独創メモ2014*9*12

流れるモノは、流れるところに流れ、流れ着きして、また流れる。塞き止められ阻まれ奪われしても続いてきた。

風、土、砂、川、海、空気、鳥、魚、生き物、木々、人も血も骨も、時も情報も歴史も、、、

だから、突飛な発想かもしれないけど、もう可能な限り与えればいいのだ!と。それも始めから与えることを目的として与えるという行為をするでなく、個々の思うままの行為が、与えるに値すること。方法としては、値するなりの熱を込めて行為を示す、とか。あとは流れに任せる、そして、どこまでも流れる。

今のところ、どれだけ与えても地球体に溢れ、はち切れて飛び出す程にならないだろう。まだまだ。これは不足のまだまだなのでなく、余白があるということ。愛で溢れ、満ちて地球体爆発した!例もないのだから。まだまだ示せる可能性があるということ。試す価値有り。

世界の存在が共存することの再認識をするように、世界は共有するシーンを増やしている真っ最中だ!(とも、思うし)。それも急速に進んでる。その中では、阻み独占するような行為も廃れていくかもしれない。もしか原発や核で爆発しちゃうならば、どうせなら、愛満々で破裂して宇宙に飛び散って、新しい星物語も生まれるような。実にファンタジーだな。

さて、興味は与えることに有り。そこで、思ったのは消費者という区分についてでした。改めて聞くと、よくもまぁ消費者なんて呼んでくれたな!って。事業者以外の個人は消費者に区分される。サービスを受け消費する人。そのままと言えばそのまま受け入れて然るべきか。でも、消費者は消費するばかりでも無い、与えてもいますもんね。これからは愛用者がいいんじゃないかな。商品やサービスを受けることを撰ぶところから熱量があるし、選んで愛着をもって愛用することで、与え合う分かち合う繋がりができて。もう消費者なんて呼ばせないぞってな感じで。最終的にはなんらか廃品として終えることになっても、そこには愛用したなりの終え方が見出されてゆくかもしれない。

実際は、土から枝から切り離し、生き物を捕まえるとこから既に消費の行為は始まっているんだけど、最終的に消費者が全て背負うかのような流れもあって、消費税ってのも課されてしまってる。大人のなんともつまらない着想にガッカリだな。

本当の意味での生産者は、最小限の道具と心身を使って生み出すこと、それを他へ提供することをしている人達であったり、自然の動植物そのままのモノのことを指す。とすれば、それら自然の生産物を使って提供する行為は事業者でありながら消費者でもある。これで、全体的に消費者が増大するわけだけど、ここで消費者が愛用者へ変化したら、これはまた今とは違う社会の在り方を体験できるのではないか!?みたいなこと。です。様々な与える行為を。

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