_神様_どうか_

神様、僕の命を全部歌に捧げます。だから、僕に歌を返して下さい。

 小さい頃から歌が好きで好きで…という話しを「自己紹介を兼ねて、noteに寄せる期待」( https://note.mu/tockni/n/n7fd44e925947 )にて書きました。そして今思う事は、僕の人生は歌に始まり、歌に生かされ、歌に苦しみ、歌に泣き、結果歌に救われたのだと言う事実。「歌に全てを捧げて生きていきたい」なんて思うその理由を、少し振り返ってみます。


====

 小さい頃から僕は、ただ歌えればそれで満足していました。それを聞いてくれる人がいる事に感謝する事も無く、ただ独りで好きなように歌い、好きなように聞かせていました。

 歌っている時は普段出せない想いや気持ちを、素直に開放できて、ただただ気持ちよくで、ただただ楽しかったのです。小さい頃から膨大な声量で、小学校での学内のど自慢大会で音割れするのでマイクをオフにする必要があったくらいです。そんな声量に任せて自分の声だけを聞き、自分の心の為だけに歌っていました。

 さて、こういうのをなんと言うかと言うと「オナニープレイ」って言うんですよ♪とは「のだめカンタービレ」の有名な台詞(笑)

 いやぁ、本当に自分の歌は昔っからオナニープレイ過ぎた。今は少なくともそう言うのが良くないと判ってきたけれど、昔は解らないどころか「俺様の歌を聞け!」状態でしたから…。(今でも協調プレイが出来るかと言うとその辺は怪しいと思う…)

 歌は好きでも、まったく上手くなかったのです。声楽はこれまでに3人程の先生に師事しました。皆亡くなってしまっての交代で、その度に僕は違う指導法に辟易していたのですが、指摘される事は概ね一致していたのです。

 まず「声は良い」。

 でも「下手。っていうか音痴」と言われるのでした。

 その度に僕は凹んでいたのかというと…全然そう言う事はなくむしろ逆。生意気な僕は「何言ってんだコイツ。俺が音痴な訳ないだろ、バーカ」と思っていたのです。だって、産まれた時から毎日歌を聴いて歌を歌って来たし、そんな歌を褒められた事はあっても貶された事なんて一度も無く、だから指導の言葉も総て右から左へ素通り。正に『馬耳東風』です。先生の耳が悪いと莫迦にして、もっと悪い事に声楽のプロの先生に向かって恐れ多くも年期が違うぐらい思っていたかもしれません。「こちとら産まれた時からウタウタイなんじゃボケ」ぐらいで、全く指摘に真摯になれないまま、僕はただ自分の好きなように歌い続けていました。

 今から思えば実に厚顔無恥!恥ずかしい事この上ないのですが、そんな自己陶酔に浸った独りよがりな歌を、僕は25歳になる頃まで続けていたのです。


========

 けれど、そんな25のある日。ある出来事を境に僕は決定的な挫折を味わいます。声を失ったのです。色々複雑ないきさつがあるので書けませんけれど、とある事で死にかけた僕は集中治療室で長い間チューブを喉に入れていました。抜管の時「しばらく声が出ないと思うから」と言われたのをなんとなく覚えています。

 その時に僕はそれまでの総ての声を失ったのです。お医者さんが言った通りに全く声が出せない日々が数週間続き、その後もスゥスゥと空気が漏れて声にもならないような、嫌な音で喋る日が数ヶ月続いて…。僕はもうその当時、半狂乱でした。

 歌えない。歌えなくなってしまった。もう二度と歌えないのか。

 そんなのは、絶対に絶対に、絶対に嫌だ!!!!

 歌いたい。もう一度歌えるようになりたい。ただ、その一心で今日までを生きて来たと言っても、言い過ぎじゃない。これだけは胸を張って言う。歌が僕を生かし、歌が僕を蘇らせた。

 ただひたすら、必死に歌い続けました。ヒュウヒュウと言う喘鳴みたいな声から、どのポイントなら声帯が揺れるかを探し、そのごく狭い音域でなんとか小さな声で歌いながら、炎症が収まるのをじっと待ち、入院で弱った身体を何とか鍛え直し、毎日独りでカラオケに行っては「声が出ないよ!」と出ない声で叫んだもんです。

 本当に、必死だった。だって、歌えなくなるのは死ぬよりも辛かったから。毎日カラオケに入り浸る僕を、両親は白眼視していたかもしれませんけれど、夢中で必死になってしがみついていた。もう一度あの声をって。

