『白銀の墟 玄の月』の宗教的モチーフについて

『白銀の墟 玄の月』とはどういう物語か?

泰麒の、李斎の、驍宗の、彼らの麾下の行きて帰りし物語。

阿選の墜落物語。
阿選は偽王ではあるが、項梁が見た驕王治世末期の王と前泰麒の対立、麒麟と王の対立可能性を考えて造られた王宮の構造などの言及からして、阿選と泰麒の冷ややかなやり取りは「王朝末期」を疑似的に見せているのだろう。

また地下に幽閉されることを「死」と捉えるのであれば、驍宗の「死と再生」の物語であると言える。

「死と再生」は様々な土地、宗教に存在する信仰だ。

以下は『白銀~』の中に登場するいくつかの宗教的なモチーフをとりあげて、それらの意味を考えていきたい。
あくまで登場する「モチーフ」とそこにまつわる「イメージ」の話であって、信仰の話ではない、つまり神や天の話ではないことに留意されたい。

<鳥>

シルクロードに沿ってユーラシア全土に渡る伝承に「鳥は生者と死者の国を行き来する」「魂魄を乗せる」というものがある。

函養山に供物を流していた少女の独白で「死んだ魂はどこへいくのだろう」というのがあったはずなので、やはり「あちら」と「こちら」の行き来の物語であり、その媒介をするのが鳥なんだろうなと。

以下にはそれぞれ「烏」「鳩」のイメージの話をしてるんだけど、霊魂を運ぶ「天の船」のイメージでもあった鳥が死肉食べたり魂魄食べたりしてるのなんかエグイなって思う。
あと「烏」「鳩」といえば、旧約聖書で「ノアの箱舟」の洪水が去ったあとにノアが最初に地に放ったのが烏と言われていて、烏は戻らなかった。次に放ったのは鳩で、鳩がオリーブの枝をくわえて帰ってきたため、ノアは洪水が去ったと知る…というエピソードがあるんだけど、解釈できないので書いておくだけにする。

1、烏

『白銀~』ではいうまでもなく戦城南の歌の中で死肉を食らう鳥として出てくる。
戦城南について考察してる方がいたのでリンクをつないでおく。
https://hungry-bear.net/12k_senjounan/

東アジアにおける「烏」のイメージとして三足烏がある。太陽に住む、ないし太陽を背に乗せて空を走る。

日本神話においては神武天皇を導いた八咫烏が有名なところだけど、元は中国からきたイコンであり、西王母のメッセンジャー。

白銀において烏衡は宮中でも朴刀を下げたままでいることを許されていたとあるけど、おそらくこれで「三本足の烏」なのだと思う。
王を太陽になぞらえるのはそれほど珍しくないから、函養山に驍宗(太陽)を導いた「三本足の烏」という。

また、『白銀~』において羅睺にせよ黒麒にせよ驍宗が「乗る」のは全て「黒」というのもこの烏衡=三足烏説を補強するかと思う。

というよりも全て日中の烏の暗喩なのかもしれない。

またこれに関連して、中国では四神「青龍・朱雀・白虎・玄武」のうち、「白虎」は四霊(応龍・鳳凰・麒麟・霊亀)の特に「麒麟」に置き換えられる向きもあることも書いておく。
驍宗が黄海で捕えて慣らした計都は白が勝った騶虞だから、これを「白虎」として、驍宗が函養山で黒い騶虞である羅睺を見た時に「黒麒」を連想しているのはこの置き換えに通じるところがある。

2、鳩

こちらみかろさんの記事を読んで考えたのだけど、何故次蟾は「鳩」なのか? あるいはなぜ「鳩」の鳴き声でなければならないのか?

この間、友人と話した会話で、キリスト教における「神ー聖霊ーイエス」の三角形と「天ー麒麟ー王」の三角形の相違点の話があった。

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三角形の構図こそ似ているが、キリスト教においてはイエスが神に民の赦しを請い、神は民を赦す。一方、常世における天は民に干渉しない、あくまで王を通じてのものになる…という異なる点を矢印として表してる。

キリスト教絵画において、聖霊は「鳩」で表される。これは『ヨハネによる福音書』の「私は霊が鳩のように天から降って、この方イエスの上にとどまるのを見た」という記述が元だが、要は聖霊は目に見えない。イエスが洗礼を受けたときに、イエスの上に下ったのが「鳩」、これが目に見える形として現れた聖霊とされる。

