、『羽織と時計』では「ライフの一点だけを覘って作をする」「小話臭味」が多すぎると批判している。「W君の生活、W君の病気、それに伴う陰鬱な、悲惨な境遇を如実に描くこと」(上記で言う「或るもの」)を求めているのである。

 (ⅰ)は評者の意見の要約である。1は「多くの挿話」はむしろ逆で羽織と時計に執着しすぎたことを批判しているのである。よって間違い。2は「出来事を忠実に再現」が誤り。むしろ小話臭味のせいでW君の描写が如実にならなかったのである。3は「美化している」とは評していないので誤り。4のように「挿話の巧みなまとまりにこだわ」る「小話臭味」のせいでW君の描写が「断片的」になってしまったことを批判しているのである。        (ⅱ)の「羽織と時計―」があるのは場面4と場面6である。1は「W君を信  頼できなくなっていく」とは書いていないので誤り。会いに行きにくくなってしまっただけである。2は「複雑な人間関係に耐えられず生活の破綻」が書いていないので誤り。生活が貧しくなったのはW君の病気が原因である。3は「私」の言葉から「W君の思いの純粋さ」を読み取るのは無理があるので不適切。4のようにW君の厚意が逆に会いにくさの原因になっている「切ない心中」を表しているとの解釈が妥当である。


第3問(古文)

〜リード文と問題文を読む〜

 「中納言殿」の妻が亡くなり、法成寺に移されている場面である。出典は『栄花物語』。藤原氏の発展を描く歴史物語である。
 問1は現代語訳問題。文脈を踏まえて訳す。
 問2は理由説明。「今みづから」とはなんなのだろうか。
 問3は語句表現説明。誰が誰に何を「もてまゐ」ったのだろうか。敬語にも注目したい。
 問4は登場人物についての説明。登場人物の描写に注目。
 問5は和歌の解釈問題。2つマークしなければならないので注意。

〜本文を読む〜 

※全訳は世の中に出回っているので、意味を知っていることが求められていないであろう単語や解釈が問題に関わる単語はあえてそのままにしておく。

 大北の方も、個人と縁故のあった人々も、またおしかへし横になってまろびなさる。これをさえ悲しくひどいことと言わなければ、また何事を(悲しくひどいことと言う)だろうかと見えた。そのまま亡骸を運ぶ御車の後ろに、大納言殿、中納言殿(長家)、しかるべき人々がお歩きになる。言葉では言い尽くせない様子で、「えまねびやらず」大北の方の御車や、女房たちの車などをひき続けた。御供の人々など数知らぬほど多い。法成寺には、通常の御移動にも似ない御車などの様子に、僧都の君は、御目もくれて、見申し上げることがおできにならない。そのまま御車かきおろして、ついで人々が降りた。
 さてこの御忌のときは、誰もそこにいらっしゃるはずであった。山の方を眺めやりなさることにつけても、殊更でなく色々に少し色あせている。鹿の鳴く声に御目も覚めて、さらに少し心細さがまさりなさる。宮々からもお思いになり慰める御手紙がたびたびあったけれども、ただ今はただ夢を見ているようにのみ思われなさって過ごしなさる。月の大層明るいときにもお思い残しなさることがない。宮中行きの女房も、様々手紙を差し上げたけれども、「よろしきほど」には、「今みづから」とだけお書きになる進内侍と申し上げる人が、申し上げた。
    約束したであろう千代は涙の水底に枕だけ今頃浮いて見えているのだろうか
中納言殿の御返歌、
    寝起きの約束は絶えて尽きないので枕を浮かべる涙であったのだなあ
また東宮の若宮の御乳母の小弁が(詠んだ歌)、
  X  悲しさを一方では思いも慰めなさい。誰も結局留まるはずの世の中だろうか(いや留まらないはずだ)
御返歌、
  Y 慰める方法がないので世の中の無常なことも知ることができなかったのだなあ
 このようにお思いおっしゃっても、いでや、正気であるようだが、まして数ヶ月間、数年間にもなったならば、思いを忘れるようなことがあるだろうかと、我ながらつらくお思いになってしまう。何事にもどうしてこんなにと「めやすくおはせしものを」顔立ちからはじめ、心ざま、文字をうち書き、絵などが心に入り、さいつころまで御心に入って、うつ伏しうつ伏してお描きになっていたのに、この夏の絵を、枇杷殿に持って参上したところ、たいそう面白がり賞賛なさって、納めなさった、よく持って参上したなど思い残されることがないので、何事につけてもただ恋しく思い出し申し上げなさる。長年書き集めなさった絵物語など、数年前の火事ですべて燃えてしまった後、去年、今年の間に集めなさったものもたいそう多かった、「里に出でなば」、取り出しつつ見て慰めようとお思いになった。

