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リスクマネジメントと安心出来る生活のあいだ

ハヤくんは、私が入職した時に相談員の仕事を教えてくれた年下の先輩だ。
しかし、私が入職して2ヶ月足らずで、この世を去った。
ハヤくんの引き継ぎを受けて、他の職員の助けを借りながら、私はなんとか仕事をこなしている。
引き継ぎは中途半端ではなかったが、完全でもなかったから、私は色々調べたり人に教わったりしながら仕事を進めていた。
そんな時、ハヤくんが戻ってきた。他の職員に彼の姿は見えない。ハヤくんは事業所の中で、私の引き継ぎの続きをしたり、利用者に寄り添ったりして、以前よりゆったり過ごしている気がする。

デイサービスとデイケアがあるこの事業所では、朝、利用者が集まってから、各部署で送迎中に起こった出来事や見聞きしたことを共有するミーティングの時間がある。
相談員は別々にミーティングに参加して、後で簡単に報告し合う。私は新人と合流して、お互いの担当部署の申し送りを共有した。
そのあとで、私はハヤくんへ報告をする。
「デイケアですけど、Dさんのことは聴きました?」
「自宅のベッドから落っこちてたんですよね」
「そうなんです。入浴時のボディチェックは、声をかけてもらうことになってます」
「じゃあ、見に行きましょうかね」
ハヤくんは手首に巻いたメモバンドにペンで利用者の名前を書き込んで言った。

浴室は、エアコンとお湯の熱と湿気にあふれている。
入浴介助は毎日の一大イベントだから、利用者さんには気持ち良く入ってもらえるように、安全とスピード感が求められる。
「Dさん、ここは痛い?」
「押すと痛い」
看護師とDさんのやり取りを聴きながら、入浴準備中の利用者と、忙しなく動き回る介護士の邪魔にならないようDさんの体の様子を観察した。
「Dさん、腕の剥離、すっかり綺麗になりましたね」
「もう完治ですね」
先月ベッドからずり落ちた時の表皮剥離を見て、人間の回復力に感動した。
「それと、両足の甲を見ていただきたいんですけど」
看護師が私の注意をDさんの足元に向ける。
「こちらの足は熱を持ってるのに、こちらは冷たくて、循環が悪そうですね」
「そう、熱感と冷感ですね、左右で温度差がありますので、これもケアマネさんに報告していただきたい」
「承知しました」
看護師からボディチェックの結果気になった部分を報告してもらい、実際触れて確かめる。
「Dさん、頭と足の写真を撮ってもいいですか?」
「いいよ」
浴室から出た私は撮影した画像を、ケアマネにメールで送信した。
「最近Dさん、転倒が多いですね」
「体調が良くないんですかね」
Dさんのケース記録を見返して、自宅で転倒があった日付を見ていると、昨年は転倒が続いた後に尿路感染症で入院している。
「Dさんは昔から尿路感染を繰り返してるんですよ」
「尿路感染ですか、水分摂らないとですね」
「あと、尿失禁があって、毎朝ヘルパーが着替えさせてます」
「なるほど」
Dさんは独居で、近所に家族が住んでいるが、食事の準備は家族がやり、毎日の世話はホームヘルパーが行なっている。
ハヤくんは長年この事業所に勤めているから、大体のことは頭に入っている。だから、私が分からないことはささっと小声で教えてくれるので、とてもありがたい。
ハヤくんがくれた助言をもとに、質問を繰り返してみんなの意見をまとめるのは相談員である私の仕事だ。
「水分は自宅で摂れそうですか?」
「独居で促しや見守りが出来る人がいないので、摂っていても不十分でしょう」
ケアマネに報告と提案をするための文章をまとめて、これはハヤくんと看護師に確認してもらい、送信した。
「家族の協力が得られたら、もっとすんなり行くんですけどね」
業務は別の利用者の報告に移ったが、ハヤくんはDさんのことが気に掛かっているようだ。珍しく気持ちの切り替えができていない。
「デイケアでできることは限られていますから、往診に任せましょう。頭を打ってますし、主治医の判断如何では大きい病院への受診が必要です」
「さかきさん、わりとあっさりなんですね」
ハヤくんから言われて、書き物をしていた私は顔を上げた。私よりもハヤくんの方が不思議そうな顔をしている。
「さかきさんは、もっと強く関わろうとすると思っていました」
「えー」
今までがそんなに熱血に見えたかな、と私も不思議だった。しかしハヤくんは単純に、私の考えが意外だったようだ。
「水分摂取が不十分だからと言って、私たちが利用日以外も家に行って水分の促しをするのは契約外ですし、本来ならホームヘルパーがやるべき仕事ですから、下手をするとヘルパーさんの仕事を奪うことになりますよね」
「あ、いえ、契約外の仕事をするようにというわけではないんです。事業所ごとの住み分けを考慮されていたので、なるほどなと思ったんです」
言われて、私はあー、と声を上げた。
仕事ではなるべく持ち場とか、業務の担当とかを守るように心がけている。もちろん、職員が介助で持ち場を離れているときは、なるべくフロアに出るようにしているけれど。
「デイケアの私たちに出来るのは、デイケアに来ている時間のケアだけじゃないです。帰る前に、家でちゃんと手洗いうがいしてくださいね、って促しだってするし、ケアマネに報告とか提案もできますし、家の中の事には全く関われないというわけでもないんです」
「なるほど」
「ハヤさん、それよりも…」
Dさんに視線を移すと、ハヤくんも私につられてDさんに注意を向けた。
「今はそれどころじゃなくなりそうです」
Dさんが椅子の背もたれに寄りかかったまま、ぐったりと天井を仰ぎ見た。近くにいた介護士が、Dさんに駆け寄った。
「Dさん?わかる?」
いつになく大きな声で、名前を呼び、肩を叩く。
「意識飛びましたね」
「えっ」
私が立ち上がると、ハヤくんも立ち上がった。
Dさんの顔を見ていると、みるみる血の気が失われていく。
事務所にいる私と介護士の視線が合い、頷きあった。
「看護師を呼びます」
緊迫した雰囲気になってもなお、デスクワークに勤しむ新人に声をかけ、介護士と合流して介助を手伝うよう指示を出してから受話器を手に取った。

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