阿選は天に選ばれた王ではない。だから麒麟はいない。
だが「天ー麒麟ー王」の関係が「神ー聖霊ーイエス」の関係になぞらえたものなら、ここで「鳩」が出てくるのも理解できるか?
おそらく阿選が謀反当初の計画通り、角を封じた泰麒を手元に置けていればあれほど次蟾を乱用することはなかった。
麒麟の威光があれば阿選に反する存在はそれほど多くはなかったはずで、阿選は「仮王」として君臨できていたはず。なので「麒麟」の代わりに「鳩」が入ったとすると、三角形はこうなるのかもしれない。
かなり歪な三角形だが、偽王という存在が歪なものなので仕方がないのかもしれない。

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一番上は「麾下の信望」でもいいし、阿選と驍宗とを比べる声全般でもいいのかな。
(これはあまりこの記事には関係ないのだけど、多数の声に流されるという意味で阿選はポピュリズムの風刺っぽいなと思っているし、実際4巻でデマゴーグ(扇動政治家)的な動きをしたとき、やはりそうなるよね…と思った。実体のないものに振り回された阿選だからこそ、流言飛語を操り群衆を動かすことができるのだろう)

ただ白銀における「天ー麒麟ー王」の関係、旧約聖書においてサムエルがダビデをイスラエル王にしたのに少し似ているような気も?
預言者サムエルは神の声を聞きサウルに油を注いでイスラエル王にするが、サウルはやがて神をないがしろにするようになり神に見捨てられる。サムエルが再び神の声を問うと「ベツレヘムのエッサイを訪ねよ」と言われる。果たしてのその末の子ダビデに会ったときこれだという神の声を聞く。


<阿選にまつわる「あの世」の表象>

まず阿選とはどういう存在か?

函養山で驕王が玉座を飾るために育てさせた篁蔭の、砕けた片割れであっただろうし、同時に変形「カインとアベル」のカインなのだと思う。

玉は玉泉の水の中で育てられ、何かのはずみで水が濁ると玉も濁る。濁った部分を磨いて削り落として泉に戻しても、もう元のように透明にはならない。2巻256-257ページで語られる玉のくだりは示唆的だ。もちろん砕けなかった篁蔭の片割れ、アベルは驍宗だ。

小野不由美はこれまでにも作中に双子モチーフを頻出させている。GHシリーズのユージーンとナルはもちろん、『東亰異聞』における直と常も「占星術的双子」と作中で明言されている。
両作に通底するのは双子の類似性である。

「カインとアベル」は『屍鬼』の静信の作中作のモチーフであることはいうまでもない。

カインとアベルをざっくり復習すると、旧約聖書の創世記より、アダムとエバの息子たちの物語である。兄カインは土を耕す者、弟アベルは羊を飼う者、神はカインの供物を受け取らず、アベルの供物のみを受け取った。カインは供物を神に顧みられなかったことに憤りアベルを殺した。
アベルの血は地に撒かれ、素知らぬ顔で戻ってきたカインに神は言う「弟の血が土の中からわたしを呼ぶ。土地はもう耕してもあなたのために実を結ぶことはない。あなたは呪われて、地上を彷徨う者となるだろう」

アダムとエバの罪は蛇にそそのかされて禁断の実を食べた「過ち」だが、カインの罪は血を分けた弟を憎んで殺すという積極的な「神への反逆」であり、それゆえ彼は地上の放浪者となった。

白銀4巻230ページの「阿選は天に対する復讐を誓った。」のくだりは明白に天への反逆の意志だし、阿選によって函養山の底に沈められた驍宗をもって「土の中の弟の血」として見ることもできる。
また、琅燦と阿選の嫉妬問答は『屍鬼』の中でも類似の箇所がある。

 それは嘘だ、と彼を取り巻く悪霊は揶揄した。
 汝は弟の、その本性において造反者たらんとした資質を看破し、その在り方を憎み、にもかかわらず秩序に肯定される弟を妬んだ。(屍鬼文庫版5巻349ページ)

このくだりも阿選に照らし合わせて考えることができる。

…もはや選別という無慈悲が彼と弟の間に亀裂を入れることはない。ようやく彼は、自己と弟をふたつながら手にしていた。(同351ページ)

「選別という無慈悲」を与える存在だからこそ、泰麒は阿選に憎まれたのだろう。そしてその選別が天を背景にした絶対的なものだから、驍宗はどこまでも阿選の手の届かないものであり続ける。

