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炎上についての一考察

ネット上では日常的に炎上騒ぎが起こる。
著名人に対する嫉妬が原因だとよく言われるが、本当にそうだろうか?

人は他人の噂話が大好きだ。当該人物が危険かどうか判定するための情報交換の側面があるのは間違いないところだが、しかし少なくとももう一つ重要な役割がある。その場にいない者を話の肴にすることで、伸ばせば手足が届く距離に相対してる者同士が敵対したり、緊張状態になるのを防ぐ働きがあるのだ。

例えば、バックヤードで高校生のバイト君とパートのおばちゃんがマンツー状態になったとしよう。家に忘れてきたために、スマホ画面をじっと見つめてブロックオーラで撃退するという手段は使えないと仮定する。
この危機を脱するためには何か話さなければならないが、共通の話題はいかにもなさそうだし、しかし天気の話も芸がない。またいきなり身の上話など更にありえない。というわけで、まあまあの確率で変な客の悪口に落ち着くわけだ。

これならそこそこ楽しく無難に時間を潰せる。その客に聞かれるようなことがない限り。
善し悪しは別にして、我々のコミュニケーションの多くは、こうした潜在的顕在的生贄の存在に支えられている。

以上を踏まえれば、炎上の別側面が見えてこないだろうか?
肴は何でも良い、つかの間君たちと楽しく時間を過ごしたい。
燃え上がる炎の最後方で駄弁ってる者らの根底にあるのはきっとそんなささやかな思いだ。
ではどうしてややこしいことになるのか?

問題の一つは、上記の例では客に聞かれないという条件があったのに対し、ネット上の呟きでは不問にされていること。肉体から発せられる音声が届く物理的空間時間範囲とネットの投稿が届きうる空間時間の範囲の相違が意識されていないのだ。

しかし最も大きな問題は、井戸端会議参加メンバー数がリアルと格段に異なること。
しかも間仕切りがないから広がる広がる。
一瞬にして一対大群という構図ができ上がる。
出発時には何の異変もなかった家が、10分ちょっとの用足しから帰ったときにバッタの大群に覆い尽くされていたら誰でも恐怖に慄くはずだが、しかし井戸端会議参加者にそんな想像力が働くはずもない。自分は大勢の参加者のたった一人であるという意識、また軽いノリのお喋りであるという意識、それらと非難対象に与えた甚大な被害のギャップを、上手くつなげて解釈できないのだ。
また、自分には多くの賛同者がいる=正義の側にいるという確信も反省を遠ざける。

ここまで振り返ってみて、改めて本当に難しい時代にいると感じる。
例えばネットリテラシー教育など無意味だろう。
思い付いたことを飲む込むのはかなりの忍耐力が必要で、それが易々とできるような者にはそもそも教育など不要。しかしわからない者は何度聞いてもわからないし、その中間はよくわかってないけど守らないと村八分にされるという恐怖から擬態するだけだからだ。
つまり、わかってるふりをしている奴が全然わからない奴にマウント取ったりイジメたりする、また別の差別が生まれるだけ。

拡散力を弱める方向、つまり容易に未知の他人と接触できないようなシステムにすれば、多少は緩和するだろうが、しかし最初招待制だったSNSが軒並みオールフリーになっていった現実を踏まえると、それも絵空事としか思えない。

この問題をもう何年も考えているが、いまだに答えが出ない。最近はインプレゾンビみたいな金目当ての奴も湧いているようだし、さて、困った。

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