〜問題を解く〜

 問1(ア)「えまねびやらず」は「え〜ず(〜できない)」、「まねぶ(そのまま人に伝える)」、「〜やる(〜しきる)」に注目すると4(「表現しつくすことはできない」)が正答と分かる。
(イ)「めやすくおはせしものを」は「めやすし(感じが良い)」、「おはす(いらっしゃる)」に注目すると3(「感じのよい人でいらっしゃったのになあ」)が正答と分かる。敬語までしっかり反映した選択肢を選びたい。「~しものを(〜たのに)」は全選択肢で共通だが自力で訳せたい。
(ウ)「里に出でなば」は「」の意味にまず注目。「ふるさと(古都、馴染みの土地、実家)」と同じ意味と考えれば良い。「未然形+ば(もし〜するなら※今回は“if”と解釈するとギリギリ選択肢が残る)」にも気をつけると1、2が残る。今は法成寺にいることを踏まえると「旧都」よりも「自邸」に「出づ」と解釈するのが妥当なので1(「自邸に戻ったときには」)が正答。ちなみに3、4の「ば」の訳は「已然形+ば(〜したところ)」の訳である。
 問2は「よろしきほど」の解釈がポイント。「よろし」は「よし(絶対的に良い)」とは違って「悪くはない、普通である」というニュアンスの単語であることを考えると2、3、5のように「仲の良かった」「心のこもった」「大切な」のような全面的な褒め言葉は疑ってかかるべきである。4の「見舞客の対応で忙しい」は述べられていないので1が妥当。普通の仲の人々には「今に自分でお返事を出します」とだけとりあえず書いたのである。
 問3は亡き妻が生前書いていた絵を枇杷殿に献上(尊敬語のないところを鑑みるに女房が、か?)した場面での記述である。文法的に切れる選択肢はとっとと切っておく「ままに」は「〜とすぐに」、「〜ので」、「〜につれて」といった意味で「それでもやはり」という意味はないので3は誤り(ここで自信がなければ後述の文脈でも切れる)。「させ給ふ」の「さす」は基本的に使役にならないので5は怪しい。さらに使役・受身は動詞+助動詞で一つの動詞(SがOに〜させる、SがOに〜される)と考えるので、「思ひ出できこえさす」という動詞には謙譲語がついていない、つまり枇杷殿に敬意を示していないことになる(「きこえさす」は亡き妻への敬意を示す)ので5の解釈は無理がある。続いて文脈から考えると2、3のように「後悔はない」「受け入れたつもり」のような気持ちは読み取り難い。むしろ亡き妻をズルズル引きずっている長家の様子が読み取れる。4は長家の悲しみは絵物語の焼失ではなく妻の死が原因なので誤り。残った1が適当。主語が枇杷殿じゃないのか、という疑問もあるかもしれないが全選択肢の主語は長家であるので気にしない。「よく枇杷殿に持って参上してくれた」と言っていると思えばよい。
 問4の1は「大北の方」だけが「冷静さを保って」は書いていないので間違い。2は「僧都の君」が「気丈にふるまい」が書かれていないので間違い。「御車かきおろして」には尊敬語がついていないので「僧都の君」の行為ではない可能性も大。3は7行目「ただ夢を見たらんようにのみ思されて」は「夢を見ているように思われて」なので「夢であってくれ」が間違い。4は10行目「契りけん…」の和歌では「枕ばかりや浮きて見ゆらん」とある。助動詞「らん」は現在推量(今ごろ〜しているのだろう)と見えないものを推量する助動詞である。よって「自分も」はおかしい。枕が浮くほど泣いているのは長家であろう。5は18〜19行目と対応しているので正答。「(字)」の意味を押さえておく。
 問5はまずZ の解釈。「誰も皆留まるはずにはないけれど先立たてるときはやはり悲しい」とでも訳せばよい。「あらねども」の「ね」は打消の「ず」の已然形である。選択肢を見る。1は「悲しみをかつは思ひも慰めよ」を「きっぱり忘れなさい」とは解釈できないので間違い。「かつは」は「一方で」という意味である。2は悲しみを「慰めようとしている」が間違い。Xの内容を肯定したのは譲歩表現であり、「なほぞ悲しき」が主題である。この内容を述べているのは3である。4のように「同じ言葉を用いる」ことにメッセージ性を持たせる選択肢は基本間違いである。コミュニケーションなのだから同じ言葉を用いるのは当然であり、そこに特別な意味はない。5は「他人の干渉をわずらわしく思い」が本文にないので不適切。枇杷殿に亡き妻の遺品を贈っており、人間関係自体を拒否している様子は見受けられない。6の内容は17〜18行目の「月ごろ、年ごろにもならば、思ひ忘るるやうもやあらんと、われながら心憂く思さる」と対応しているので正答。

第4問(漢文)

〜リード文と問題を読む〜

 テーマはどちらも馬車の操縦。【問題文Ⅰ】は漢詩である。【問題文Ⅱ】は馬車の駆け競べに敗北した襄主への台詞である。
 問1は漢字の意味問題。知識メインで選ぶ。
 問2は語句の解釈問題。文脈もよく考える。
 問3は適語補充。「御術」の要点とは何か。漢詩なので押韻にも注意。
 問4は返り点、書き下し文問題。知識を参考にしつつも文脈メインで考える。
 問5は傍線部解釈問題。「後則」と「先則」との対句に注目。
 問6は主題読み取り問題。「御術」と御者についてどう述べられているか。

〜本文を読む〜

【問題文Ⅰ】
私には千里を走る馬があり毛なみと骨格は「何」ひきしまって美しい
速く馳せれば奔風のようで白日の下に陰を留めることがない。
ゆっくり駆ければ大道に当たり駆ける音は伝統的な音楽と一致する。
馬に4つの足があるといえども遅さ速さは私のXにある
馬車を操る手綱は私の手に応じ大きな琴と小さな琴のように調和する。
東西と南北と山と林とを高下する。
「惟意所欲適」中国全土を「周」尋ねるに違いない。
「至れるや」人と馬といずれも楽しさを侵さない
良馬を見抜く名人はその外見を認識するが「徒」価値が千金にあたることを知る。
王良はその性質を心得ている。この技術は「固」すでに深い。
良馬には優れた御者が必須である。私の言葉はいましめとするべきだ。

【問題文Ⅱ】
 一般に御術の貴ぶものは、馬の体を車に安定させ、人の心が馬と調和することで、そうした後に速くんで遠くまで行けるはずです。今貴方は後れれば私に「逮」することを望み、先んずれば私に「逮」されることを恐れます。そもそも道に誘って遠さを争うのは、先んずるのでなければ後れるのであります。そしてんずること後れることの心は私()にあります。やはりどうして馬と調和できましょうか、いや調和できません。これが貴方の後れる理由です。

