合わせ鏡


 滞りなく公演は終わった。ぽつぽつとまばらに散らばる客たちからわずかではあるが拍手が送られる。私もそれにつられて、少しだけ手を鳴らす。カーテンコールまで見届け、席を立つ。
「どのように感ぜられましたか、この劇は」
いつの間にか横にいた年老いた男に話しかけられる。劇を見ている間、近くに誰かいただろうか。
「ええ、それなりには面白かったですよ。しかし最後のシーンはもう少し明るく終わらせてやってもいいのではないかと思いました。所詮は素人の意見なので、本当は高尚な意味合いが備わっていたのかもしれませんが」
思うままに答える。老人は軽くうなずいた。
「いやいや、まったくもってその意見は正しいと思います。そのように解釈されるのでしたら、もはや素人ではございません。普段から演劇は見られるのですか」
「まぁ、それなりには嗜んでいます。実は、各地の様々な劇場を渡りありいています」
「ほう。ありく、と申しましたね。もしかして、東北の方から来られているのですか」
老人は驚いた口調で問いかけてくる。今の時世、東北から上京することなど造作もないことだろう。汽車に乗っていればいつの間にか着いているものだ。
「ええ、生まれは津軽の方で。しかしそこまで驚きますか。東京までの汽車ができたのはもう十数年にもなります」
「いや、そうではないのです。実は私も、生まれは津軽なのです。もっとも、私は逃げるように故郷を捨ててしまったのですが……」
老人は上を向きながら答えた。その目には、何が映っているのだろうか。またこちらを向いて続ける。
「故郷を飛び出して、50年は経ちましたでしょうか。こんな老いぼれになっても、故郷への愛というものは捨てられないものです。ですがもう、どのような景色であるか、忘れてしまいました……あんなに愛していたのに、もう思い出せないのです。今帰ったとて、50年もあれば全く別の景色が広がっているに違いありません」
「それでも帰らないのですか」
「帰らない、というより帰れないのです。先ほど逃げるように去ったといった通り、穏やかな別れではなかった。そのことがつっ抱えて、私を故郷に返してくれないのです」
「そうですか」生返事を一つ返した。
「しかし、それでも故郷の愛を抱き続けているのは素晴らしい事だと思いますよ。なかなか出来ることではありません」
「そうでしょうか。ではあなたは生まれ故郷の事は思い出さないのですか」
「ええ。故郷自体の事はあまり。しかし私のことを女手一つで育てあげた母親のことは時々思い出します。もう死んでしまいましたが、私の人生には確かに彼女の価値観というものが入り込んでいます」
「なるほど。さぞかし素晴らしい母親だったのでしょうね」
「いえ。そうではありません」
被せるように遮った。それだけは否定しておかなければならない。
「母は、蒸発した父親に死ぬ間際まで陶酔していました。私はいわば、父親の代わりになるように教育させられたのです。確かに母は私に愛情を注いでいました。しかしその愛情の本当の行先は、私ではなく父親そのものに思えたのです。そういう意味では私は愛情を受けずに育ちました。演劇を嗜むのも、文学に耽ってしまったのも、全ては母親が私を父親に仕立て上げようとしたからです。決して良い母親ではありませんでした」
「そうだったのですか。辛い記憶を思い出させてしまって申し訳ない」
「いえ全然。ただ、ひとつ気になることがあります」
「ほう。何でしょうか」
「あなたの名前を教えてくれませんか」
「私の名前は———」
瞬間、私の指は老人の首元へと向かっていた。年老いた人間の抵抗などびくともせず、そのまま息をしなくなった。
「さようなら、私」

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