 けれど、やっぱりもう昔の声は、戻ってこないのだと知りました。僕の声帯は呼吸器のチューブで傷つき、それは不可逆的に僕の声帯を変えてしまったのでした。神様がくれた授かり物、先生に唯一褒められた「良い声」は永遠に消えた。歌えば歌う程、取り返しのつかないものを亡くしたのだということを、思い知らされて、それを「そんなはずない!」と否定しながら否定しきれない煩悶懊悩の中で、僕は気付いた。

 これまで僕はちゃんと自分の声と向かい合わず、歌えるという事に感謝もしなかったのだと。歌えないと言う事がこんなにも辛い物だと知り、そこで初めて、「歌える事」がどんなに得難い物だったかを思い知ったのです。そして心から生きていることを有難い事であると理解し、自分が如何にちゃんと生きていなかったかと言う事に気がついた…。頭を搔き毟って、後悔し、懇願し、祈り、歯ぎしりし、そして結局どうやったって戻らないという事実に僕は、心の底からボッキリスッキリ挫折しました。

 けれど、その苦悩、その挫折無くして今の僕は無いのです。自分を諦めず、逃げない。投げ出さない、放っぽってしまわない、自分を。死にたくないと言う気持ちと共に、歌えないなら生きていたってしょうがないという投げやりな気持ちをさらに越えて、歌いたいと思った気持ちのその根っこから僕はもう一度生き直すつもりだったのでしょうか。

 ともかく、それからの僕は、亡くした声を取り戻すのではなく、一から自分の声を見つけ出す為に、少しずつ少しずつ生きて来たつもりです。

 人に対し、真摯で誠実に生きる事は、ありとあらゆる場面で大事だと思います。それは他人に対しても自分に対してもです。嘘をつかず、依存せず、自らの足で立ち、自分も他人も許し許されながら生きているという理解。歌という賜り物も、真摯でない僕にいつの間にか相応しくない、宝の持ち腐れになってしまって、そしてそのまま亡くしてしまったのですね。

 取り返しがつかない過ちをして、それでもなお僕は諦められなかったのです。二度と取り戻せない声を知ってからしばらくは絶望のズンドコに沈んでいましたが、何となく見たアニメの何となく聞いたエンディングがある日凄く心に沁み入って来て、涙が出ました。ああ、歌えないけど歌いたいなぁ…歌いたいなぁコンチキショウ!!と思い。一度は裏切ってしまった歌の神様にごめんなさい許して下さいと土下座しながら、僕は再び歌うことを決めた。その事実から前へ進もうと足掻くことに。

 もう一度ではなく、初めからやり直すということです。ある種、こういうことを悪魔に魂を売ったって言うのかもしれません。そこから先は真っ黒い穴の中を彷徨い這いずるような日々。どうしても歌を諦める事は出来なかった僕は、総てを一から始めて、その一つの歌を何度も何度も繰り返し歌い続けました。

 それが池田綾子さんの「空の欠片」です。この歌は決して一般的によく知られている訳ではないし、だから人前では歌わない、自分の練習の為の歌なのですが、本当に大好きなのです。歌声、メロディ、歌詞。決して簡単ではないけれど、素直な言葉の運びと、流れる様な旋律です。

 どうぞ、聞いてみて下さい。『空の欠片』

 これを練習し始めた頃、それはそれは酷い感じで、徒に採点しよう物なら70点台、よくて80点台でした…。口惜しかったな。


 すこし話しを戻しましょう。声楽を習っていた時の話しです。

 当時、声楽の先生はお茶を濁した抽象的な指導やその逆に対症療法的な指導が中心でした。が、その中の一人に、どこが駄目かを明確に示し、長期的な視点で指導してくれた方がいました。

 その言葉の曰く「肩に力が入り過ぎ」。だから、音程が上ずるし、安定しない。だから、リズムが伴奏と合わないし、正確にならない。だから、発声が無理矢理だし、響きが無い。だから、喉を潰すし、音域が広がらない。「声の良さに頼りすぎているし、結果その良さも引き出せていない。勿体ない」またもこの時僕は「何言ってんだコイツ。」と思っていた訳です。馬耳東風。

 改めて思い出すと、本当に持って産まれた物にあぐらをかいていたんだなぁ。てか声以外に良い所、皆無じゃないか。僕って実はめちゃくちゃ音痴な癖に歌が大好きって…それってまるで「ジャイアン」じゃないか!