〜問題を解く〜


 問1(ア)「徒」は「ただ(ただ〜だけだ)」と読む漢字。同じ読みの字としては「」「」「」「」「」「」などが挙げられる。よって正答は1。「いたずらに」という読みも可能だがこの読みができる字は選択肢にない。(イ)「固」は「もとより(本来)」という意味なので5「本」が正答。「強固」などの熟語に引っ張られないように。
 問2(1)「何」は「なんぞ(どうして〜だろうか、なんとも〜であるなあ)」「なにをか(何を〜するのか)」という意味がある。馬を褒めている文なので5(「なんと」)と詠嘆の意味で解釈するべき。(2)「周」は中国全土を尋ねる文なので「周知」などの熟語を思い出すと3「あらゆるところに」と解釈するのが適当。ちなみに読みは「あまねく」。(3)「至哉」「人与馬両楽不相侵」に至ることについて述べている。これは1、3、5のように距離や速度の話でないのは明らかであり、2は主語が馬のみであり人間の様子に言及していないので不適切。4「このような境地にまで到達できるものなのか」が正答。
 問3はまず偶数句末の押韻に注目。「森」「陰」「音」「琴」「林」「尋」「侵」「金」「深」「箴」と「イン」という韻を踏んでいるので1の「体」4の「先」は除外できる。ここで【問題文Ⅱ】1行目に「人心調于馬」「御之所貴」(「御術」の要点)だとあるので馬の速度は人である「吾」の「心」にあると考えられる。よって正答は2。ちなみに【問題文Ⅰ】の10句にも「調和」とあり、両者に共通するキーワードだと分かる。
 問4のように返り点をつける問題はまず句法を正しく使えているかに注目する。問1で見たように「惟」「ただ」と読むことが重要であるが全選択肢でそう読めているのでヒントにはならない。よって分脈依存で決めるしかない。それぞれ訳すと1「ただ意思が望んで適する所で」、2「ただ思う所にあてはまろうとして」、3「ただ望む所を思い行って」、4「ただ意思が行こうとする所で」、5「ただ望んで行く所を思って」である。このうち意味が通じるのは4である。「行きたいところはどこへでも行ける」という意味であろう。ちなみに「所」「欲ス」いずれも返り点を伴う(返読文字)ので細かいががこの知識を使えば確実に答えに辿り着ける。
 問5はまず「逮」の意味を考える。馬車の駆け競べの話であることと、「逮捕」などの熟語を考えると「追いつく」のような意味が妥当だろう。ちなみに読みは「およぶ」。対句に注目すると「于」が気になる。この字は「」や「」と置き換えられ、今回は受身として解釈するとよい。つまり「後れれば私に追いつくことを望み」「先んずれば私に追いつかれることを恐れる」と考える。この内容と最も一致するのは5
 問6を考えるために必要な2つの問題文の主題は問3にある通り「人の心と馬の体とが調和している」ことの重要性である。1のように「馬車」については触れていない。2のような「馬の体調」についても話題になっていない。「調」はあくまでも「調和」の意味である。3が正答。「一体に」も調和のイメージにかなう。4は「厳しく育て」「巧みな駆け引き」は話題になっていない。5は「手綱捌き」を磨くことが述べられていない。御者には技術だけでなく馬と一体になれる心が必要である。

②第二日程(1/30)

 第一日程よりセンター感が強い。個人的にイマイチ腑に落ちない問題もちょいちょいある。やはり追試は好かん。

 評論はほぼセンター。問2がうーんって感じだが基本的に「身体」と「もの」というキーワードの意味、その関係性が読み取れれば大体解ける。問6に若干第一日程みがある。「身体」と「もの」について理解できれば不適切な発言が自ずと分かってくると思う。

 小説はセンターと同じく傍線部周辺の読解をする問題と本文全体から考察をする問題とが両方ある。後者は「ブンタン」「女の人」とテーマを設けて考察させることで、より実際の文学活動らしくなっている。妄想をせず、本文を根拠にして選択肢を選ぶことが大切。

 古文は傍線が少なめなのが特徴。1人の人物や「月」というキーワードに注目して全体を読解する必要があった。しかし求められているのは結局単語(現代語との違い)や文法への理解力である。ただ和歌以降の主語が女君であることは選択肢を見ないと分からないかもしれない。問4もうーんって感じ。

 漢文は文章が一つだけでセンター感が第一日程より増している。句法、重要単語の知識があれば割と解ける。問7(多い!)は資料を踏まえた読解であるから第一日程同様「努力が大事」という主題を読み取ることが肝要。


第1問

〜リード文と問題文を読む〜

 問1は漢字。
 問2は「どういうことか」問題。「生理的配慮」「背の後傾」とはなんだろう。「もうひとつの」というぐらいだから他の「生理的配慮」もあるのだろう。
 問3も「どういうことか」問題。「裸の身体」「着物をまとった身体」の二項対立を読み取るのがポイントか。
 問4も「どういうことか」問題。「身体」がキーワードらしい。「」つきなので特別な意味の可能性も大。「複雑な政治過程」も読み取りたい。
 問5は構成と内容問題。段落同士の関係性を読み取っていく。
 問6は本文の趣旨に合わない意見を選ぶ問題。「『もの』と『身体』との社会的関係」を読み取る。2つマークすることにも注意。

