駆逐艦涼月を救った男・國場勇~甥の松山達司氏によって明らかになったある歴史の真実について~【後編】國場勇とは誰か 涼月と沖縄を結ぶ糸

前編より続く
https://note.com/tocho_watchtv/n/nf0e088440a7d
 
 
遺骨
 松山氏は一昨年、定年退職した。本腰を入れて伯父・國場勇氏の遺骨を探そうとした矢先、新型コロナの感染が日本列島を襲った。独自調査の開始は1年半後ろにずれ込んだ。
 令和3(2021)年12月3日、松山氏が最初に向かったのは佐世保東山海軍墓地だった。小高い山の斜面全体が墓地として整備され、ひときわ高くそびえる「大東亜戦争戦没者慰霊塔」をはじめ、至る所に慰霊碑が建立されている。中でも目を引くのは、戦艦、航空母艦、軍艦などの艦名を刻んだ合葬碑の多さである。
 駆逐艦涼月に関して言えば、海軍墓地に慰霊碑はない。その代わり、下記のように記された石の案内板が建っている。
『駆逐艦涼月、冬月、柳三艦の慰霊碑は左記の地に建立しております
   北九州市若松区高塔山中腹忠霊塔東 涼月会』
 納骨室は「大東亜戦争戦没者慰霊塔」の地下にある。17万6千柱の遺骨が納められている。事前に連絡を入れ事情を伝えていた松山氏は、海上自衛隊OBのM氏と現地で合流し、慰霊塔の裏に案内された。重い鉄の扉を上げると階段が下に続いている。降りたところは3m✕7m程度のコンクリート造りの小部屋になっていて、コンクリートブロックをくり抜いたような下駄箱状の棚が所狭しと設置され、そこに遺骨と戦没者名簿が安置されていた。
    遺骨は大きめの茶碗程度の大きさの骨壺に収められている。左側の列の骨壺には個人の氏名がはっきりと記されていた。松山氏はM氏の助けを借りながら、左側の棚に並ぶ骨壺に「國場勇」の名前を探したが、残念ながら見つけることはできなかった。右側は無記名の骨壺である。探しようがない。
    諦めきれない松山氏は、戦没者名簿を当たってみることにした。納骨室に収められているのは、佐世保鎮守府管内の九州、四国出身者の名簿である。名簿は県ごとに数冊の冊子にまとめられていた。松山氏はM氏と手分けして探したものの、なぜか沖縄県の冊子だけが見当たらなかった。果たしてそんなことがあるのだろうか。不可思議としか言いようがない。
    戦没者名簿の保存状態はとても良好とは言えず、ページをめくると緑色の表紙が今にもボロボロと崩れそうな状態だった。だが、記載事項そのものはしっかりしており、氏名もはっきりと読み取れた。そうなると、沖縄県人の名簿がないことがますます悔やまれた。松山氏はM氏の尽力に深謝し佐世保を後にした。
 
昭和58年涼月会のビデオテープ
 松山氏の遺骨探しには、「軍艦防波堤を語る会」の主要メンバーも深く関わっていた。松山氏から松尾氏への連絡を受けて、まず行動を起こしたのは会長を務める柴田伊吹氏だった。
    柴田氏は佐世保港の近くにあるいくつかの寺に直接電話をして問い合わせてみた。しかし、國場勇氏の遺骨に関わる情報は得られなかった。ある住職の話によれば、涼月が佐世保港に帰還した後の昭和20(1945)年6月、佐世保は大空襲に見舞われ、完全に焼失してしまった寺も少なくなかったという。仮に空襲で焼失した寺に遺骨が安置されていた場合は探し出すのは難しいだろうとのことであった。
    柴田氏の電話作戦は闇雲に行われたのではない。確たる根拠があった。それは松尾氏が所有していたビデオテープである。昭和の終わり頃まで涼月会では、将校クラスのOBも交えての全国規模の集まりも催していた。保存されていたビデオテープは昭和58(1983)年4月8日の会の様子を記録している。そのなかで、涼月の機関長だった向原氏が貴重な発言をしているのである。以下、発言の要旨をまとめる。
 