おそらく『東亰異聞』もカイン=直、アベル=常、神=初子なのだろう。

章タイトルと矛盾するようだけど、私は阿選生存説はあると思っていて、というのもカインは追放されているから…。
カインの追放時、神はカインにしるしをつける。この傷跡はカインが生きる限り苦しみから逃れられないしるしであると同時に、彷徨うカインが復讐者によって殺されることがないための庇護のしるしでもある。

1、4巻表紙の燭台の「蓮」

4巻表紙の阿選の右後ろの燭台のモチーフは蓮の葉ではないだろうか。
東洋美術において蓮のある絵とは大抵仏画である。仏画以外では、まず滅多に正常な、生きている人間の背景には用いられない。用いられるとしたらその人物に幽玄のイメージを持たせたかったり、「仏画の花である」という文脈が共有された上で作品に登場させている場合だろう。それだけ蓮は仏教と、ひいては「この世ならぬもの」と関わりが深い。

仏教では「蓮は泥より出でて泥に染まらず」と言われるように、池の底の汚れた泥の中(不浄)から茎をのばし、美しい花を咲かせる蓮の花(清浄)の在り方が悟りの道へ向かうひとつの理想とされた。だがたぶん阿選にふさわしいのはこれではない。

蓮にはもうひとつ意味があって、法華経における「因果俱時」の例えに使われる。「因果俱時」は原因と結果が常に一致するものであり、原因が生じたと同時に結果がそこに生じるという考え方。(蓮のめしべが実と間違えられて、蓮は花が咲くと同時に実をつけると勘違いされたことから出た例え)

原因と結果が同時にある、つまり行動を起こした時からその結果は見えているというように解釈すると、阿選の天への復讐は、復讐を意図したときから失敗が見えていた…というふうに読むこともできる。

また、唐詩でも「蓮花」というと圧倒的に仏教にまつわる詩句が多い。
同じく蓮を表す「芙蓉」はやや道教的な文脈で用いられることが多く、霊的なイメージを持たされやすい。八仙の一人である阿仙姑(何仙姑)は芙蓉を持つとされる。

燭台の台座部分の鳥は何なのか、上が蓮なら浄土の六鳥あたりあやしいかなと思ったけど、まだこれといった鳥が出てこない。

2、屍衣としての大裘

4巻表紙の阿選の大裘、2015年の十二国記カレンダーの表紙の驍宗と色違いじゃない?と思ってたんだけど、まあ意匠は王の大裘として決まったものがあるのかもしれないから、ここでは色に注目してみたい。

阿選の大裘は青みが強い。では「青」とはどういう色か?

五行思想から見ると「青」は木になる。五行は方角にも表され五色と対応させると、東西南北を青白赤黒、ここに天地(中)の黄が入る。
このうち、常世では麒麟は一般に黄(土)となるだろう。白(火)と赤(金)を驍宗の色、青(木)は阿選の色として、黒(玄とも書く)(水)は誰の色か。

五行における相剋(そうこく)の話を驍宗、泰麒、阿選の関係に対応させることもできる。
相手を生み出す相生に対して、相剋は相手を抑制する。ここらへんはキリがなくなるので各自で確認してもらいたいのだけど、黒(水)を泰麒とすると
「水剋火」(驍宗を抑制する泰麒)
「金剋木」(阿選を傷つける驍宗)
「木剋土」(泰麒を害する阿選)
とも解釈できる。

さて「青」の話である。

常世では白は喪服の色であるという記述があるが、これは元々アジア全域にあった色の概念である。イランあたりから中国韓国、戦前あたりの日本までは喪服の白という概念は生きていたらしい。

中国では屍衣(寿衣)にリバーシブルのものを用いる習慣がある。一般には藍白。臨終を告げられたときに白いほうを表にして着せ、死後に藍を表にして着せる。
青の衣は死に装束なのだ。

現代日本語でも不健康なことを「青白い」と表現するが、医療が発達していない時代においては、捨て置かれた死体を見ることも珍しくなかった。実際に死体が腐敗する過程で、死後1日程度で青みがかった紫赤色の死斑が出てくる。(やがて内蔵が腐敗して緑に、次第に黒ずんでくる)
だから洋の東西を問わず、写実を重んじる画家ほど死体を青く塗る。(西洋はルネサンスより前は絵の注文主である教会が死体のリアルな描写を嫌ったので難しかっただろうが)

仏教においては「大智度論」「摩訶止観」のうち、人道不浄相という人体の腐敗する様子を描写する九相で、唯一色の名前を冠されているのが「青瘀相」という死体の色が変わるところである。

