あの日を忘れない。
昨年末からnoteへの投稿を始めて、五月雨式に色々な事を書いてきました。
特に予定も決めずに文章を綴って来たので、ジャンルに偏りがあったり、投稿頻度がマチマチだったりしています。
と言っても自分の為に書いているので誰かに謝るわけではないですが。
今回のトピックだけは予め書く事を決めていました。
投稿する日付までしっかり決めていました。
東日本大震災から十年が経ちました。
中学一年生だったあの日
当時の私は中学一年生で、
その日は三年生の先輩方の卒業式が午前中にあって、
午後はサッカー部の練習があって、
練習終わりの帰路をショートカットしようとして私有地に入っていった友人がその土地の所有者のおっさんにぶん殴られた日でした。
一年生は卒業式に参加しないですし、部活の練習はいつでもあるし、
友達が知らないおっさんから殴られたことなんて今となってはただの笑い話ですし、
ただそういう日常の小さな一コマが2011年3月11日に紐づけられているのは、帰宅後に流れていた臨時ニュースの映像のインパクトが強すぎたからだと思います。
帰宅した時にはすでに黒波が街を飲み込んでいて、
原発という当時の中学生にとっては聴きなれない施設が崩壊していて、
世界の終わりみたいに火の手が上がっていました。
全く知らない街で、けれども日本のどこかで、こんなに大きな災害が起こている。
あまりにも現実味にかける映像に言葉を失っていると、自分が小学生の時にお世話になった先生が仙台出身であることを思い出して突然心配になる。
心配や恐怖より唖然が先に出るほど、その映像はフィクションのような異常さがあったのだと思います。
東日本大震災という一連の災害の全容を捉えるのに中学一年生という年齢は若すぎて、何が起こっているのかという事を理解するには知識も経験も足りませんでした。
ただ、そんな自分にも少なからず分かったのは、あの瞬間あの場所には、有り触れたくだらない、けれども愛おしい日常は無いという事でした。
部活終わりに百円のジュースを飲みながらダラダラと足を引きずって帰ることも、
帰宅してすぐに「早くシャワー浴びて」と母に口うるさく言われることも、
卒業式後の決まりごとのような別れの時間でさえも、
あの日黒い波とごうごうと燃える炎が全て持って行ったのだと。
ここまで言語化できるほどにかどうかは置いておいて、ただ直感として理解していたと思います。
大学三回生だったあの日
時が経ち、高校に進学して、大学まで行って、なんだかんだで大人の仲間入りをしてからの事でした。
大学三回生の三月頭だったと記憶しています。
当時私は家庭教師のアルバイトをしていて、小学四年生の男の子に勉強を教えていました。
教えると言っても、基本的にはその日出された学校の宿題を見てあげて、できたら褒めてあげ、できない時はヒントを出してあげるようなものでした。
その日彼がしたいと言ったのは社会の宿題でした。
次の授業までに都道府県を覚えないといけない、とのこと。
北海道から順番に南下していく。
少し難しいかなとは思いつつも、ただ覚えるだけでは意味がないと思った私は都道府県ごとのちょっとした豆知識も教えることにしました。
その日に覚えて欲しいわけではなく、ただ何となくある日に思い出してくれればいいかなという程度に。
青森はな、リンゴが有名やねん。
秋田にはな、なまはげってゆう鬼がおるねん。
宮城は緑色のあんこが乗ったお餅があってな・・・
岩手とか宮城とか福島はちょっと昔にすごい大きい地震の被害があってな。
たぶんテレビとかでみたことあると思うけど。
そろそろまたニュースでいっぱい取り上げられると思うから一度しっかり見て。
そんな話をした時に、彼はポカンという顔をしていました。
もしかして東日本大震災って知らへん?
うーん。
聴いたことはあるけどって感じ?
うん。
テレビで見たことない?津波の映像とか?
あるんかも知れへんけど、ようわからん。
その子は当時10歳やそこらだったので、ある意味で仕方がないのかもしれません。
震災当日の彼はやっと言葉を話し始めたくらいの幼児なわけだし、小さな子どもが起きている時間にあんなにショッキングな映像を流す番組も少ない。
だから彼に非はないのだと思います。
それに子どもがこういう事に関して無知でいられるのはある意味では幸せなことなのかも知れません。
少なくとも彼が産まれてから数年の間は大きな災害が彼の住む土地では起こっていない。
自分の身の回りに関係の無い事に興味を持つ程に子どもの視野は広くないし、時間もないのであって、
恐ろしい事を知らずに成長できるのはある意味で平和な証拠だとも思います。
それでもやっぱり「これでいいのか?」という想いはありました。
あの日あそこにいたのは自分や大切な人かも知れないという不安。
当たり前すぎて帰ってくることなどないという事すら忘れる日常が崩れる瞬間。
全てを失った人々が一から物を作り上げていく力強さ。
そういう事を知らずに成長する事は果たして当人にとって良い事なのでしょうか?
震災から十年、あの日を忘れない
東日本大震災という未曽有の事態の発生から十年という節目をコロナ禍という新しい社会現象の中で迎えるとは誰も想定していなかったでしょう。
昨今の情勢と同様に、十年前多くの人があの日あの瞬間にあのような惨状を目の当たりにするとは思いもしなかった。
昔の書物にも東北地域を津波が襲ったっという記述がなされていたようですが、そういう事を知ったのはあの震災の後でした。
起こってからでは遅いという言葉あるにも関わらず、それでも私たちは知らなかった。
私はあの日あの場に居た当事者ではない。
それでもあの日に起こった事を忘れることはないでしょう。
忘れたくても忘れることなんてできないでしょう。
これから産まれる子どもたちはどうでしょうか?
もちろんニュースや何かで見聞きはするでしょう。
それでもあの日僕たちがリアルに感じた喪失感を覚えることはないのかも知れない。
それがこの先未来永劫に続くだけなら良い事なのかも知れない。
しかし、地震や台風等の災害は日本という土地柄必ず起こる。
当事者か傍観者かは別として、80年生きていれば必ずどこかで経験する。
そういう種類の物だと思う。
だからこそ、彼ら彼女らがどれだけ平和に毎日を過ごしていても伝えないといけない悲劇もある。
自分や周りの人々へ向けられる不安は知識をつける原動力になります。
日常が崩れるイマジネーションは今を悔いなく生きる大切さを伝えます。
人々の力強さが彼ら彼女らに安心感を与えます。
そしてそういった諸々の知識体系こそが天災に次ぐ人災を最小限に食い止めるのだと信じています。
実際に被害を受けたわけではない私を偽善者だとか、お前に何が分かるのだとか言う方もあるかもしれません。
それでもあの日感じた喪失感はこの国に生きる人間に共通してあった物だと思います。
そういうリアルは私にも次の世代に伝えることができると思うのです。
あの忘れられてはいけない瞬間を社会が忘れずにいられるかは今を生きる私たちにかかっています。
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