 私(向原氏)には、ただひとつ心残りがある。戦いに敗れて佐世保に入ったときに艦(涼月)の中に残っていた我が英霊の方々の火葬隊長を私が引き受けた。艦が佐世保に入る前の日に佐世保が空襲を受け、海軍工廠も爆撃を受けた。女子挺身隊の方々がだいぶ亡くなったという時だった。佐世保の火葬場が非常につんでいたと記憶している。それで三日三晩掛けて火葬にした。しかし、遺族に渡すことができない。生き残った方々に来ていただき、遺骨を桐の箱に入れてサラシに包んで首から掛け、佐世保の寺に安置したことを覚えている。その後、佐世保が大空襲に遭い、その寺がどうなったか、あるいは遺骨がどうなったか、そうしたことを私は未だに思い出す。遺骨は家族の元に帰っているだろうか、あるいは空襲でやられてそのままになっているのだろうか。その後のことを知っている方がいたら私に知らせていただきたい。私のただひとつの心残りはそのようなことである。
 
 ビデオテープに記録された昭和58年といえば、すでに敗戦から38年の月日が過ぎ去っている。にもかかわらず、火葬隊長の向原氏は仲間の遺骨の行く末を案じているのである。こうした情報を元に柴田氏が奔走したのだが、向原氏の発言内容からも國場勇氏の遺骨を探し出すことの困難さを感じざるを得ない。ただ、遺体は戦友らの手で丁重に荼毘に付されたことだけは確かであろう。
    ビデオテープはすり切れ、音声も聞き取りにくい状態だったが、「軍艦防波堤を語る会」のメンバーの努力によってテープ起こしが行われた。涼月帰還後の火葬の状況がわずかながら判明したのはせめてもの救いである。
 
桐箱と貝殻
    松山氏による伯父・國場勇氏の遺骨探しの旅はこれで終わったわけではない。令和4年4月3日の「軍艦防波堤を語る会」での発言を松山氏は次のように締めくくった。
「遺骨が預けられたお寺の情報がわかれば教えていただきたいと思います。たとえ、そのお寺が現在なくとも、所在地がわかればそこの石や土を持ち帰り、伯父の父母、弟(松山氏の父)が眠っているお墓に一緒に納めてあげたいと思っています。」
    松山氏の國場勇氏に対する強い思いが溢れる言葉である。
    松山氏の実家の仏壇には、勇伯父の位牌と写真、そして酒升位の大きさの桐箱が置いてある。日頃から母親は「この桐箱は決して開けてはいけないよ」と子供に言い聞かせていた。ところが、小学生の松山少年はある日、母が買い物に出かけた間に、好奇心からこの桐箱を開けてしまった。中には遺骨が入っているのか、髪の毛や爪が入っているのか、松山少年はハラハラドキドキしながら中をのぞき込んだ。そこにあったのは綿に包まれた数個の貝殻だけだった。
    それから半世紀が経った今、松山氏はこの貝殻に変わる何かを追い求めているのではないか。
 
    会の発言の中で松山氏は、伯父の國場勇氏の来歴についても限られた情報を元に言及している。駆逐艦涼月を自らの命と引き換えに救った男・國場勇とはどんな人物だったのか。
 大正6(1917)年12月20日、國場勇は台湾で生を受けた。父親は台湾総督府に勤務していた。勇は次男坊、母方の実家に男子がいなかったため、幼い頃に國場の家に養子に出されたが、実際は実家で実の父母や兄弟たちと暮らしていたとも伝えられる。徴用時には大坂で働いていたという。徴用直前に結婚していたが子はなく、勇の妻も戦後まもなく亡くなった。涼月の弾薬庫で命を絶った勇は、本土に妻を残して出征した27歳の青年だったのである。
 
