花束を、君に。

ちょうど1年前、大切な友人を亡くした。
小学校から高校まで一緒に過ごし、
大人になってから再会して6年が過ぎていた。

人生の伴侶を得て1年程。
数年前に立ち上げた事業がようやく実を結び出した矢先のことだった。

彼が亡くなる2ヶ月ほど前、
その少し前に肉親を亡くした彼と
どちらからともなく人生について語り合ったことがあった。

親としての最後の役割が「死」を身を以て教えること、
最大の親孝行とは順番を守ること、

ひとつひとつ確認する様に会話を交わしたのが
つい先日のことのようだ。

人の死には何度か立ち会って来たが、
彼がいなくなって初めて
人が人と出会うことの意味を考えた。
再会は偶然のような必然であったのだろうし
この6年間で彼が私に与えてくれたもの、伝えてくれたことは
私の今までの人生の中においても大きな糧となっていた。

きっと彼と出会った多くの人たちが
同じことを考えていたと思う。
周りの人たちにそんなふうに思わせる彼の生き様は、
見事だったとしか言いようがない。

再会してすぐの頃
まだ立ち上げたばかりの彼のお店へ出向いたことがあった。
小さな小さなスタジオで
たったふたり膝を付き合わせるように座り
今までのこと、これからのこと、お互いの夢のこと、
たくさんたくさん話をした。
彼が私の展示に駆けつけてくれた時も
普段寡黙な印象の彼は、そして私も
堰を切ったように喋り倒し、笑い合った。
今思えば特別な、ゆったりとした不思議な時間だった。

人がこの世から消えて無くなる、とは
どういうことなんだろう。
確かにもう、存在しないのだ。彼は。

私は死というものに対して、割とドライだ。
死ぬということに恐怖はあまりないし、
死後の世界やタマシイという考えにも興味はない。

死んだら終わり。それまで。
思い出すことも、誰かを想うこともない。

けれどこれは死ぬ側の話で。

残された者は
それぞれの都合のいい解釈でいいのだと想う。
もしかしたら側で見守ってくれているのかもしれない、
天国でお酒でも飲んでいるのかもしれない、
痕跡や気配に支えられたり
些細なことから落ち込んだり勇気をもらったり、
メッセージを受け取った(と思い込んだ)り。

そこに正解などなく、
また全てが正解だ。

彼の訃報を聞いて
私は真っ先に京都へ向かった。
京都は
私が彼と親しくなるきっかけとなった場所だった。
すべてはここから始まった、その場所で
彼との出会いに心から感謝し、
そしてただひたすら
残された彼の家族のために祈った。
人のために祈るのは
もしかしたら初めてかもしれない、というくらいに。

彼のおかげで
出会えたひとがいる。
ひととひとはこうして、繋がってゆく。

ありがとうを込めて、花束を。

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