2014#6#14 メモ

産まれて出てきたら生から死までの道のりが続き。

生まれ出た場所に関係する様々なモノゴトや生き物と自動的関係を結ぶ。成長と共に自動的関係は、知らずとも増え、網目は細かく深く複雑になり麻痺もする。それらの関係については、何かしらの能力・思考・思想・行動により示され創り出された元々のモノから、新たに創り出されるモノまで多様に在るが、目立って一塊のように認識されまとまっている。しかし、個々の存在としては全く別物として在り、個々が個々として生み出し創り出し、思いのままに表現できるという自由さから、基となって成る。それがいつかどのようにか纏まり、多くの人々の人生指針をも示すような一塊となって存在し、自動的関係を締結する。

人の生が新旧入り混じるなかでは、違和感に苛まされ潰し潰されして生じるズレを引きずってまで、時を進めることになる。ズレはどこまでもズレるが、しかし、個々の存在が全く違うモノであるというのは、救いでもあり光でもあるのだと思う。そう思えば、どこのどのような者であっても、どのようにかして、個々の能力・思考・思想・行動を示し、表現体現して光射すことにより、後々の発展や展開に希望として証明することを見出さずにはいられないではないか。

なんてことを思い、どのようにかできるだけ晒すという行為を実験的にでも挑戦することに面白味も感じられるわけです。時として怖さもあり面白味もある。そんな感じで内から外へ自由に思うままに出してみることで、世の自由度もまた増してゆくんじゃないかと。そうして、現在は多くの人々の日常を毎時毎分毎秒、同ラインで感じられるような道具まで出現して、それは多くの人にとっても使い心地が良かったのか、便利に有効に活用され浸透していった。地球体のあらゆる存在するモノが、ぐんと近くなったようである。19世紀くらいに比べれば、奴隷化も激減し、人々の自由度も自由領域も増しているはずだ、しかし、小さな従属・隷属として質や形を変えて多く存在し続けている。21世紀、時を経てここまでキタ!が、まだまだ・・・。個々の示す表現が多様であることは、世の自由度が増す顕れでもあるが、自由であることの使い方や示し方も変化していて、意識的にも能力的にも求められる何かが段階的にレベル高いような。んーー何か?。自由であることと心身の豊かさのバランスも気になるところ。さて、21世紀に示され遺されるモノとしての可能性は如何に?。。。。

あっ、日が変わってしまったな。では、またに。

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