ルーツは沖縄
    勇の姓である國場に何か引っかかりを感じた人はいないだろうか。國場(こくば、くにばと読む例もある)は、典型的な沖縄由来の姓である。松山氏による親族の説明を通じて浮かび上がってくるのは、沖縄というキーワード、あるいは沖縄と涼月を結ぶ運命の糸である。
    松山氏の親族は元々、生粋の沖縄人だった。父方の旧姓は「冝志冨」という。「ぎしとみ」と読む。居住地は、那覇湾に面した旧那覇東急ホテル付近にあり、かなり裕福な家庭であったようだ。冝志冨氏は、琉球に塩田の技術を導入するために中国から招かれた一族をルーツに持つ。現在の那覇市松山、若狭地区に当時は塩田が広がり、そこの権利を冝志冨氏が保有していた。しかし、大正時代に裁判沙汰となり、敗訴し権利を失ったと伝わっている。
    松山氏の祖父つまり国場勇の父は、旧熊本工業(現在の熊本大学)を卒業した後、台湾総督府へ入り、鉄道技師として活躍した。國場勇の生まれが台湾なのは父親の勤務地だったからである。そして、松山氏の祖母、國場勇氏の母(旧姓國場)は教員だった。二人は3男5女をもうけた。末っ子が松山氏の父である。末っ子を除いて全員が台湾生まれである。
    太平洋戦争が激しくなると、松山氏の祖父は台湾総督府を退官し、家族共々沖縄にもどった。松山氏が伯母たちから聞いた話では、沖縄戦が始まる前に家族全員が沖縄から本土に疎開したという。数隻の船団を組んで本土を目指したが、途中、船団の1隻が米軍潜水艦の攻撃を受けて沈没した。次は自分たちの番だととても怖かった、船は本土から兵隊と共に家畜を載せて来たあとの折り返しの船だったため、船の中はとても臭かったと語っていたという。
    疎開先は、三女の伯母が現在の埼玉県戸田市で働いていた縁を頼って落ち着くことになった。次男の國場勇は、家族とは別に大阪で働いていたところを駆逐艦涼月の乗組員として徴用された。
 
差別と改姓
    無事に疎開しても、冝志冨氏一族に平穏な日々は訪れなかった。
    松山氏はこう記している。
「現在では考えられないことですが、当時、沖縄出身者は本土からは蔑まれており、長男の伯父は、『冝志冨』の姓を『松山』に改姓し、本土の人間であるかのように工作しました。改姓にあたってはかなり苦心したと聞いています。伯母たちは、改姓したものの、沖縄独特のイントネ-ションからなかなか脱することができず、沖縄出身ということが周囲にバレてしまうことが怖かったと話していました。父は母と結婚する際、鹿児島出身と偽っており、東京出身の母と母方の親戚は、結婚後しばらく経って父が沖縄出身であることを知ったと母が話していました。当時は、沖縄出身であることに相当コンプレックッスを感じていたようです。」
    改姓してまで沖縄のルーツを隠さなければならないほど、沖縄出身者を差別する空気が本土には充満していたことが推測される。だが、改姓後の「松山」姓の由来に思いをはせるとき、筆者は冝志冨氏一族の意地のようなものを感じる。松山姓が、冝志冨氏が塩田の権利を保有していた那覇市松山地区に由来しているのは明らかだ。たとえ本土で生きていくために心ならずも改姓しても、心は沖縄にあり続けると誓っているのである。
 
    戦時中の改姓と言えば、筆者にも思い当たる節がある。涼月艦長の平山中佐の旧姓は「平」という。漢字一文字の「たいら」である。前述したとおり生まれは奄美、それも加計呂麻島という離島出身である。郷土の誉れ高く海軍兵学校に入学した当時の平青年の写真には、ふんどしに大きく「平」と書かれている。ところがその直後、加計呂麻島の一族は「平山」に改姓した。
    当時の島の事情を知る人によれば、漢字一文字姓の多かった奄美では、漢字二文字に姓を改めることがよく行われたのだそうだ。理由は定かではない。だが、当時日本の植民地だった朝鮮半島の人々や一部を支配下に置いていた中国大陸の人々の姓に漢字一文字が多かったことが少なからず影響していたのだと思えてならない。自分が日本人であることの存在証明としての改姓である。
    平山のケースは冝志冨氏の改姓とは深刻さの度合いが違いすぎるかも知れない。しかし、冝志冨→松山、平→平山の改姓は、程度の差こそあれ、大日本帝国内に住む臣民を序列化しようとする無言の社会的圧力に起因していたのではないか。筆者にはそんな気がしてならない。
 
