独創メモ 2014年8月26日

きっと、表現の効果・効能も多分にあるんでしょう。今まで生きてきた人の様々な人間の性質や行為を、様々な表現によって、知り感じ考えして今、これからの日常や人生の糧にする。生まれ出た土地が違う、育ち成長する環境が違う、家族構成が違う、見るモノ聴くモノ感じ方が違う。いろんな違いがあって、それぞれに存在していることを、成長する過程でどのようにか知ってゆく。多くの人々の生命が時代を創ってきたことで、基本的な大衆向けのマニュアル化されたモノから、個々の存在を尊重したモノまで様々あって、表現はその中でも個々の特性が濃く出る面白いモノ。人から人に人を通して伝わるので、人が人として人っぽくいられるような、成長して自身を形成してゆく要素としても、いいお手本であったり、参考資料であったり、新しい可能性を見出したり発見できる、面白いモノだと思う。

今までどれだけの人が表現を残してきたことか、数えきれないけれど、それでもまだ、人として人っぽい人とはどんなものか完成型はわからない。時を経て、多くの人が感情を表現できる自由な時を過ごしているけど、まだまだそれが当たり前ではないことを知るからです。人類は昔から表現することの自由が有ったわけではなく、どのようにか段階を経て先人たちが表現することを選び得てして、表現できる領域を広げてきた。なので、表現することの自由は人々の豊かさに繋がり、今日まで継続されているのは希望でもある。と、思うのです。

そして、今後どのような方法で表現を開拓できるのか?というヒントにも、これまでの表現は役割として担っている。表現を自由にできない・感情を自由に持てない場面では、抑制や抑圧、憎しみや恨み、怠惰や欲望なんかが関わっていて、そうしたテーマの表現は今では沢山記録されたり作品になっている。それらを参考にして、例えば、憎しみを心に生めば人はどのように変貌するのか、どのような人生を送るのか、周囲の人間はどのように思い、社会ではどのような立場にあり、積もり積もった怨恨を深めれば、どのような顛末へ向かうのか。戦争のような争いをテーマにした表現についても多く残っていて、どの国でどのように起きてきたのか、残酷な人間の姿を、その後の過程を見ることができる。

しかし、今もまだ争いの血が止まぬことを知るのです。性別や年齢や地域性の異なる様々な設定の場面を疑似体験させてもらいながら、感じて考えてこれからの糧にできるでしょうか。

今では、殺し合うことも自死することも物語として創造できる。現実で悪事を働かなくても、誰も傷や痛みを負わずとも、モノゴト・デキゴトを(収束・終息)することができる。誰かが成り代わって表現として見せてくれることで、その時間を共有できれば、実社会では誰も傷つかない。人が人を介して表現を見て聴いて体感して、感覚や精神を養い、感動すれば理解する。カラダと心と頭が繋がる。自身の成長段階では知り得なかった感情に出逢っても、想像して自省し自制する働きにもなる。起こらなくてもいいことは起こらなくていいのだ。怯えたり恐れたりして自身の表現領域を狭める必要もないのだ。そうして余白ができれば、誰もが自由に表現しあう時間が広がり、限りある自身の時間へ注力できる。そんな感じで表現が効果を齎す展開を想像したり、思い込んでみようとしています。

まだ、続く争いの根っこは複雑で醜い、今もそうした根っこを元に血や死する人を見て、消えて無くならない事に落胆するけれど、ここは、やはり人間の希望でもある自由な表現が、まだまだ足りてない、まだまだ届いていない、まだまだ発掘されていない、まだまだ表現しきれていない、まだまだ体感していない、まだまだ理解していない、そんなテーマが沢山有るのだと思いまして、今後の表現は、もっともっと豊かな日常を創るための要素になれること、もっともっと発展する・進化する可能性のあること、もっともっと必要なのだ!と、落着したところであります。

多くの表現者の力をお借りする。

2014年8月26日

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