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傷はあとから滲み出す/なんでも失うときが美しいね

戸田真琴

久しぶりにAV業界の話をする。わたしは来年の一月に引退を決めていて、それを発表した時点ではちょうどそこから数えて12本、月に一本ずつ作品をリリースし終わったら引退する、という流れにすることを決めていた。不信感の募っていた場所から離れることを決め、今は別のメーカーにて、毎回作品内容を決めるところから意見を尊重してもらいながら、面白がりながら、共につくらせてもらっている。担当してくれているプロデューサーは女性の方で、映画やカルチャーが好きで、彼女なりのエロティシズムに対する強いこだわりと、一般ユーザーの需要のいいところを毎回バランスよくとれるよう考えながら、企画を考えてくれている。彼女のもってくる企画を聞くのが私は毎月楽しみで、さらにそこに「戸田さんのこういうところが素敵なのでこういう作品を撮りたい」とはっきりと動機を伝えてくれることや、作品の展開や結末を決定する前に私がどう思うかを伺ってくれるところ、好きな映画からお茶目にパロディを引っ張ってきたりするようなところ、そういう創意工夫までもがスパイスになって、とても、楽しい。引退を決めているからというのもあるし、私自身が以前いた場所で嫌だったことや、傷ついたり尊厳を踏み躙られたと感じた経験を伝えていること、あるいは、我が強くて言葉も達者ないわゆる”わきまえない女”である私をあまり怒らせるとよくないことになる、ということを察しての危機管理の意味もあるかもしれない。とにかく、彼女ははっきりとこう言ってくれている。「戸田さんがこれまでの作品で感じた嫌だったことを消してあげることはできないけれど、少なくとも、トラウマや嫌な思い出をひとつも増やしたくないと思っています。」よく考えたら、トラウマを増やさないようにするなんてきっとふつうのことなのだろうけど、それすらも当たり前に難しいほど、この業界でつくられている作品・特に売れる作品というのは繊細な人間にとって心理的負担の大きいものが多い。確かに台本を読んで、確かに細かな行為まで確認して、確かに納得して、確かに契約書を結んだのだから、それはもう受け入れているはずのことなのだけれど、撮影が安全に執り行われても、その場のひとたちがいくら優しく失礼のないひとたちであっても、発売したあと、それを観る人たちの消費の仕方によって、ああもうとっくに手を離れたはずの昔の作品の見られ方とか、そこから投げかけられる言葉によって、いつまでたっても傷つくのだから、本当に、自分の許容範囲をはかるというのは難しい。つくってよかったな、と思っている作品もたくさんあるし、それらを見て感想をもらったり、拘ったところに気づいてもらえたり、よろこんでもらえることはもうふつうに、当たり前に、楽しい。だけれど、やらなきゃよかったな、とあとから思った作品もたくさんある。そういう気持ちは、いつも、台本を読んだ時でも撮影の日でも撮り終わったあとでもなく、もっと後、数ヶ月して発売されてから、それを視聴者に見られてから湧き上がるのだった。
もう離れたメーカーでの話だし、今はそのプレイ内容のある作品にはなるべく出演しないようにしているので話すけれど、フィクションとして行われている、とある行為がある。それは、実際にそうしている"ように"見せていて、なおかつパッケージや宣伝にも、一般ユーザーが目にする部分にはどこにもフィクションだとは記されていない。まるで本当にしているかのように書かれているとある行為がある。

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戸田真琴

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