沖縄を背負って
    駆逐艦涼月の母港は佐世保である。乗組員の大半は九州・四国各地から招集された。以前、涼月会の会員名簿を閲覧させていただく機会があったが、名簿には九州地方の住所がずらりと並んでいた。次に多かったのが四国だと記憶している。実際、筆者が松尾氏と一緒に元乗組員の方々を訪ね歩いたとき、足を運んだ先は佐賀や熊本だった。
    そう考えると、大阪に住んでいた國場勇氏が涼月乗船を命じられたのは例外だったのか。いや、そんなことはない。親の出自が沖縄だったからこそ涼月の一員になったのだ。九州出身者が幅をきかせる艦内で國場勇氏はどんな思いを抱いていただろうか。結果論だが、國場勇氏は沖縄の存在を自ら背負う形で沖縄に向けて出撃した。そして戦後の支配者となるアメリカに完膚なきまでにたたきのめされ、運命のいたずらで涼月を守るため一命を捧げた。はたして國場勇氏は大破した涼月がそのまま沖縄に突っ込むことを信じて亡くなっていったのか、確かめる術はない。
    松山氏は、沖縄の名誉のためにという思いもあり伯父の國場勇氏は自らの命を犠牲にしたのかもしれないと推測する。
    松山氏は続けて言う。
「私にも沖縄の血が流れています。戦争で島民20万人が犠牲になった沖縄の発展を願ってやみません。」
 筆者にも奄美の血が流れている。沖縄も奄美も戦後、日本から切り離された歴史を持つ。駆逐艦涼月の奇跡の生還劇は、これまでとはまったく異なる視点、沖縄や奄美の視点から見直すこともできるかもしれない。
 
    今年2月のロシアによるウクライナ侵攻は、地政学的なバランスを揺さぶり、その余波は、紆余曲折を経てユーラシア大陸の東端にまで達した。中国軍による大規模演習と称する台湾への恫喝は必然的に沖縄を巻込まざるを得ない。77年前に沖縄が置かれた状況と重ね合わせることも可能である。戦争と平和、日本と沖縄、その間を進む駆逐艦涼月の艦影を想像するのは筆者の妄想に過ぎないのだろうか。
    だいぶ話が拡散してしまった。
 ひとまずこの辺で國場勇氏の物語を終わりたいと思う。小稿の執筆に当たっては、松山達司氏の発言と手記に依存するところがたいへん大きかった。アドバイスもいただいた。松山氏には深謝しても仕切れない。
    筆者はかねてから、弾薬庫の3名の方々の姿を含め、駆逐艦涼月のたどった軌跡を映画化・映像化したいと願ってきた。とはいえ、周囲に言いふらすだけで具体的な目処は何ら立っていないのだが、涼月の存在は決して単なる美談に収まり切るものではないし、ありきたりの武勇伝で終わらせてはいけないと思っている。
    涼月は、敗戦間近の日本がはらんでいた数々の矛盾を一身に背負って散っていった、ひとつの歴史の結末である。ひとりでも多くの日本人に知っていただきたい真実が北九州市若松区の軍艦防波堤に眠っている。
 
【参考文献】
「激闘 駆逐艦隊」 倉橋友二郞著 朝日ソノラマ
「海ゆかば・・・ 駆逐艦隊悲劇の記録」 倉橋友二郞著 徳間書店
「若松軍艦防波堤物語~戦いの記憶を語り継ぐ~」松尾敏史著 福岡県人権研究所
「軍艦防波堤へ~駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月~」 澤章著 栄光出版社
 
軍艦防波堤を語る会関連ホームページ
http://suzutsukimamore.web.fc2.com/
 

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