〜本文を読む〜


 1段落は椅子の生理的苦痛について述べる段落。自らの体重による圧迫と上体を支える筋肉の緊張との2つである。
 2段落は前段で述べられた上体を支える筋肉の緊張を緩和する方法として17世紀頃始まった「『背』の後傾」について述べている。このようにして生まれたリクライニング・チェアが「人間はゼンマイの集合にすぎない」という「身体機械」のイメージを人々に抱かせていった。
 3段落では前段の後傾した椅子が上流社会で流行していく様子が述べられている。
 4段落では「もうひとつの生理的配慮」について述べられている。古くから行われていた例として椅子の座に対する工夫に加えて、クッションの使用が挙げられている。そしてクッションの使用が階層性と結びついていたことにも言及している。「身体に快適さを与えること自体が政治的特権であった」のである。
 5段落では16世紀から17世紀の間に起きた椅子とクッションの合体について述べている。これが硬いものだという椅子の概念を決定的に変え、「身体への配慮、あらたに見出された快楽を志向する身体による椅子の再構築」によって椅子の近代化が始まった。
 6段落では現代の私たちが享受する「生理的配慮」は支配階級のみに許されていたことを改めて主張し、椅子の変化を単なる「機能化」と呼ぶのは不適切であり、「身体」や「生理的配慮」という概念が文化の産物であると述べている。
 7段落では椅子に座る「身体」が解剖学的(自然的)肉体(「裸の身体」)ではなく社会的・政治的記号である衣装を含めての身体(「着物をまとった身体」)であると述べている。
 8段落はブルジョワジーが旧支配層が使っていた宮廷社会の「もの」(「生理的快適さ」が享受できる椅子など)の文化を吸収すると同時に旧支配層の「身体」(「生理的快適さ」を享受できる身体、貴族風の衣装)をひきつぎ「働く『身体』」(労働者としての身体)に結びつけ固有の「身体技法」をうみだした、と述べる。

〜問題を解く〜


 問1(ア)「抱かせ」なので「包含」「抱負」「砲台」「飽和」の中なら2が正答。「つつむ」と「だく」の違いをしっかり押さえることが大事。(イ)「繊維」なので「維持」「安易」「脅威」「依拠」の中なら1が正答。(ウ)「誇示」なので「回顧」「凝固」「誇張」「孤高」の中なら3が正答。(エ)「見劣り」なので「陳列」「猛烈」「破裂」「卑劣」の中なら4が正答。(オ)「系譜」なので「符合」「譜面」「不慮」「扶養」の中なら2が正答。
 問2は「もうひとつの生理的配慮」=「椅子から受ける圧迫をやわらげる努力」「背の後傾」=上体を支える筋肉の緊張緩和であることを踏まえる。前者は4〜5段落、後者は2〜3段落の内容。1は「キャスターを付けて」が誤り。車椅子自体の説明は2段落にあるが背の後傾と同時期の発明として挙げられているだけである。2が正答。随分と分かりにくいが4段落で述べられた椅子と別々のクッションなどは「古代から」なされていた工夫であるから17世紀頃の発明である背の後傾と「どちらが早いともいえない時期」にあるというのは無理がある。17世紀頃の発明は椅子とクッションの一体化である。よって4段落の例を挙げている4、5は誤り。もうこれは間違えても筆者のせいにしていい。3は「一定の姿勢で座り続ける苦痛」が若干不適切。1段落を読むと人間が一定の姿勢で座り続けられないのは上体を支える筋肉の緊張が原因である。だからこそ横臥の状態に近づくこと(背の後傾)が解決策となるのである。
 問3は「裸の身体」=「解剖学肉体」「着物をまとった身体」=衣装を含めた身体であることに注意。この言い換えは7段落で読み取れる。1は「裸の身体」について全く説明できていないので誤り。「着物をまとった身体」への配慮にも触れられていない。2が正答。「着物をまとった身体」で座るからこそ「生理的な快適さ」を追求するだけでなく衣装やふるまいに合わせたデザイン(「文化的記号」)も大切だと述べているのである。6段落で筆者が椅子の近代化を「機能化」と呼ぶことに否定的なのはこのためである。3は「自然的」「解剖学的」がいずれも「裸の身体」の言い換えであり意味が通らないので誤り。4は「生理的な快適さへの関心」を「覆い隠そう」とはしていないので不適切。椅子にそのような政治的役割はない。5は「生理的な快適さを手放してでも」が言い過ぎ。両者は両立しうる。
 問4はこれまでの設問から「身体」が衣装を含めた文化的・社会的な意味であることは分かるだろう。「複雑な政治過程」=ブルジョワジーが宮廷社会の「もの」(家具、調度類)や「身体」を吸収し、固有のものを生み出す過程である。これは8段落にある。1は「労働者向けの簡素な『もの』」が怪しい。、かつてのブルジョワジーの「もの」については言及されていないので「変容」したかどうかは分からない。2は「宮廷社会への帰属」が不適切。「吸収」とニュアンスが随分違ってしまう。3は「宮廷文化を解消」が不適切。繰り返すが「吸収」である。4は「『もの』の機能を追求」が不適切。「もの」は機能性と関係なくとも「身体」に適したものになるのである。5が正答。「受け継いで再構成」は「吸収」と言えるものであるし、「複雑な政治過程」は「新旧の文化が積み重なってい」く過程である。
 問5の1は「生理学的問題として解決できる」が間違い。6段落以降は政治的・社会的な「」つきの身体の話題であり、生理学的な話題は一切ない。2は椅子についての概念の変化(「椅子の近代化」)については詳しい説明はなく「社会にもたらした意義」はイマイチ読み取れない。3が正答。生理学的な文字通りの身体から社会的・政治的な「身体」への話題転換を読み取りたい。4は5段落までを「『もの』の議論」としているのが不適切。「もの」の話自体はその後にも「身体」に配慮した「もの」という形で議論されており、5段落までは「もの」の生理的配慮(「解剖学的肉体」への配慮)の議論とみた方が適切だろう。
 問6は「もの」が機能性だけでなく社会的・政治的な意味での「身体」にも配慮していることを念頭に入れて解く。1は気候による家屋の違いを話しており、「身体」を生理学的な意味で使ってしまっているので不適切。身分による家屋の違いなどならば正しかった。2はユニホームの機能性だけでなく、所属チームを表す「記号」としての役割についても言及しているので正しい。3も箸の使い方に文化によって規定される決まり事があると述べており正しい。4も明治時代の洋服を「文化的な価値」の受容という観点から考察できているので正しい。5はスマートフォンという「もの」が社会の仕組み(「身体」)を刷新すると因果関係が逆なことを述べており不適切。6は帽子の機能だけでなく記号としての側面に目を向けられているので正しい。
 

