独創メモ20141225

いま時点で思うことは、年齢も性別も関係なく、どのような生活をしていても、どのような環境にあっても、どのような仕事をしていても、どのような地位であっても、どのような場面においても、あらゆる暴挙な行為をせずして、日々日常・年月を積み重ねて、生きて生き続けていられれば、そう生きたことそのものが確かな証明となり、どの歳どの地点においても、人は人として立派な人間であると言えるのだろう。

だから、そうして生きた人はそうして生きたことを誇りに思い、その示しとなって最期まで真っ当に全うすることだ。そうした人々が存命し記憶され記録され歴史となることで、生命を繰り返す人類は進化と共に学習し得て、あらゆる暴挙も減少し、後々消滅してゆくはずだと考える。

そうして、傷を減らし負わず負わせずに命が続けば、自身にとっての時間も周囲にとっての時間も有意義なモノであり、豊かな心身で人生を過ごすことができる。そのような進化進歩の大きな流れに人々が導かれてゆくのはごく自然だとも思える。誰もが人類の歴史から継承してゆけば…。地球体で共存する可能性としても、きっと。

しかし、産まれた土地、生い立ち、他や社会との関わり、成長過程において、人生の紆余曲折は誰にでもあり、真っ直ぐ進むことは困難でもある。個々人の歩みの中で様々な場面に遭い、多少なりとも暴挙と言える行為をしてしまうことも起こるのかもしれない。

たとえ、そうした場面や行為に陥ったとしても、自身と対相手の命さえ奪い合うことがなければ、存命の間に必ず更生する余地があること、生きながら再生すること。その方法や標として少ないのか多いのか何が正しいのか不明な点が多く、まだまだ途中にある今としては混迷しやすいかもしれない。が、今は今、存命している者たちの知識や知恵や能力や精神で示し残してゆく役割があるように思う。

と、これもまた、大概は希望なのですが。
そんなことを考えてみたクリスマスでした。
いかがお過ごしですか。happy。

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