「かなしい」体験

昨日の出来事。祝日だった昨日はオットとムスコと3人で出かけた。必要な買い出しをすませ、誕生日である友人の働く店へ、ささやかなお祝いを伝えに移動。小さいムスコもたくさん歩き、今日は勤労感謝の日だし夕飯は焼き肉だとようやく寒空からバスへと乗り込もうとしたその時。その日一日、家を出てからずっと離さず持っていた、お気に入りのおもちゃがムスコの手から落ち、ころころとバスの中へ入ってしまった。私とムスコはやばい!と一瞬目を合わせるが、唖然とするムスコを抱き、私は「このバスに乗るのは諦めて、バスが発車したら、おもちゃを拾おう」とムスコに言っているのだかオットに言っているのだか、自分に言い聞かせるように声に出す。ムスコは今にも泣き出しそうな顔でバスの下を見つめている。停車したバスの乗車口が開き、たくさんのお客さんがいそいそと入っていく。私たちが乗らないことを確認した運転手は扉を閉め、バスはゆっくりと発車する。と次の瞬間、バキっという鈍い音がしたかと思うと、バスの立ち去った後の道路に、粉々になったムスコのおもちゃが現れた。音の瞬間、オットも私も「あっ」と小さい声をだしたが、その声をかき消すようにムスコがいっきに大泣きを始めた。粉々になってしまった自分のおもちゃを前に、全身で大泣きをするムスコ。バス停に居合せた他のお客さんも、一部始終を見ていて「あ〜あ」という声を漏らす。私は泣きじゃくるムスコの背中をさすりながら「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。オットは粉々になったおもちゃの破片を急いで拾い集める。近くにいたおばさま2人組の一人が、「旦那さん、これに入れなさい」とビニール袋を出してくれ、もう一人は鞄からクッキーを取り出し、ムスコに手渡してくれた。おとしたおもちゃと同じくらいの、ムスコの手でちょうど握りしめることのできるクッキーの袋だ。ムスコは今までおもちゃを握っていたのと同じようにクッキーを握りしめ、ようやく泣くことを止めた。

ミニカーでもぬいぐるみでもなく、ただのコップのような白いおもちゃ。(ムスコはそれを「しろ」と呼んでいた。)いろいろなサイズのコップを重ねたり入れたりするマトリョーシカのようなおもちゃで、私が子どもの頃に使っていたお古だ。いろいろな色とサイズがあるなかで、ムスコはいつもその白いコップを気に入っていて、いつもはミニカーを持ち出すのに昨日はなぜかその白いコップを持って出かけたがった。古いおもちゃだから、今、同じものが手にはいるわけもなく、何より、ムスコのショックを思うとこちらもかなり胸が痛んだが、同時に私はムスコがそれだけ泣いたことにちょっとした驚きと感動を抱いた。それは一歳のムスコが「かなしい」という感情をしっかりと思っていたことに対する感動のようなものだった。大事にしていたおもちゃが目の前で壊れるのを見てしまうという体験。それはまるでもう帰ってこないことを知っているかのような心からの悲しみだった。悲しい気持ちをあらわに大泣きをしたムスコがすごく愛おしくて、ああ、この瞬間にも成長しているんだなと。そして私たちもこうして親にさせてもらっているんだなと、思わずムスコをぎゅっと抱きしめた。

その後、バスに乗る元気をすっかり失い、というか、なんとなくそのバス停にとどまるのが心苦しい気がして、私たちはとりあえずバス停を後にした。歩きだしながら私たちは、この粉々になったおもちゃをなんとか修復出来ないかと話しだしていた。私たちは近くのショッピングモールにミニ四駆やフィギュアの専門店があった事を思い出し、模型などの接着剤を求めて移動した。心の傷をはやくうめたくてうめたくて、急ぎ足でお店へと向かった。ムスコの心というよりも、まるで私たちのショックを埋めたいような、そんな急ぎ足だった。

この日、ムスコと私たちが経験した「かなしい」経験は、とても悲しかったけれど、私はなんだか嬉しくもあった。ムスコがまたひとつ大きくなり、そして未熟な私たちが感じた気持ちと親であることへの強い気持ち。これがオットのいない日の私とムスコだけの経験ではなく、家族3人で経験できたことでよかったと心のなかでふたりに感謝した。

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