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笑いを二分化して考えるとある法則が見つかった件。

子供の頃、我が家ではテレビの視聴制限があった。作ったのは母だった。

特別厳しいとは感じた事はなかったが今思えば厳しかったのだと思う。

基本的に夜の9時以降はテレビはつけられなかった。特に厳しく禁止されたものは「クレヨンしんちゃん」や「バカ殿」と言ったちょっと下品な面白おかしい番組は禁止された。

お色気シーンが出て来ればテンプレの様に手で目を隠しその隙間からこっそり見るなんて事をしてた訳です。

しかし、ある日その日常はある番組を機に少しずつ規制緩和され我が家に自由が訪れたのである。

日曜日の夜に寝れずにふとテレビをつけたらちょうどあるお笑い番組がやっていた。
「エンタの神様」である。

今でも覚えている。その時の芸人さんは今でこそ露出はほぼ無くなってしまったが当時は若手芸人で斬新なコントを毎週の様に作ってきて笑わせてくれた。その芸人は「アンジャッシュ」。その時のネタはピーポくんのネタで録音の音声のボタンを児島さんが押すのだが、絶妙にズレて変な意味で会話が成立してしまうと言う様なものだった。

気がついたら母も一緒になって笑って見ていた。

笑いはある種制限を解放してくれる革命的な手段だと小学校4年生の僕は気づいた。

それから毎週エンタの神様を見た次の日は学校ではその話題で持ちきりになっていった。

余談ではあるが中学の後輩が小島よしおのネタを完コピしてよく誰も使っていない教室にたむろしてそのネタをみていた。
彼が「一生オッパッピーします!」と宣言したのを僕はまだ覚えている。
そして彼は医者になった。


この後僕がお笑いにハマっていったのは言わずもがなわかると思います。
大人になり、ふとM-1グランプリをみて思ったのは芸人のネタにはパターンがある。と気づいたところからこの考えができてきた訳である。



Fanny的な笑いとInteresting的な笑い

一言に「面白い」と言うものはザックリとこの2つの成分で出来てる。
勘違いして欲しくないのは「この二つに分かれる」のではなく「この二つの要素の濃度で決まる」と言う訳だ。

Fanny的な笑い

これはいわゆる「顔芸」や「一発ギャグ」などのお笑いを指す。
特徴としては一般大衆的に多くの人に笑ってもらいやすい。更に比較的言語や年齢等の壁も乗り越えて誰でも理解できやすいといえる。

しかし欠点もある。
飽きられやすいということ。
「一発屋」と呼ばれる人は1つのギャグに固執しやすい。(TV的にやってくれと頼まれているのかもしれないが)
1つのギャグをやり続け、伝統芸能まで昇華させる事ができるのであればやり続けるべきである。しかし、そのギャグは凡庸的であり日常に溶け込みるくらいの限られたものになってしまうだろう。
うまくいった例を挙げるとすると「ダチョウ倶楽部」くらいしかいないと思う。定番中の定番で「どうぞどうぞ」と譲り合うのは一般のノリでやる人も多いと思う。ある種日本人の作法と化してる部分もある。


Interesting的な笑い

こちらはこれだけ見ると???と思う方が多いと思うが、言い換えると古文での「いとをかし」と同じ意味だと思っていただいて差し支えないだろう。
趣がある面白さ、知的な笑いみたいなものである。
この笑いを上手く使ったのは「ブラックジョーク」である。

これは意外と身の回りにあったりするが気づかないものである。
例えば、名探偵コナンは大量に使われている。
江戸川乱歩とコナンドイル、ともに名推理小説家から苗字と名前をとると言うのは分かりやすく「名探偵コナンとはミステリーものだよ」と教えている訳である。
そして、最初の映画の犯人は「モリヤ テイジ」でコナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズに出てくるモリアーティ教授をもじったものであると分かるとより面白く感じるだろう。
更にはライヘンバッハの滝をもじった「来葉峠」など知れば知るほど面白い作品である。


なんとなくInteresting的な笑いがわかっていただけただろうか。
これには大きなデメリットがある。
圧倒的な知識の量と客層との知量の差である。

あまりにもこちらが詳しすぎると、周りはついてこれないだろう。
逆に、こちらがモノ知らなければ、浅い誰でも知ってるものについてしか話せず、しらけてしまうだろう。更に知ったかぶりをしようものなら目も当てられない結末が待っているだろう。それは容易に想像できる。

これを上手くやった漫才師がいた。「ダウンタウン」だ。当時の漫才と言ったら紳助竜介ややすしきよしの様なしゃべくりでボケとツッコミのペースが速い関西弁で捲し立てるのが主流だった。しかし、ダウンタウンは日常のフリートークのテンポで喋ってバンバン笑いを掻っ攫っていった訳である。
それ以降ダウンタウンに憧れた漫才師が主流になってきたのが今のお笑いの形だと思う。

ここまでがFanny的な笑いとInteresting的な笑いの違いである。




この二つの組み合わせにベストはあるのか?


今後は「F」と「I」で略させていただこう。

まずは漫才師の2人のキャラクターである。
濃度で言うとボケがFでツッコミはIというのが一般的ではないだろうか。

あまりにもF要素の強い2人だと滅茶苦茶なボケにボケを重ねる2人だけが楽しい世界に入っていってしまうだろう。
逆にコンビ2人ともI要素が強いとお客さんに理解してもらえずファンをつける入り口を狭くしてしまうだろう。

バランスがいいと思う漫才師をあげてみよう。
例えば「ノンスタイル」や「オードリー」、「キングコング」辺りがバランスがいいと思う。

共通してるのは「わかりやすいボケのキャラクター」である。
1組ずつ言うとノンスタは井上のナルシストブ男キャラを元に構成されてる。
オードリーの春日の強気ナルシストキャラもキャラが立ってる。
キンコンは早口で動きがやたら多い梶原ありきの漫才である。

しかし、これは彼らが優秀だからではない。
ネタを書いてるのは相方の方でそのコントロールで作られたキャラである事を忘れてはならない。

漫才で売れた後のバラエティーの立ち居振る舞いをみるとフリーに喋れるのはツッコミの方でボケの面々はキャラありきで話を振られてキャラっぽい事を言うと言う絵が浮かぶだろう。

つまりIの人間がプロデュースし作ったFを演じ切れる2人がいるコンビは面白い可能性が高い。

2021年のM-1で残念だったのがオズワルドだ。
伊藤の方が見た目もキャラもボケ向きなのだが頭がいいばっかりに相方が引き立たずに終わってしまう。

まだまだ書きたいことはあるが今回はここまでにしておく。まだ考えがまとまっていないものが多いので、、、。






p.s
途中でもし芸人が見てたらというイタい被害妄想をしてしまったので一つ断りを。
この記事は本当に自分の思った事をそのまま書きお前がやってみろとかいうのは無理な人間ですので本当に悪しからず。

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