白銀~から見る『丕緒の鳥』

まず、小野不由美作品には無駄がない。つまり「なくても良い話」はない。
では十二国記が「陽子の物語」と「泰麒の物語」の二つの軸で成り立つとしたら、ほぼ民と官吏の物語である短編集『丕緒の鳥』もまた、この二つの軸に回収されうるのではないか?
と思ったので、考えたことをまとめます。
自分のまとめのためざーっと書いてるので事実誤認とかあったら指摘してください。

『丕緒の鳥』は
「丕緒の鳥」
「落照の獄」
「青条の蘭」
「風信」
の四つの短編から成っている。

このうち、慶の物語が「丕緒の鳥」「風信」。

「丕緒の鳥」「風信」――陽子の物語のサイドストーリー

いずれも陽子の登極後、登極前の話だが、下級官吏と民にとって「希望がどのように表れてくるか」の話であるように思う。
新しい王が立つ。それだけで単純に希望を見出せるわけではない。
丕緒は官吏ゆえに、蓮花はあまりにも奪われてきたがゆえに、希望を簡単には見出せなくなっている。

「丕緒の鳥」
丕緒の惨く割れるようにした陶鵲は予王には通じたけれど届かなかった。静かで美しい陶鵲は陽子に届いた。
陽子のための大射で射られた陶鵲から生まれた小さな鳥は民かな。神仙からすれば一瞬の儚い命。
陶鵲は音を立てて割れるが、小さな鳥が切片になって砕けて落ちるときはあるかなきかのかの雪の音。
「あるかなきかの音」を聞くためには耳を澄ませなければならない。
丕緒を含めて下界の声は、これまでずっと天上に届かなかった。
耳を澄ませて、声を聞いて。その静かな願いが新王に届いた、と丕緒には思えた。
陽子の「御簾など上げて、私とあなただけで」という言葉は胎果の陽子だから身分や官位に疎いということでもあるけれど、なきもののように扱われてきた下官からすれば「声を聞いてくれる」という希望でもある。

「風信」
予王によって家族を奪われた少女・蓮花が感情を取り戻す話。
ストレートな話だと思う。
王が立つ、とは天の気が調うということ。「王」とは戦乱の形ではなく、燕の雛が増えることであったり自然が豊かにあふれかえることとして現れる。

ところで慶の王宮があるのは堯天で、やはり陽子は「暁光」の象徴なんだなと思った。夜の終わり、希望の光。

「落照の獄」「青条の蘭」――白銀の暗示

「落照の獄」は柳の終わりの始まり、「青条の蘭」は延で尚隆が登極したばかりのころ。どちらも戴の話ではないが、白銀に繋がる流れがある。

「落照の獄」
この話は一言でいうと刑事裁判の話だが、戴の冬狩と対応するように作られている。
劉王治世の終わりの始まり⇔驍宗登極のすぐあと
教化主義⇔厳罰主義
夏⇔冬
また狩獺も阿選(阿選の汚れた手=烏衡)に対応するように作られているのだと思う。

この話において「裁くのは司法、その下に置かれた司刑、典刑、司刺が合議を持って論断」するのだけど、その論断の場において「論断に呼び寄せた証人や犯人が坐るための席」を「榻」にしている。
白銀で、泰麒が六寝に忍び込んだときに阿選が座っているのも「榻」であれば、阿選が抜け道を通り黄袍館にやってきたときに座るのも「榻」。つまりこの話と合わせると阿選は「罪人」であって、彼に裁きを与える者として泰麒がいることになる。
実際、阿選の意識において角を失った泰麒は「自らに罪を突きつける者」であっただろう。六年の泰麒の不在の間、阿選が六寝に閉じこもって他者を遠ざけている間は見ないで済んでいた彼の罪を。

瑛庚が引っ掛かっているのが大司寇の淵雅の言った「豺虎という言葉は、理解し難い罪人を人以外のものに貶め、切り捨てる言葉」というところだけど、この台詞と白銀で阿選が幾度も「豺虎」と呼ばれることは繫がってくると思う。
また瑛庚は自分の娘の李理に、狩獺に殺された駿良を見る。