 そんな風に気恥ずかしくなったかと言うと、そんな事は無く、僕はその指導を受けたときもまったく理解しませんでした。思いっきり声を張り上げて歌って、気持ちよくて、それ以上の何かを一度も意識した事が無いまま、大学生までやって来てしまったのです。相当に僕の頭はお花畑だったのでしょう。声楽で飯を食っているプロの先生に言われてもそれが理解できなかった訳ですし…。

 しかし、この当時に教わっていたことは確かに僕の胸に刻まれていたらしく。一から出直した日々の間に、どれほどこの先生の教えに救われたか解りません。肩の力を抜くためにどうしたら良いか、腐心して下さったその教えは、まさにこの暗黒時代、失った声を取り戻そうと足掻いている時の、確かな導標であり灯台でした。

 肩に力が入るのはなぜか?それはその思い込んだら一直線の性格に起因すると先生は判断したのです。そして僕もそう思います。

 僕は善くも悪くも、物事への取り組み方が近視眼的なのです。野球に例えればカーブもシュートもスライダーも無く、本当にど真ん中のどストレートしか持ち玉が無い。歌の場合には、楽譜に書いてある事を完全に無視し、自分の気持ちいい歌い方が定まったら、もうそういう風にしか歌えない。

 そうしたガッチガチの歌を変える為に、心の在り方を変えようとしてくれたわけです。ヒンズー教の有名な教えをちょっと得意そうに唄うように先生が言いました。

「心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。行動が変われば、歌も変わるよ。」

 綺麗な先生だったなぁ(笑)とはいえ、だからまず、先生がしたのは「歌うという行動を一度忘れさせること」だったわけです

 具体的には。歩きながら歌わせる、踊りながら歌わせる、楽譜を見ないで歌わせる。逆に楽譜だけをみて歌わせる、目を閉じ練習室の中をブラブラしながら音譜だけをおいながら歌う…こうした訓練をして下さった訳です。さらに発声の仕方を理屈ではなく体感で感じることの重要性を説き、「あくびをしてみて。それが楽で自然な声なんだよ」とか「どんな変な声でも良いから一番楽な声を楽な姿勢で。はい!ほぇ〜でも、ふにょ〜んでもいいから、思いっきり出す!」と言われたり。当時は意味も分からずただやっていたこの訓練が、後になって理由が分かると…なんと喉が楽なこと。

 この時の教えを総括すると、「何かをする上で最も良い状態は”自然体”なのである」ということだと思います。

 声は、無理をさせれば壊れてしまうし、使わなければ劣化する。喉は繊細な管です。むりやり声を絞り出せば高音域は出るが、声帯はすぐくたびれて掠れてしまう。使わずに居ると筋肉が衰えて、ロングトーンが不自然に揺れ、綺麗なメロディラインを保てなくなったスタミナの無い声になる。絞れば勢いよく出る水も、元を辿ればある一定の水圧でしかない。喉は空気と言う水を、声帯の振動を通して出すホースと言えます。

 歌にとって最もベストな状態とは、過負荷も無負荷もなく、ただ自然に歌えるということであると、先生は教えてくれました。その為に先ずは歌うと言う行為そのものから目線を外して、自分の歌を客観視することが重要だったのです。

 それが、自分にとってだけでなく、他人にとっても心地のいい歌だと。そして生きる事と歌うことをイコールにするということもまた、そういった自然な発声を身につける意味に根ざしている。

 さて、今その境地に、至れているかというと、まだまだです。それでも僕は結果を出して来ました。今、5年の時を経て、カラオケの採点は着実にあがっています。

 ハッキリ言って自慢します!僕は、僕のままでここ迄これた!胸を、張るなら今しか無い!


 でも、まだまだです。あと一歩という所まで来ていて、でもまだ何かの枷が外れない。あるいは、何かのハードルが越えられていない。気取ってる。気恥ずかしさがある。そしてオナニープレイのまま終わりたくない!

 歌います。あらゆる歌を。自分のため以外に、歌える歌を、探します。聞いてもらいたいです。

 noteで歌を公開したいけれど、作詞作曲編曲とが厳しく、日々模索中です(汗)歌の公開をする上での心構えや、方法などがありましたれば、ご指導いただきたく候(☍﹏⁰)。


以上、乱筆乱文失礼致しました。最後迄読んで下さってありがとうございます。

ここから先は

0字

¥ 108

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?