見出し画像

名鉄電車とたどる道(東海道を歩く15)

  朝になっても昨晩をひきづったような暑さです。なんだかこれといって特徴のない豊橋の街が、ぼんやりとした街の印象を倍加させています。東海地方だと、真っ黒な壁の町屋が印象的な岐阜の街や、街中に水が張り巡っていた大垣の街が印象に残っていますが、豊橋はどこかつかみ所のない街だなあという印象です。ともあれ、先を急ぐように歩き始めます、豊川という隣の街の名前そのままの川を渡る橋は、これまた街の名前の由来なのか?豊橋という名前の橋をわたります。河口に近いこともあり水の流れはありません。 豊橋を渡り左に曲がる。そのまま川沿いを進みます。あたりは昔も今も郊外の住宅地です。豊橋にはちくわの老舗もあったりと、海沿いの街らしい漁業と関わりのある街ですが、街そのものから海の存在を間近に感じることはあまりありません。

画像5

 しばらくいけば豊橋魚市場という魚市場の建物があります。ここでやっと海の近いことを認識します。この場所の間近には豊川放水路が現れます。持参したガイドブックだと、この放水路を越える橋は歩道がなくて危険。迂回を勧めています。なるほど土手まであがって橋の先を見渡し進めるかどうか確かめても、反対側から大型トラックとすれ違えばまったく隙間がないようです。諦めてさっさと迂回することにします。以前なら、街道歩きは出来るだけ忠実に歩きたい気持ちが強かったのですが、最近は忠実さよりも快適に歩けることの方を優先する様になりました。その迂回して渡っている 国道1号線のバイパスの歩道から海側を眺めると、その渡るのをあきらめた橋と鉄道橋が並んで見えます。新幹線、東海道線、飯田線、そして名鉄。豊橋駅に乗り入れる路線が多彩だから、この鉄道橋を通る電車もとてもバラエティに富んでいて見飽きないくらいです。

画像5

 橋を渡りおえたころ、道ばたに石碑を見つけました。1000年前のこと、この近辺を若く美しい女性が通りましたが、この地区の風習に従い、泣く泣く生け贄に捧げたこと、この石碑はその女性を供養するためだそうです。不幸な女性の悲しい物語になるのでしょうが、よくよく考えればかなり理不尽な話であります。共同体の掟に従って犠牲となる若い女性は同情されるが、もし女性が犠牲となることを拒絶したらそれは共同体の掟に逆らうこと。成員によって断罪されたり村八分になり追い出される。これと同じ構図の話は現代でも無縁ではありません。さて、神社そのものは地域の守り神のような建物です。入り口では初老の男性たちが立ち話をしています。 神社を越えれば丘を登ります。あいかわらず道は狭く、車が通り過ぎる片隅を小さくなって歩きます。

画像6

 それでも、しばらく進んだ後の伊奈の近辺にはまとまった集落があり、日蓮宗のお寺のあたりでは「手作り市」を開催していたり、その隣にはコミュニティカフェの店があって、そこ付近だけが人の生活のにおいがする空間になっていました。言い換えれば、伊奈のあたりを除いて殺風景な道が続いています。旧道からバイパス道へ合流するあたりには、警察署がつくった道祖神のレリーフがあります。が、心なごむのもほんのわずかで車が行き交うバイパス道の景色は単調でおもしろくもなくしかも暑い。まるで苦行のような歩きに陥ってしまいます。 

画像7

ようやく、名鉄線を陸橋で越えた国府のあたりでバイパス道から旧道にそれます。しばらく歩いて御油宿に到着します。宿場のなかほどにある御油橋の景色が涼しげです。暑さの中を歩き続けふらふらになりそうなので休憩場所を探し、コメダ珈琲を見つけて涼んで休憩します。再び街道歩きに戻ると、しばらくして前方にうすぐらやみが見えます。御油の松並木にぶつかります。ここまで東海道を歩いていろんな松並木がありましたが、木の集まり具合といい並木そのものの景色は、この御油の松並木が一番と思いました。この松並木の途中には茶屋も見えます。こっちで休憩すれば良かったかと思い直します。 さて、松並木が終わればすぐにに赤坂宿に着きます。御油と赤坂はひとつの宿場とされていた時期もあるくらい至近距離にあります。

 この赤坂宿でもわりあいに旧い建物や宿場町当時の雰囲気が残っています。途中の休憩所ではこのあたりで掘り出した遺跡物を写真で展示しています。平坦な土地よりも、こういった山裾にある集落のほうが歴史の旧いことが多いように思います。大昔の人間が選んだ土地が後々の世代に引き継がれて住み続けているけれど、後世の人たちはその事はよくわからないし気にも留めない。個々の人間はわからないけれど人間の営みの総体としては明らかに繋がっているわけで、歩きながら不思議な気持ちになりました。ほんとうにひとりの人間が知り得ることなどちっぽけなものだ。と思います。