このように幼く、か弱い存在を情け容赦なく殺害する、そんなことが赦されていいはずがない。(144頁)

これは幼い泰麒を害した阿選にもかかってくる。
囹圄で尋問のために呼ばれた狩獺の様子が

「どうせ俺は屑だ」という甲羅の中に逃げ込んで、永遠にそこに留まり続ける。いかなる言葉もこの男を諭すことはできないし、そればかりか、傷つけることすらできない。(166頁)

この甲羅を六寝に置き換えるとやはり阿選と捉えることができる。
瑛庚は「殺刑にせよという反射も、殺刑を恐れる反射も重みは変わらない、と結論づけた。唯一残るのは狩獺自身に教化の可能性があるかどうか」と言う。
これが劉王が「大辟を用いず」と教化主義を敷いた末にあるもの。この二つの反射の相克が花影による恐れや怯えとしてしか捉えられなかったのが冬狩なのでは…

 瑛庚らは狩獺の存在を拒んだ。狩獺は取り除かれ、世界は一旦、相容れぬ存在なとないものとして整う。—―だが、これはおそらく始まりに過ぎない。国は傾いている。(中略)その綻びを自身の眼から覆い隠すため、人々はこれから幾多のものを自ら断ち切っていく。
 そうやって崩れていく。……国も人も。(171頁)

つまり、落照の獄において「教化は不可能」な「豺虎」として狩獺を切り捨てたとき、国は崩壊の一歩を踏み出す、とされているのだ。
ここから導き出されるのは「驍宗は冬狩のときに失道への一歩を踏み出していた」ということでは…?

(2020.05.31)追記

この話は実際に刑を判ずる高官である瑛庚と、その妻・清花に、官吏と民の刑罰に対する意識の違いが表現されている。

 殺刑は人を殺す行為だ。誰かが狩獺の生命を絶つ。その誰かは国家によってそれを任じられる。そして、国家にそれを勧めるのは瑛庚ら司法官であり、瑛庚らを司法官に任じた国官だ。──つまりは、彼ら自身が殺人者になる。
(中略)
 瑛庚の中には人殺しを忌む本能的な怯懦がある。そして、この怯懦は民の中にも宿っているはずだ。だが、民にとって国は天の一部だ。天が選んだ王と、王が選んだ官僚たち。あらかじめ民とは隔絶され、自らの意思とは切り離されている。だからこそ、殺刑を求めることに躊躇がない。狩獺を殺すのは自身の手ではない。天の手なのだ。(156頁)

私がずっとこの話で引っかかっていたのが「悔い改め」という言葉の使い方。
それまで、瑛庚を含め「罪人を裁く者(国≒天の代理者)」の立場からは狩獺に対して「教化」し「更生」させる、「掬い上げる」、また罪人の立場からは「悔いる」「反省」「改心」という言葉が用いられている。ところが、瑛庚らが狩獺に駿良を殺した理由を問うために軍営の囹圄に赴いたところで、「悔い改め」という言葉が出てくるのだ。

 狩獺はうんざりしたように瑛庚を見る。
「聞いてどうするんだ? どうせあんたらは俺が悔い改めるとは思っちゃいないだろう。殺すだけの人間につべこべ訊いてどうなるんだ」(164頁)
 狩獺と瑛庚らの間には、目の前にある鉄格子のように堅牢な隔壁があった。瑛庚らはこれを乗り越えることが難しく、狩獺にも乗り越えるつもりがない。格子の向こうにいる狩獺を瑛庚らが忌むように、狩獺もまた格子の向こうにいる瑛庚らを蔑み、憎んでいる。
 ──悔い改めることのない者もいる。(166頁)
「俺は悔い改めない」
 はっと上げた瑛庚の眼に、狩獺の歪んだ顔が飛び込んできた。囚人の面には揶揄するような、どす黒い笑みが浮かんでいた。(170頁)

特に狩獺の言う「悔い改め」という言葉は印象に残る。では、この「悔い改め」という言葉にどういう意味があるのか?
なぜ「反省」や「悔いる」「改心」ではなく、「悔い改め」なのか?
私は「反省」「悔いる」「改心」と比べ、「悔い改め」という言葉は宗教色を帯びているように思える。