死体は青い。ゆえに、青とそれに連なる青みがかった黒は死者の色なのだ。

同時に、「青々と若葉が茂る」など、青と緑は色としても言葉としても似たニュアンスで用いられてきた。若葉の色である緑は希望の色として表される一方、黒々とした大地から芽生えることから、地面すなわち地界と結びつく色と捉えられていたようだ。
青(緑)は死に繋がる色であり、再生や復活の色でもあったようだ。

中国の礼では青は天子の色だ。天子は天の子、この世ならざる人という意図があり、やがて再生・復活を期待する色でもあった。
特に赤とセットで用いられるとき、「死と再生」の意味を強く持つ。(青は死、赤は出産や生命のエネルギーの色として用いられる)

本邦においては、『古事記』に弟スサノオの粗暴を恐れて天照大御神が天岩戸に隠れた話がある。一般に月食と解釈される伝説だが、天照大御神は高天原の主宰神であり、「王」たる驍宗が「岩の中」に隠されるという点において、『白銀~』との類似が見える。
なお太陽神である天照大御神は「赤」を、海原を治めるスサノオは「青」を表象する。またスサノオは根の国(あの世)に縁が深い(根の国に行きたがる、追放される、根の国に住んでいるなど)。

キリスト教絵画では青は天空を象徴し、聖母マリアのローブに用いられる。また中に赤い上衣を着た作例も多い。
表紙の阿選も内側は赤が強い。
函養山の構造が胎内を思い起こさせること、4巻最後に栗に「阿母」と言わせている(この膨大な物語の中で親子は複数登場するが、漢字で「阿母」と記されたのはここが初めて)ことなどから、阿選は仮想の母説があるのだがそれを補強するだろうか?


<そのほかのキリスト教的モチーフ>

簡単に説明しておくと、旧約聖書はユダヤ人の成り立ち、彼らの国家イスラエルの隆盛と没落の記録について神と民の関わりをもって描いた書物、だと思う。
新約聖書はイエスの生涯とその後の使徒たちの宣教活動の記録が主になっている。

どちらにも共通するのは「弾圧者による徹底的な迫害」だ。
もちろん勝利の記録もあるが、信仰を持つ者がその信仰ゆえに迫害され命を落としていく話のほうが多い、気がする。

1、鴻基から逃げていく驍宗軍=「葦の海」?

まず白銀の鴻基から脱出する驍宗と、『魔性の子』のラストが対応することに注目したい。

『魔性の子』では広瀬は海岸に高里を残して去る。正確にいえば「泰麒は広瀬を残して<使命のある場所=海の向こう>に行く」。

『白銀~』でも24章3以降、鴻基を脱出する驍宗たちが「人波」に乗じたことが幾度も書かれている。

命じられて部下は奉天門を閉ざそうとした。だが、騒動を見て逃げ始めた人の波がそれを阻んだ。兵卒を集め、流れを堰き止め、なんとか門扉を閉ざそうとしたが推しよせる人波の圧力が兵卒を撥ね除け、門をこじ開けていく。(4巻390ページ)
阿選も唖然とするしかない中、麒麟とその上に騎乗した人物を中心にした人の群が動き出し、広大な前庭に集まった群衆を津波に変えた。大波は奉天門に向かって押し寄せ、あっという間にこれを突破すると、皋門に突進して大破させた。(4巻395ページ)

他にも「人波」「人の波」というフレーズが頻出するが代表的なのはこのあたりだろう。

「葦の海」の話をしたい。
旧約聖書の「出エジプト記」では、神の召命を受けたモーセが、エジプトで弾圧されていたユダヤ人をエジプトから脱出させ、カナンに導いていく。このユダヤ人たちを、エジプト王が自ら大軍を率いて追っていく。
モーセたちは「葦の海」という海を前にしてエジプト軍に追いつかれようとしていた。そのときモーセの眼前で海が崩れて道ができる。モーセらは無事に海を渡り、エジプト軍は海で溺れる。
よくイメージされるのが海の水が二つに分かれて壁のようにそそり立つ場面だが、これは旧約聖書の中でも祭司資料と呼ばれる紀元前500年ごろ整えられた文献の「海の水が分かれた」という記述に寄るだろう。
J資料と呼ばれる、紀元前十世紀半ばごろに成立したとみられる文献には「海水が風によって押し返された」とあるので、干潮に近いイメージのようだ。

海=人波、エジプト王=阿選(自ら皋門の門楼に昇る)とみると、「海」の向こうへ逃げおおせる驍宗軍、「海」の前に立ち往生、ないし統率がとれた動きができずに溺れる阿選軍、と読むことが出来ると思う。
特にJ資料の「海水が風によって押し返された」イメージは、皋門を大破させる人波のイメージと重なるような気がする。

2、驍宗の処刑=キリストの磔刑?