第2問


〜リード文と問題文を読む〜


 「千春」の働く喫茶店に「サキ」が書いた短編集の忘れ物があったようである。
 問1は語句の意味問題。
 問2は千春が「何も言い返せないでいる」状況や心情を問うている。何に言い返せないのだろうか。
 問3は心情説明問題。「この軽い小さい本」はリード文の文庫本だろうか。「自分でわかる」とはどのような状態だろう。
 問4は「千春は読書についてどう思ったか」問うている。「千春が予想していたようなおもしろさやつまらなさ」とは何だろう。これらを感じさせないのならば何を感じさせるのだろうか。
 問5は「ブンタン」の描写と千春の気持ちや行動との関係について問うている。「ブンタン」とは何であろう。「ブンタン」周辺の千春の描写にも注目。
 問6は「女の人はどのように描かれているか」「千春にとって女の人はどういう存在として描かれているか」についての話し合いの適語補充問題である。「女の人」の描写を要チェック。

〜本文を読む〜

 場面1(1〜8行目)は千春が女の人に本を渡す場面である。千春は「ここに忘れてよかった、というのは何だか変な表現だ」と思ったが「女の人がとても喜んでいる様子なのはよかった」とも思っている。
場面2(9〜19行目)では千春が女の人に「何かを話しかけたい」と感じている。それは「珍しいことだった」。千春は元カレと結婚して娘ができたら「サキ」と名付けようと思っていたらしい。
 場面3(20〜31行目)では千春が女の人に「お客さんは運がいいですよ」と話しかける。「お客さんに話しかけるのは初めて」だった千春は「緊張で全身に血が巡るような感覚」を覚えた。「千春を見上げてかすかに笑う」女の人を見た千春は「その表情をもう少しだけ続けさせたい」と会話を続けた。女の人が遠くから友達のお見舞いに来ていると知った千春は「もう少し話を続けよう」と思った。
 場面4(32〜44行目)の会話の中で生まれて初めて他の人に「幸せ」と言われたような気がした千春は「自分が少しびっくりしたのを感じた」「何も言い返せないでいる」千春に女の人が「居心地の悪さを感じた」(千春の想像)ために頭を下げると、千春は「怖くなって」その場を離れた。千春は高校をやめた(「何の意欲も持てない」から)ことを話すと女の人がより申し訳ない気持ちになってしまうのではないかと思った。
 場面5(45〜60行目)で千春は「サキの本のことがどうしても気になって」病院の近くの書店の初めて入る文庫本コーナーで同じ本を買った。初めて買う文庫本であった。「これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない」「おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたい」と思った。「この軽い小さい本のことだけでも、自分でわかるようになりたい」と思ったのである。
 場面6(64〜73行目)で女の人は「ブンタン」を千春たちにくれた。
場面7(74〜81行目)で牛の話を読んだ千春は「声を出して笑った(「おもしろさ」)わけでも、つまらないと本を投げ出した(「つまらなさ」)わけでも」なく、ただ「様子を想像していたい」「続けて読んでいたい」と思った。
 場面8(82〜86行目)では「ブンタン」をもらった日の千春が「家の中のいろんなところに牛がいるところを想像していて」お母さんにブンタンを渡し忘れて部屋に持って帰ってしまう様子が描写されている。「お茶を淹れて本を読みたいという気持ちが勝って」高校を退学して使われなくなった勉強机の上にブンタンを置くと「すっとする、良い香りがした」らしい。

