無題-2014-8-5

ホントの現実って、ホントは誰もわかってないし、わからないまんまに時を進めている。

今日も、きっと、宇宙に浮遊する地球体に居た。それも、実際にはわからないことだけど、宇宙を感じて、地球を感じて、今時代のココに居た。

そんな、現実と呼んでいるココでは、ファンタジーにも生きられると思っている、思い込んでみる、信じてみようとも思う。もう、時は21世紀なのだから、、。どうやって、素敵に愉快なファンタジーに生きられるかを考えてみるのだ!。ってか、今までももしかしたらファンタジーな処には、度々でくわしていたはずなんだ、、、と感じている。

現実と呼んでいるココでは、時に息苦しくもあり、悲痛もあり、難しくもあり、躓き悩みして自信も喪失する。ファンタジーな世界では、なんとなくなんでもないことのようになる。取り分け、インターネットの出現で、ファンタジーをより近く身近に感じさせる道具となって、日常でも活用されているのではないか、と強く感じている。そりゃ、まだまだ慣れないことも失敗も多いけれど。

例えば、そんな別ワールド感覚や空想的なことは、一般的には現実逃避というかもしれないけど、そもそものその現実もわからないのだから、逃げるということもない、逃げるモノもない。逃げるというよりは、何かの対処の為に選択した、生きる為の手法の一つとしてファンタジーに生きる、ファンタジーワールドで生きてみる。ただそれだけ。とりあえずは理由として解釈として成立すると思うのよ。そんな理由や解釈が、通用するかどうかは、大衆的かどうかは、理解できるかどうかは、多くの人々がこれから判別判断するだけのこと。現実逃避というのも、その言葉も、そうした手法の選択の一つとしてあり、とりあえず多くの人に認知されている。

それに度々、事件や事故の要因にもなったり、良くないこととしての例にあがりますが、日常で困難なことへの対処として、人間がとる思考行為の延長線で、既存の何か(薬物のようなものなど)を頼って、使って、ファンタジーに生きようと挑戦した人たちも沢山居て、それをあまり好まない風潮も世の中には、ある・あったかもしれないし、その手法は一般大衆向きではないとか、人道的ではないとか判断されただけかもしれない。それも生きようとした人の選んだ方法の一つと解釈はできるけど、ただ自分がそれを選ぶかどうかってだけ。

過去歴史にもあるように、鳥になって空を飛びたい!鳥のように羽ばたきたい!と願って望んで希望的に何かを選択して挑戦したこと、そうしてどのようにか代替的にも実現させたという流れと同じようなことで、それもこれも人間の進化の一つです。人々は今を知り感じ思い、生きてくうえで生きやすいように生きる方法を求めて思考し、知恵や能力を得て、進化してきたのではないかと思うと、今もまだまだその途中に在るんですよね。生きるという希望が、ここまで滅亡せずに続いてきたわけですからね。

今は21世紀ですが、もう既に14年も時を進めていて、確実にこの21世紀に死する人と、順調にゆけば22世紀を跨ぎ生きる人と存在していて、自分は2050年まで生きたら、もう老いぼれだなぁなんて考える。そんなことをちょっと想像しただけでね、この余生を生きてく中で、何かを恐れたり脅えたり、恐れられたり脅かしたり、そんな時間には使いたくないなと思うんですね。そんなことより、22世紀までの道筋に希望があればいいなと思うわけです。当面のテーマでいいでしょ。それでファンタジーな生き方ってのがピッタリじゃないかなと思った訳だ。

面白いモノはだいたいファンタジーである。そのもので有ることよりも、次なのか深いところなのか、言葉ではうまく説明できないところに有ります。

ファンタジーを食べて、ファンタジーを見て、聴いて、触って、香って、感じて。あぁファンタジーワールドだなぁ、ファンタジーに生きてるなぁと思うような実感はないかもしれないけど、そのものから直接的に得られることとは違ったカタチで得ていること、体感していること、今までありませんでしたか?段階的に感じられる心が豊かになることを意識してみると、既存の何かに執着する必要が無いかもなとか、どうでもいいことかもな、もうちょっと先に有るような気がするな、なんて漠然と思ったりもして、この現実のいろいろが可笑しくも見える。もっとファンタジーを体感したいな、そして感動したいな、人間の可能な限りのファンタジーの中で生きてみたいな、そんなことを思ったんですよね。ちょっと馬鹿げているかもしれないけど、何か広がるような感じしませんかね、今同時代のファンタジーワールドですよ。21世紀のファンタジー、これもまた一つの美学だな。



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