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10歳の私が教えてくれた、体は全て知っているということ。

その痛みに気付いたのは、今はもう記憶の中にしか残っていない、曾祖母の家でのお正月の昼下がりだった。私は認知症を患った曾祖母とふたりで、いつも家族が集っていた部屋のこたつに入っていた。なんでそういう状況になったのかはわからない。伯父も伯母も従妹たちも、両親も弟も不在だった。きっと初詣にでも行ったのだろう。部屋には私と曾祖母だけが残されていた。

当時10歳の私は、最早私が誰なのかもわかっていなかった曾祖母とどんな会話を繰り広げていたのか。噛み合わない会話の中で、「辛いな」と思ったことだけは覚えている。昔はいつも「〇〇ちゃん」と笑顔で出迎えてくれた姿が鮮明に脳裏に焼き付いているだけに、曾祖母が何もわからなくなってしまったことに対する悲しみは大きかった。ただひたすらに願っていた。「辛いな。早くこの時間が終わらないかな」と。

曾祖母といることに疲れ、私はこたつに入りながらごろんと横になった。その時、脛に痺れるような痛みがあることに気付いた。当時、私は身長が伸び盛りで、幼児体型で丸かった体は、男子のようにどんどん細く長くなっていた。そして、成長痛という身長が伸びるときに伴う痛みの存在も知っていた。なので、その時もいつもの成長痛だと思った。きっと、家に帰る頃には治まっているに違いない。

しかし、その痛みは帰宅しても一向に治まる気配がなかった。それどころか、どんどん酷くなっていった。何日かすると痛みは全身に広がり、体を動かせなくなった。激痛のあまり一人で着替えることも出来ないし、歩くことすらままならない。階段を上るときは毎回泣いた。家に車がなかったので、小学校は友達のお母さんが車で送迎してくれた。毎日痛くて痛くて、10歳にして人生に絶望していた。ちょうどその頃、阪神大震災や地下鉄サリン事件など、世間を賑わす大事件が起こっていた。人生で経験したことのない痛みを抱えながら、私はそれらのニュースを見ていた。「この先、私も日本もいったいどうなってしまうのだろう」と思った。

近所のかかりつけの病院に優秀な小児科医の先生がいたので、痛みを治すべく、私は母と一緒にその先生の所に定期的に通うようになった。先生が下した診断は、「精神的なストレスからくるリウマチ」だった。精神的なストレスからくるものということは、ストレスの原因を紐解く必要がある。私は先生と、毎回色々なお話をした。先生は、私の話をいつも優しく、真剣に受け止めてくれた。絶望的な痛みと向き合う日々の中、静謐な診察室で穏やかかつ真摯に話を聞いてくれる先生と過ごすその時間は、心の平穏を得られる大切な時間だった。

当時、私は小学校が大好きだった。友達にも恵まれて勉強も楽しく、特に学校でストレスとなるようなことは思い当たらなかった。一方で、私は中学受験の勉強を始めていた。田舎の小学校で中学受験をする子はそれほど多くなかったが、両親の意向を受けて中学受験をすることに私は全く疑問を感じていなかった。中学受験の勉強はとても難しくて楽しいとは思えなかったし、週末に通っていた塾の先生の話はまるで念仏を聞いているようだったけど、お父さんと塾の帰りに一緒に食べる立ち食いそばが楽しみで通っていた。毎日放課後に友達と遊ぶ時間が削られてしまうこと、それはとても悲しかったけど、「仕方ないんだ」と思っていた。「私は勉強を頑張って、お父さんが希望する中学に入らないといけないんだもの。だってお父さんに喜んで欲しいから。」

しかし、主治医の先生は痛みの原因であるストレスはその中学受験にあるという。中学受験の勉強はやめた方がいい、先生からそう言われたらやめるしかなかった。現にこの痛みから解放されない限り、日常生活を送ることもままならないのだ。先生の言う通りに中学受験の勉強をすっかりやめたら、なんと痛みはぴたりと治まった。そして私はいつしか先生の所に通わなくなった。

その後、痛みで苦しんだこともすっかり忘れ、私は「中学受験をしてほしい」という両親の意向が未だに存在すると信じ込み、それを自分の願望かのようにすり替えた。そして両親にやはり受験勉強をしたいということを伝え、勉強を再開した。心なしか両親は嬉しそうに思えた。あの痛みが蘇ることがなかったのは幸いだったが、勉強が全く楽しくないのは相変わらずだった。ろくに勉強せずに小説や漫画ばかり読んでいた私は、第一志望の中学に当たり前のように落ちた。そして、第二志望の中学に入学するのだが、その学校の雰囲気が致命的に合わず、結局高校で退学した。

今でも思う。あの時、自分の体が教えてくれた「本当は中学受験なんかしたくない」という本心を尊重していたらどうなっていたんだろうと。あんなにも私の体は悲鳴を上げて、メッセージをくれていたのに。結果として私はその体の声を裏切って受験をし、自分に合わない学校に入ってしまった。そんなことを考えても仕方ないのだけど。人は選ばなかった道に、猛烈に恋焦がれることがある。

そして、その時私は体を裏切ってしまったけれど、体は私を裏切ることはなかった。あの痛みが2度目に蘇ってきたのは、17歳の時だった。高校を退学した私は、失われた社会性を少しでも取り戻そうと、某ファーストフードチェーン店でアルバイトを始めた。でも当時の心身ともに燃え尽きていた私に、それはあまりに負荷が大きすぎる行動だった。同僚と全く馴染むことが出来なかったし、消耗しきっていて仕事もろくに覚えられなかった。ファーストフードチェーンの方針により本来0円で提供されなければならないはずの笑顔も、とてもではないが提供出来ない。そんな中、再びむくりと姿を現したのがあの痛みだった。次第に腕が上がらなくなり、私はアルバイトを辞めた。

その後も、痛みはひょっこりと現れては、「今は無理しすぎているよ」ということを定期的に教えてくれる。大学に入ってからも社会人になってからも母親になってからも、痛みは唐突に現れ、私が体の声を聴いて行動を変えると忽然と消えていく。
自分の体は自分の気持ち以上に本心を知っていて、つい自分の容量を超えて頑張りすぎてしまいがちな私に、定期的にメッセージをくれる。ありがたいな、と思う。本当にありがたいなと。今では頼もしいパートナーのようだ。面白いのが、同じ頑張りでも「心の底からこれをやりたい」と思うことを頑張っている時にはこの痛みは決して現れない。そういう時には思う存分頑張れる。

余談だが、私が10歳の時に痛みと真剣に向き合ってくれた主治医の先生は、その病院の院長となられた後も第一線で診療を続けられており、奇遇にも出産した長男の主治医となった。しかし、残念なことに昨年定年を迎えられてその病院を辞めてしまった。同時期にその病院は建て替えられて、当時の面影は跡形もなくなった。あの古びた静謐な診察室も今はもうない。私は先生に伝えておけばよかったなと思った。先生のおかげで、あの痛みとの付き合い方を知ることができました、と。

#もぐら会