〜問題を解く〜

 問1(ア)「居心地の悪さ」とは「窮屈さ、きまりの悪さ、苦痛」などであるから4(「落ち着かない感じがした」)が正答。1「所在ない」は「退屈で手持ち無沙汰」なので全く違う意味。3「やるせない」は「つらく悲しい、どうしようもない」でありやはりズレている。(イ)「危惧」は「心配」であるから4が正答。(ウ)「むしのいい」は「都合のいい」なので1が正答。
 問2は場面4の内容である。女の人の「幸せ」という言葉が初めて他人から聞いたような気がしたのである。選択肢を見てみる。1は「彼女の境遇を察し」が本文にないので不適切。2が正答。他人から「幸せ」と言われたことがないので「人から自分が幸せに見えることがあるとは思っていなかった」のである。「意表をつかれた」は「少しびっくり」と対応している。3は「記憶の及ぶ限り一度もなかった」のが「幸せだったこと」ではなく「『幸せ』と言われたこと」であるから間違い。「何か話さなくてはならないと焦ってしまった」とも書いてない。4は女の人の台詞を「皮肉」と解釈するのは妄想が過ぎるので誤り。そもそも「高校をやめた」ことは女の人には言っていない。5は「お客さんと会話をすることがほとんどなかった」が黙ってしまった理由ではないので誤り。ついさっきまで普通に話してたし。
 問3の「自分でわかる」場面5を読むと「サキ」の単行本がおもしろいかつまらないかについてであるとわかる。1は「すぐに見つかる」が間違い。結局1人では見つからずに店員さんに持ってきてもらった。また「内容を知る」ことは「自分でわか」りたいことではない。2は「女の人とさらに親しくなりたい」が本文にはないので不適切。妄想してカップリングしようとする選択肢は基本間違い。3は「内容を知りそれなりに理解できるようになりたい」が微妙。おもしろいかつまらないかを分かりたいのである。4はサキについて「教えてもらいたかったのに、話がそれてしまった」が本文にないので不適切。「おもしろさ」があるかどうか千春にはまだわからないのでここも不適切。5が正答。「何かが変わるというかすかな期待をもって」たかどうか直接は書かれていないが「何にもおもしろくいと思えなくて高校をやめた」ことが書かれているところから「サキの文庫本はおもしろいと思えるかも」という期待があったという解釈は一応成り立つし「おもしろさやつまらなさだけでも自分で判断できるようになりたい」とあるのはこの選択肢だけ。
 問4は場面7から千春の読書観を読み取ってあげる。ただ「様子を想像していたい」「続けて読んでいたい」と思っていたのであり、そこにはおもしろさやつまらなさはなかった。選択肢を見る。1の「画家の姿勢には勇気づけられた」は本文中にないので不適切。2は「苦労して読み通す」過程が本文中にないので不適切。3は「世の中にはまだ知らないことが多い」と気づいたことは本文中にないので不適切。4は本に「愛着を感じることができた」とは本文中にないので不適切。5が正答。「空想することに魅力」を感じていることは「ちょっと愉快な気持ちになった」(78行目)や場面8「牛がいるところを想像」することに夢中になっている様子からわかる。
 問5で問われている「ブンタン」場面6、8にある。特に場面8で「ブンタン」とともにサキの本のことを考えている様子が描写されていることに注目。選択肢をみる。1は「自分を過小評価」「仕事を通して前向きに生きる」はどちらも本文にないので不適切。2は女の人に憧れていたから「女の人の行動を真似」は本文中にないので不適切。勝手にカップリングしてはいけない。3は「女の人や喫茶店のスタッフに対する積極的な好意」は本文中にないし喫茶店のスタッフとブンタンにはさしたる関係もない。4は喫茶店のスタッフと「交流のない」は間違い。18行目を読むと千春と谷中さんが会話をしていることがわかるので矛盾する。そもそもブンタンが2回も出てくる場面8に喫茶店のスタッフは一切出てこない。5が正答。場面8からは「本を読む楽しさ」を感じている様が読み取れる。
 問6空欄Ⅰの1は「自分の心の内は包み隠す」が「自分の事情をざっくばらんに話し」というCさんの意見を無視しているので誤り。2が正答。千春と「気さくに」話をしていたが果物をあげるときの様子(Dさんの意見を参照)や黙ってしまった千春への対応(40行目)から「繊細な気遣い」も読み取れる。3は「内心がすぐに顔に出てしまう」が微妙。笑顔しか見せていない以上「内心」を読み取るのは難しい。4は「どこかに緊張感」は本文中にないので不適切。千春が初めて話しかけたいと思ったお客さんなのだからむしろ漂う緊張感などなかったのてわはないだろうか。5は「自分の思いもさらけ出す」が本文中にないので不適切。本が見つかって笑顔、程度で「思いをさらけ出す」は言い過ぎだろう。
 空欄Ⅱの1は「目をそらしてきた悩み」について本文中にないので不適切。2は高校中退への「後悔」は読み取れないので不適切。おもしろくなかったからやめただけなのである。3は「仕事に意義や楽しさ」を見出すことは本文中にないので不適切。仕事を「ただこなしていた」とも書いていない。4が正答。千春が初めて声をかけたお客さんが「女の人」であるし書店の文庫本コーナーに初めて足を運び初めて文庫本を買ったことは「他の人や物事に自ら働きかける」ことであろう。5は「他人への配慮」が欠けていたことが本文中にはないので不適切。


第3問

〜リード文と問題文を読む〜


 恋愛関係のもつれから出家した女君を男君が訪ねるという話。
 問1は解釈問題。
 問2は語句や表現の問題。助動詞や重要語に注意して訳すことが最優先「行く先急がるる御心地」とは何だろう。
 問3は男君の行動や心境について問う問題。男君に注目して読む。
 問4は女君の心境について問う問題。女君の心理描写にも注目して読む。2つマークすることにも注意。
 問5は「月」が登場する場面についての説明問題。「月」も要チェック。これも2つマーク