画像8

 いよいよ両脇に山が迫り峠越えになるあたり、遠方にもうひとりおじさんが歩いています。荷物は持たずに軽装の出で立ちで、おそらく地元の方なのでしょう。二言三言会話をします。以前ならここで延々と話を続けることもできるはずですが、いまは頭の片隅にコロナ感染のことがあって会話もギクシャクとしてしまいます。本当に恨めしいことです。それにしてもそのおじさんは元気なこと、あっという間に、早足で私よりもどんどん先にすすんでいって見えなくなってしまいました。そうやって峠を越えたあと本宿に到着します。公式な宿場ではありませんがまとまった集落になっていて、横を眺めると名鉄の立派な高架駅がそびえています。ただ、近隣に食堂のようなものがあるかと期待してもなにもありませんでした。駅にはひっきりなしに電車が到着、発車していきますが、集落の方には出歩く人も少なく閑散としています。

画像8

さて、本宿のあたりからずっと名鉄電車が併走していて、歩く隣をさまざまな形をした車両が通り過ぎて行きます。もちろん関東にも私鉄はたくさんあるし頻繁に通るのも同じですが、関東だと閑散区間に決まっている山越えの路線が、こちらではひっきりなしに電車が行き交っていることが違うでしょうか。あと、だいたいが8〜10両編成が当たり前の関東と比べて、こちらでは長くても6両編成で、だいたいは4量編成。ときどき2両編成などが走りとてもかわいらしく見えます。 

 右手に名鉄の車庫が見えたころに藤川宿の入り口が現れます。棒鼻と呼ばれる鍵状の道を越えかつての藤川宿に到着します。建物の並び方や道路の区画など江戸の当時のものが比較的残されていて、宿場風情をわりあいに残しています。その藤川には道の駅と名鉄の駅が隣り合っていて、ここでようやく食事にありつきます。暑さのなかで歩き疲れた身体では、どうしても麺のような食事が食べ安くて、ここで頼むのはやっぱりきしめん!です。この道の駅で出されたきしめんは、皮の粒が麺にところどころ残っていて初めてみるようなタイプの麺。うすく平たい形状の麺は、ごろごろっとしたうどんとかよりもすんなりと口の中に入っていきます。とてもおいしい!一方で隣の名鉄の駅はとても簡素なもの。駅ホームと東屋のような駅舎は、首都圏の駅の感覚からすればまるで都電の駅のような簡素さです。 

画像2

藤川宿をすぎると、またまたバイパス道が始まります。見えるのは田園風景ではなくて、起伏のある郊外の住宅地の景色です。正直なところあまり面白みのないとても疲れを感じる道です。それにしても、暑さのせいもあるでしょうが、屋外を人が歩く姿もなければ、自転車の姿もあまり見かけません。東京近郊ならふつうに見かけるジョギング姿のひともほとんどみない。一方で隣のバイパス道は自動車が隙間なしに通り過ぎて行きます。さすが自動車王国だと思います。たぶん、このあたりの住人の人たち、日常の移動はほぼ100%が車での移動だろうし、近所のスーパーへの買い出しさえもたぶん車で行くのだろうと想像します。そういった特に代わり映えのない道を過ぎて、やっと岡崎の街に到着。門跡を見てわかります。ただ、これといった賑わいがあるわけではありません。がらんと広い道路がかつての東海道であったことを表しています。掛川でも豊橋でもそうだったように、ここ岡崎でも街中の東海道はくねくねと鍵状に曲がっています。27曲がりと呼ばれるそうですが、とてもわかりづらいのでいくつかの道は間違えていると思います。本来は忠実にたどるべきなのかもしれませんが、今回の歩きでは気にしないようにしています。本陣跡は、街道と駅に向かう道が交わる十字路の近くに簡単な看板がありました。そして近くには、備前屋という老舗の和菓子屋があります。店頭には創業天明2年と書いてあり老舗であることをアピールしています。 和菓子屋の看板の菓子のひとつに「あわ雪」という、白いようかんのような牛乳かんのような形状の菓子があって気になっていたので、あとでお土産に買おうと思います。

画像1

 今回の歩きは岡崎まで終わり。平坦な平野の街かと思いきや、そうではなく起伏のある市街地でした。JRの岡崎駅ははるか遠くにあり、名鉄の東岡崎駅がこの市街地からの最寄駅で向かいます。それにしても到着した東岡崎駅は、岡ビル百貨店と称した旧い駅ビルです。関東の私鉄駅のほとんどが商業施設を抱えこぎれいになっていく中で、ここまで古めかしい駅ビルは見たことがありません。駅のホームにあがっても、赤い名鉄電車が曲芸のように目の前を行ったり来たり。有名なのは四方八方に広がるいろんな種類いろんな行き先の電車を、たった2本の線路でこなしていく新名古屋駅ですが、その片鱗は東岡崎駅でも。最小限の設備でひょいひょい多種な電車をさばいていく曲芸のようなオペレーションです。その曲芸をおもしろくながめながら帰ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?