「悔い改め」という言葉が印象的に出てくるのはキリスト教。イエスの伝道活動の第一声だ。
「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めよ」
この言葉は
(1)神の国=神の支配が目前に迫っている
(2)神の国に入るための条件としてひたすら「悔い改め」ることを説く。「悔い改め」とは生き方の転換。

意地の悪い読み方をすれば、「悔い改め」ないものは「掬い上げる」ことができない、と読める。「悔い改め」ない者は神の国から弾かれる。つまり追放者となる。

この記事で何度か『白銀~』と『屍鬼』の関連について語ったが、この「落照の獄」も「追放者(天の作った秩序から弾かれる者)」として狩獺を解釈することができるのではないか?

天の作った秩序の側にいて秩序を維持する者たちと、その秩序から弾かれる者たち。

当然のように、司法官である瑛庚は秩序の側にいる。天が選んだ王と、王が選んだ官僚たちは、天の作った秩序の中で、天の代理を果たしている。
一方、狩獺や、瑛庚の前の妻であり「自分を愚者扱いした瑛庚への復讐」として悔いることなく犯罪を繰り返す恵施らは、ただ秩序から追放されるのではなく、自ら秩序を拒絶し(「俺は悔い改めない」)、秩序を憎んでいる(異常なまでの復讐心と、夫に対する敵愾心(142頁))。
この天の作った秩序に対する憎悪は、白銀における阿選の心情とも似通っている。

 ──阿選は天に対する復讐を誓った。偽王は玉座を盗んで国を生かそうとするから破綻する。天の加護がないからだ。だが、国を殺そうとすれば破綻はない。全ての摂理は阿選に味方するだろう。(白銀4巻230~231頁)

「落照の獄」の結末、狩獺が「悔い改め」ることはないと悟った瑛庚らは、狩獺の目の前で判決を下す。

「──殺刑もやむなし、と判ずる」
 言ったとたん、狩獺が腹を抱えて笑い出した。まるで勝者の笑いだった。同時に虚しいほどの敗北感が沁み入ってきた。絶対に相容れない存在、これを全否定して抹殺してしまえば、受け入れ難い現実を拒むことができる。狩獺を切り離すことで、世界を調整しようとしている。(170頁)

事実、狩獺は勝者だったのだろう。自らに「悔い改め」を迫る秩序を拒み通し、善なるもの、正しいもの、「天の代理者」としてある瑛庚らを退けた。
この勝利が狩獺にとってどういう意味があるのか、狩獺が何を得たのかは分からないが、秩序の届かぬもの、まつろわぬ者、天の条理の外を「天の代理者」に理解させ、自らの存在を認めさせた、ということなのかもしれない。


「青条の蘭」

山毛欅の奇病が広がり、山が崩壊して民の生活も破壊されることに気付いた下級官吏がやっと栽培に成功した薬の苗木を王宮に届けようとする話。
地味な話である。
青条がどのように生み出され、どのように王宮に辿りついたのか、の話だと思う。
標仲の、包荒の、興慶の思い、標仲の手から笈筺を預かった男、名もなき人の手から名もなき人の手へと渡る「思い」の繋がり。
函養山で驍宗を生かしたのは、名もなき民からの供物だった。
青条の蘭では、名もなき母が息子たちの会話を聞いている。

「きっと王様が助けてくださるよ」
 息子が弟に言うのを聞いて、彼女は手綱を繰り出した。
 真実は分からない。けれども、とにかく急いでみよう。筺の中に希望が入っているのだと信じて。

筺の中の希望、を驍宗と取ることはできるだろうか。
旌券を持たない興慶と官吏である標仲や包荒との協力関係に、朽桟と李斎を見ることも可能かなとも思う。


あとエモいなと思っているのが興慶の「ありもしない故郷に対する望郷の念」に対するアンサーが海神の尚隆の「そのために俺はあるのだ」なんだなと…

何かあったらマシュマロへどうぞ~

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