 〜本文を読む〜

 夕霧が立ち込めて、道がとてもはっきりしないけれども、深い心を道しるべにして、急ぎ行きなさるが、「かつはあやしく」、今はその(急ぐ)甲斐がないはずのことを、とお思いになったけれども、以前の(女君との)仲の夢語りだけでも語り合いたく、行く先が自然と急がれる気持ちになった。浮雲はらふ四方の嵐に、月がなごりなく澄み登って、遥か遠くまで思いを馳せてしまう気持ちがすると、ますます思い残しになることはなかったのだろうよ。山が深くなるままに、道がとても(草木が)生い茂っていて、露が深いので御供はとても地味な格好をしているけれどやはり似つかわしく、御先導者が露を払う様子も趣深く見える
 かしこは、山のふもとに(ある)、とてもささやかな(こじんまりとした)所であった。まづかの(あの)童を入れて、様子をうかがわせてみると、「こちらの門が立つ方は封鎖しているようです。竹垣をほしわたしている(ずっとしわたしている)所に、通う道があるようです。ただお入りになりなさい。人影もありません。」
と申し上げたので、
しばし音なくてを(しばらく静かにしててくれ)」
とおっしゃって、自分1人でお入りになる
 小柴というものを「はかなくしなしたる」も、同じことだけれど、とても好ましく、風情のある様子だ。妻戸も開いて、まだ人が起きているのだろうか、と見えたので、生い茂っている植え込みのもとからつたいながら寄って、軒に近い常磐木が所狭く広がっている下にたち隠れてご覧になると、こちらは仏の御前なのだろう。仏前でたく香の香りが、とてもしみ深く香り出して、ただこの端の方に勤行する人がいるのだろうか、経が巻き返される音もひそやかで好ましく聞こえて、しめじめと(しんみりと)何となく心が動かされるので、何となく、すぐに御涙がすすむ気持ちがして、つくづくと見て座っていらっしゃったところ、しばらくあって、勤行を終わらせたのだろうか、
「すばらしい月の光だ」
とひとりごとを言って簾の端を少し上げつつ、月の顔をつくづくと眺めているかたはらめ(横顔)に、昔ながらの面影をふと自然と思い出しなさって、たいそう心を動かされたので、ご覧になると、月は残りなくさし入っているところ、鈍色や香染などの出家者が身につける衣の色だろうか、袖口が好ましく見えて、額髪がゆらゆらと削ぎかけられているまみ(目元)のあたりが、たいそう優美でかわいらしくて、このようなしもこそ可愛さがまさって、我慢しがたく見守って座っていらっしゃったところ、やはり、とだけ詩歌を詠み入って、
  「里を区別しない遠く離れた月の光だけは見たときの秋に変わらないのだろうか」
と、ひそやかにひとりごとを言って、涙ぐんでいる様子が、たいそう心を動かしたので、きまじめな男君もそのようにのみはしづめなさらなくあった(心を静められなくなった)からだろうか、
  「かつて暮らした所の月は涙で心を暗くしてその時さながらの光は見なかった」
と言って、ふと寄りなさったところ、全く思いがけず化け物などが言うものだろうと、気味が悪くて、奥ざまに引き入りなさる袖を引き寄せなさるままに、せきとめがたい御機嫌を、やはり、それと見知られなさるのは、とても恥ずかしく残念に思われながら、ひたすら不気味なものならばどうしよう俗世にいるものと聞かれ申し上げたことをこそつらいことに思いつつ、どうにかしなかったと聞き直し申し上げようと、あのようにこのように願っていたことを、逃れ難く見てあらわにされ申し上げたと、どうしようもなくて、涙だけが流れ出ながら、茫然自失な様子が、たいそう悲しい。

〜問題を解く〜

 問1(ア)「かつは」は「一方では」、「あやし」は「不思議だ」という意味なので1(「一方では不思議で」)が正答。(イ)「はかなし」には「頼りない、つまらない、亡くなった」といったマイナスイメージの意味のほかに「たわいない」、「ちょっとしたものだ」という意味もある。「小柴」を褒めている文脈にはこちらの意味をあてればよい。小柴を褒めていない2、5は誤り。「かわいらしく」「こぎれいに」は「はかなし」のニュアンスには合わないので誤り。「こぎれいに」は「ちょっときれいに」という意味ではなく「整ってさっぱりとした」という意味であることに注意。3が正答。「形ばかり」は「ちょっとした」と微妙だが1番近いと言えよう。
 問2の1の「ありし世」は「前世」までさかのぼるのは行き過ぎ。あくまで付き合っていた時期の回想である(「世」には「俗世、、男女の仲」という意味がある)。2が正答。「だに」は打消の前につくと「〜でさえ」、願望(ここでは「まほし」)の前につくと「〜だけでも」という意味になる。3は「せ」が助動詞ではなく「語り合はす」の活用語尾であるから誤り。4は「るる」は可能より自発で訳したい。「思わず急ぎたくなってしまう」気持ちなわけである。5は「なむ」のあとには「む」の連体形で「侍らむ」になるはずなので誤り。「侍らめ」は「む」の已然形で「こそ」のあとにくる形。
 問3の1は4行目を読むと「山道の雰囲気に合う」(「つきづきし」)のは「先導の者」(「御前駆」)ではなく「御随身」であるから誤り。2は5〜9行目の内容と思われるが「余計な口出しをするのを不快に思い」が本文中にないので誤り。3は10行目の内容であるが、「2人で過ごした場所の雰囲気によく似ている」が本文中にないので誤り。「なつかし」は「懐かしい」ではなく「好ましい」である。「懐きたくなる」のである。4は11〜14行目の内容であるが、「敬虔さ」に惹かれたとは本文中で明言されていないので不適切。5が正答。20〜23行目の内容と合致する。「飽きたらなくなってしまった」結果が「ふるさとの…」の和歌である。
 問4は23〜27行目の内容である。「せきとめがたき…」の主語は分かりにくいが女君だと考えると選択肢と整合性が取れる。ズルいようだが意外と使える手。1は「涙がこぼれるほど恐ろしく」が本文中にないので不適切。化け物が和歌を返したと思ったものの袖を引き寄せられて男君だと認識している。2は正答。「化け物であってくれた方が」は本文中にないように思われるが、「男君に見つかってしまってつらい」という心情が読み取れることから拡大解釈すれば辛うじて許容できるという判断なのだろうか。正直自分でも納得できていない。3は「世間が噂している」場面は本文中にないので誤り。4は「軽率な行動を後悔」が本文中にないので誤り。5は正答。女君が「途方に暮れた」様子が読み取れるであろう。6は男君が「ひどくやつれている」ことも女君が「同情の気持ちがわいた」ことも本文中にないので不適切。
 問5の1は「男君の心の迷い」は2行目ですでに払拭されているので不適切。「行く先急がるる御心地」になっている。ちなみに「思し残すこと」がないというのは「後悔がない」のではなく「残さず思い出す」ということである。2は男君が「訪ねてきてしまうのではないか」と考えられるならば女君はエスパーであろう。23行目にも「いとおぼえなく」とある。3が正答である。16〜17行目「昔ながらの面影」(「昔と変わらない」)が描写されており、17〜18行目が尼としての「以前とは異なる魅力」「なまめかしうおかしげ」「らうたげさまさりて」と描写されている。4は「月だけが」とは本文中にない。「暗示」をしていたらキリがないのでとりあえずスルーする5は正答。「わく」=「区別する」である。から「あまねく照らす」は正しい。「見し世の秋にかはらざるらむ」「昔と変わらないその光」と対応している。出家したのだから「身の上が大きく変わってしまった」も正しい。6は「かつての女君の姿を月にたとえて」いるかどうかは微妙であるから不適切。

