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「常滑」について①

唐突ですが、「常滑」という地名、聞いたことがあるでしょうか?

愛知県民、陶芸家、やきもの愛好家、招き猫収集家、競艇ファンの皆さんには、バカにするなと言われそうです、すみません。
ただ、一般的には、常滑への愛で歪んだこの目で見ても、「思ったより知名度低いな…」というのが、正直な感想です。

もちろん、中部国際空港(セントレア)開設以降、コストコや巨大なイオンモールができ、愛知県内での常滑の存在感は右肩上がりに上がっていると感じます。
また、「やきもの」や「競艇」など特定のフィールドでの知名度は高いと思います。それでもやっぱり都内では、「とこなめ?どこ?」「常滑…読めない。」と言われることが多いです。
今回は、初めて「常滑」というワードを耳にした人に、私なりの常滑の見どころ、楽しみ方を伝えることを目標に書いていきたいと思います。

「常滑」ってどこ?

愛知県常滑市は、蟹のような形をした愛知県の西側の足、知多半島の西海岸に位置する、人口6万人弱の市です。対岸は三重県。天気のいい日は海の向こうにお伊勢さんを感じることができます。
また、西海岸というだけあり、何気に綺麗なサンセットが見られる穴場ビーチもあります。
その昔は、京と江戸をつなぐ海運の要所として、廻船問屋(今で言う海運業)が栄えた地でもあります。

「常滑」ってなんて読むの?

「とこなめ」と読みます。
名前の由来についてはこちら。

市名は土壌に由来するとされ、「常」は「床」(地盤)、「滑」は「滑らか」という意味である。古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられている。 (Wikipedia)

この土壌があったからこそ、常滑は六古窯のひとつとして、日本の窯業を支えることができたそうです。
ちなみに昔の呼び方は「とこなべ」だったそうな。

常滑の特徴って?

いろいろあると思いますが、一番の特徴はやっぱり「やきもの」。
「やきものの街」と言われるところは全国各地にありますが、それぞれの街の雰囲気はかなり異なります。私はまだ他の産地は瀬戸、萩、九谷、唐津、益子、笠間、信楽くらいしか行ったことがないのですが、街の成り立ちや窯業発展の過程によってやきもののカラーが異なり、その違いが街の雰囲気にも反映されているような気がします。
そんな中で私が思う常滑の特徴はふたつ。

ひとつは、常滑は「やきものを作る街」でありつつ、「やきものでできた街」であるという点。

このあたりは別の記事でもまとめたいと思いますが、常滑は六古窯のひとつであり、昔から大きな甕などを得意としていました。時代を経るに従い、常滑焼は変遷を辿りますが、山茶碗や急須などの食器を除いて、常滑は常に大きなもの、または大きなものの一部となるものを作り続けてきました。それは土管であったり、タイルであったり、ビルのテラコッタ装飾であったり、はたまたトイレであったりとさまざまですが、いずれもインフラに関わるものばかりです。
長い間やきもののインフラに関わってきた常滑にとっては、規格から外れた製品や在庫品、陶器の破片などを街のインフラに活用することはごく自然なことだったのでしょう。土管や硫酸瓶が礎となって街を支え、陶片がそこかしこに散らばった独特の景観を作り上げました。

こうした特徴は常滑だけではないかもしれませんが、食器としての「やきもの」でなくインフラとしての「やきもの」をものづくりの中心に据えてきたからこその景観であることは間違いないと思います。

ふたつめは、常滑は外に開かれた街であるという点。常滑焼の中で、全国的に見て高いシェアを誇ってきたものとして、「急須」と「土管」がありますが、いずれも海外の製法を学び、常滑で独自に発展させてきたものです。

常滑は茶道と結びついた、所謂茶陶としての歴史は築かれませんでしたが、中国由来の煎茶文化が文化人の間に広まると、その需要に応えて中国の宜興で生産されていた紫砂という釉薬をかけないタイプの中国茶の茶壺をモデルに急須を作り上げました。取っ手が横に付くタイプのいわゆる日本茶用の急須(横手急須)は、常滑で急須を開発する過程であの形になったようですが、現在では中国から珍しい形の急須として横手急須を買い求めるお客さんもいるそうです。

土管は江戸末期から常滑で作られ始めましたが、本格的な土管製造が始まったのは明治維新後、古い規制がなくなり、常滑の焼き物産業に参入する人々が増えてきた頃からです。明治のお雇い外国人であるリチャード・ブラントン氏は、日本の近代化のため、インフラ整備に力を入れ、横浜の外国人居留地に整備する下水道のため、漏れのない接続が可能でかつ十分な強度をもつ土管の製造を常滑の職人に発注しました。このとき活躍したのは、常滑の陶祖と呼ばれる鯉江方寿氏。鯉江氏の作った土管は一度は不採用になるも、土管製造用の木型を発明したことにより、均一な形状の土管を大量生産することが可能になり、近代日本の街づくりに貢献しました。

鯉江方寿翁の陶像は、天神山の麓に鎮座し、今も常滑の街を見守っています。

急須と土管、どちらも海外の技術をもとに常滑の陶芸家が試行錯誤で築き上げてきたものです。常滑は大きな街ではありませんが、海に面した立地と名古屋にほど近い距離であることから、海外との繋がりが深い地域でもあります。一時期はIWCAT(常滑やきものホームステイ)というプログラムで海外の陶芸家を招へいし、今でも多くの陶芸家や観光客の方々が常滑を訪れます。また、常滑を気に入り、移り住んだ方々も数多くいらっしゃいます。

外との繋がりが多い常滑だからこそ、外からきたものを大らかに受け入れ、良いところを吸収する力があるのではないかと思います。


あぁ〜やっぱり長くなってしまいました。今回の常滑談義はここまでとしますが、まだまだ常滑の魅力を伝えきれていないので、また近いうちに②をアップしたいと思います!

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