「死と再生」、もとい「死と復活」というとイエスだろう。

現在のキリスト教の信仰は、イエスが十字架にかけられた意味、その後の復活に根幹がある。つまり意味や解釈がぶれてはいけない。信仰だから。
だから以下は、信仰としてではなく「構造」「構図」の話である。

「群衆心理」というものから見た時、驍宗とイエスの運命は似ている。

イエスの処刑を求める弾圧者や、彼らが立てる偽証者の言う罪状の中に「自分は王であると公言した」というものがある。(イエスやその教えを受けた者からすると地上の王ではなく神の世界に属することであるが、そういう理屈は弾圧者には通じない)
弾圧に加担する者たちが群衆を扇動する。猛り狂った群衆が「イエスを殺せ」「十字架にかけろ」と叫ぶ。ローマ総督ピラト(イスラエルは当時ローマの支配下にあった)はイエスに罪のないことを感じ、集まった群衆に選択を迫る。「殺人犯とイエス、どちらかを死刑に、どちらかを解放しよう」
ピラトは当然群衆がイエスを解放することを選択すると思っただろうが、群衆は「イエスを十字架へ」と要求する。
当時、十字架刑は最も苛酷で、無惨な刑罰だった。裸で吊るされ、肉体の下落による窒息死の寸前までいっては戻ることを繰り返す。苦しみながら少しずつ死ぬ。
イエスをここに追い込んだのは群衆であったし、刑場であるゴルゴダの丘までイエスが十字架を背負って歩くときにも、群衆は「ユダヤ人の王」と揶揄して嘲り、侮辱し、罵った。

扇動される群衆の狂気、本来であれば救い主である存在を「偽りの王」と嘲り、衆目の前でじわじわと惨殺する。
「群衆心理」を鍵にすると、イエスの磔刑と驍宗の処刑は似ているように思う。

まだ、前述の色の話とも関わってくるが、マルコによる福音書によるとイエスの十字架刑の前に兵士たちはイエスに赤い服を着せて侮辱したとある。(マタイでは紫)

十字架の上のイエスが息を引き取ったあと、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取り埋葬した。その後、女達が遺体に香油を塗るためにイエスの墓に赴くと墓穴の入り口の岩がどかされ、中に二人の若者がいて「あの人は復活した」と言う記述がある。
目撃者は、二人。
函養山から出た驍宗が赭甲の兵を二人斬り、それを烏衡が見るくだりがあるが、構図として似ていなくもない…?

人類全体に罪の赦しを求めて十字架にかかったイエスをもってして「あがないの子羊」と言うし、アベルも「羊を飼うもの」だし、そこはかとない獣のイメージに驍宗を感じたりなどもする。


<旧約聖書と白銀、関係するかもしれないこと>

・エデンのところに水と鉱物、貴石のくだりがある
「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川はピジョンで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピスラズリも産出した。」

・生き物に名前を付けることの重要性
様々な生き物や人を造った神はそれらを「人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それは全て生き物の名となった」

<マシュマロ追記>

画像4

マシュマロよりありがとうございました!
函養山から出てきた時期は考えてなかった…復活祭なるほど…。元々信者ではないためイースターの見識があまりにもないので調べてみようと思います。

<最後に>

今後も思い付いたことがあれば付け足していく予定ですが、これはこうじゃない?みたいなのがあればコメントなりマシュマロから教えていただけると幸いです。

参考文献など

日本聖書協会発行『新約聖書』
阿刀田高『旧約聖書を知っていますか』新潮社
阿刀田高『新約聖書を知っていますか』新潮社
木崎さと子『聖書物語』角川
山形孝夫『読む聖書辞典』筑摩書房
美術手帖44(650) 小池寿子「屍体狩り」
市川桃子『中國古典詩における植物描寫の研究 : 蓮の文化史』汲古書院
城一夫『色彩の博物辞典』誠文堂新光社
稲垣栄洋『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか』幻冬舎
松岡正剛『花鳥風月の科学』中央公論社
https://ci.nii.ac.jp/naid/110006351230

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