第4問

〜リード文と問題文を読む〜

 王羲之の故事である。
 問1は波線部解釈問題。
 問2は空欄補充問題。選択肢をチラ見するに再読文字っぽい。
 問3は句法の説明問題。2つマークするのに注意。
 問4は傍線部解釈問題。「況」抑揚表現(Aですらなのだから、ましてBならなおさらだ)がある。A、B、Zにあたるのは何か
 問5は傍線部説明問題。「王君の心」とは何か。
 問6は返り点と書き下し文問題。
 問7は本文と【資料】の内容理解問題。一致しないものを選ぶことに注意。

〜本文を読む〜

 羲之の書は、「晩之善」。その(良い書を書くことが)できる理由は、思うにやはり精力によって自分で一流になったことであって、天成ではないのである。しかしながら後世「X有能及者」「豈其学不如彼邪」。学ぶことは本来「豈可以少哉」「況欲深造道徳者邪」。墨池のほとりは、今は州に設置された学校となる。教授の王盛は、その章れないのを恐れたのだろうか、晋の王羲之の墨池の6字(「晋王右軍墨池」)を家屋の大きな柱の間に書き、これを掲げる。さらに曾鞏に告げて言うことには、「どうか『記』してほしい」と。「王君之心」を推すと、どうして人の善を愛して、1つの能力とは言っても廃れさせずに、そのためその跡に及ぶのだろうか。それもやはりその事(「王君之心」)を推してその学ぶ者を励ますことを望むのか。「夫人之有一能而使後人尚之如此」。まして仁愛の徳を備えた人や行いの立派な者の後世に及ぶ感化を、来世に被る者はどうして尊ぶのだろうか。

〜問題を解く〜


 問1(ア)「晩之善」の説明は1〜2行目にある。「以精力自致」である。王羲之の書は努力の結果であるから「年をとってからこそが素晴らしい」はずであるから2が正答。3、5は若い時の方が素晴らしいように書いているので間違い。1は大変微妙だが「年齢を重ね」れば無条件で素晴らしい書が書けるように思えてしまうので不適切。4はこらまた微妙であるが「晩年」だから無条件に素晴らしいのではない。
 (イ)「豈に以って少なくすべけんや」と書き下す。「豈に〜んや」=「どうして〜だろうか、いや〜ない」という反語表現である。直訳すると「どうして少なくすることができるだろうか、いやできない」である。(ア)からも分かる通りこの文の主題は「努力が大事」である。なので「少なく」できないのは努力である。よって4が正答。
 問2は「然れども」=「しかしながら」(逆接)であることに注目。前文は努力の結果書が上達した王羲之についてである。その反対の内容だから「能及者(王羲之に及ぶ者)」がいないという意味になれば良い。「宜しく〜べし(〜するべきだ)」、「将に〜んとす(〜するつもりだ、今にも〜するだろう)」、「未だ〜ず(まだ〜しない)」、「当に〜べし(当然〜するべきだ、〜に違いない)」、「猶ほ〜がごとし(まるで〜のようだ)」の中なら3を選べば「未だ能く及ぶ者有らず(まだ王羲之に及ぶ者がいない)」となるので正答。
 問3は「豈に其の学彼に如かざるか」と書き下すと「その学びが彼(王羲之)に及ばないのだろうか」と問2で見た王羲之に及ぶ者がいないことの理由の考察となる。「豈に〜か」=「〜のだろうか」(疑問)「〇〇に如かず」=「〇〇に及ばない」(比較)であるから1、4が正答。ちなみに「豈に」を感嘆(なんとも〜ではないか)の意味で使いたいなら「豈に〜ずや」と「不」がいるので5は誤り。
 問4は「況んや深く道徳に造らんと欲する者をや」=「まして深く道徳に到達しようと望む者はなおさらだ」抑揚表現が使われている。繰り返しになるが主題は「努力が大事」である。あの王羲之でさえ努力するのだから「深く道徳に造らんと欲する者」はなおさら努力するべきというわけである。よって正答は4「造る(いたる)」=「到達する」も大切。
 問5の「王君之心」3〜5行目の内容をまとめる。「晋王右軍墨池」を忘れないでほしいという気持ちなわけである。よって正答は2。3、5も似ているがまだ「廃れ」たり「忘れられてしまった」わけではなく「其不章」を「恐」れているのである。1、4のような「才能」の話は主題の真逆なので絶対にNG。
 問6はまず句法・重要単語に注目「夫れ」=「そもそも」「使OV(OをしてVせしむ)」=「OにVさせる」。両方をきちんと訳せているのは3、4。次に現代語訳で考える「そもそも人が1つの能力があって後の人にこれを尊ばせることはこのようだ」「そもそも人を1つの能力にして後の人にこれを尊ばせることはこのようである」の二択なら3の方が意味がわかりやすい。「夫の」がよく分からないので使役を訳せている2も一応考慮するが「而」は置き字であり「すなはち」とは読めない上「かの人を1つの能力があればすなわち後の人にこのように行くことを尊ばせる」と現代語訳も意味がよく分からないのでやはり誤り。
 問7はまず【資料】の現代語訳をする。「言うことには、『張芝は池に臨んで書を学び、池の水はすべて黒い。人にこれにこのように耽させれば、まだ必ずしもこれに後れないのである』と」でも訳せばよい。やはり「努力が大事」と言っている。1は「到底肩を並べることができない」が「未必後之」と矛盾するので誤り。2、3、4は「努力が大事」と述べており正しい。5は本文4〜5行目と対応していて正しい。「記」は「記憶」か「記録」かどちらか分からないが「書いて」は後者と対応している。

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