新規就農のために移住してきた男

その男は昔、大手自動車メーカーに勤めていた。若い人たちを指導する長が付く役職まで昇進していたという。けれど彼は、三十代の半ばで、農業の世界へ飛び込んだ。結婚や約束した彼女を地元において、単身、あの街へ移住した。自分より年下の先輩に弟子入りをし、ゼロから農業を学んだ。

彼は、テンガロンハットがよく似合った。使い込まれたテンガロンハットをかぶり、畑にでる彼は、真っ黒に日焼けして、爪には泥がつまって、彼のたたずまいは、お世辞にも新米の農家にはみえなかった。貫禄すら感じられる彼が、心をスポンジのようにからっぽにして農業を学ぶ姿は、なんだか訴えるものがあった。すべてのものを受け入れ、吸収しようとする姿。持ち前の明るさと、超ポジティブな性格。大きな笑い声、ラジオから流れる歌謡曲にあわせて歌う下手くそな歌声。太陽と土が似合う彼の姿は、彼の夢の大きさを物語っているような気がした。私は、彼の過去、そして未来への興味をいだきつつも、あまりに目の前にいる「今」の彼がまぶしすぎて、満足してしまうのだった。「今」の彼には、人を夢中にさせるひたむきさが溢れているのだ。

あの街を離れてから、私は、毎年、彼が育てた果物を送ってもらっている。あの街で、あの太陽と土、そしてあの人が育てた果物。それだけはやはり、満足してしまうのだった。


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