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考えるということ

は比較し連想し、その連想が滑らかに繋がるように辻褄合を合わせることではないかと思っている。

例えば地動説。
他の夜空の星々の年単位の周期的な動きに対して、地球から観測できる惑星の変則的な動きの落差。一見不規則だが他の星々と同様に規則性があるはずだという連想。
数学という道具を使い、太陽の周りを楕円軌道で周回しているというモデルによってピッタリ辻褄が合うことを示したことで当時の常識を揺さぶり覆し、現代では不動の事実として疑う者はいない。

恐らく天動説を採っても複雑怪奇なモデルを使えば、天体の動きを説明可能だろう。
しかし、よりシンプルなモデルの方が直感的に理解しやすいし計算もしやすい。
理解しやすいほど人への訴求効果は高く、また計算が楽というのも実用の面で有利だ。かくして地動説はデファクトスタンダードとして定着し、現在の天文学はその土台の上で発展を続けている。

以上、まるで天動説は事実ではないと言ってるように聞こえたかもしれない。
しかし焦点はそこではなく、そもそも事実はない、説明可能かどうか、その説明に万人を納得させられる説得力があるかどうかしかないのではないか、と思っているということ。というか、人間の能力的にそれ以上のことができると思えないのだ。

もちろん知識経験、囚われやすい感情等により、どういう発想をしどの方向に論理展開しやすいかという個人差はある。だが冒頭に述べたように人の思考は、比較、連想、辻褄を合わせ、という一連の工程に集約されているように思えて仕方がないのだ。

と言っても実作業としては特に辻褄合わせの工程が量的にも精神的にも難儀な苦役で、そこに傾ける創意工夫と情熱こそに価値があると言われれば、そんな気がしないのでもない。実際、この程度の分量に結構な時間掛けてるわけで。

しかし、こんなペースでいつまで続けられるんだか。
まあボチボチ行きますか。

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