驍宗の目は視力を回復するか?

驍宗は6年間函養山に幽閉されたことにより「光が眼に沁みる」状態になっている。これは白銀終盤にも変わらず、

 驍宗は臆することなく顔を上げていた。粗末な衣類にも桎梏にも縄にも、恥じる様子はなかった。淡々とした表情で群衆を見渡す。光が沁みるのか、わずかに眼を細めた。(4巻370頁)

という状況のようだ。

私は視力は戻らないと思っていて、それというのも苛烈で麒麟さえ怯えるほどの覇気を纏っていた驍宗、何もかも自分の手で掴んできて、実際に天意さえも掴めた軍人だからこそ、決定的な肉体的瑕疵によって「何かが削がれ」ないとならなかったのではないか、と思うから。

まぁ私の感覚は一度置いて、以前『白銀の墟 玄の月』の宗教的モチーフについてという記事を書いた。
白銀~には宗教的モチーフが多い。それもキリスト教。(白銀~の前段階である『黄昏の岸 暁の天』の執筆時期が『屍鬼』に近いことも無関係ではない?)
そうなると思うのが、驍宗の眼についても宗教的な寓意がどこかにあるか?ということ。図書館も開いていないし、この記事は考察というよりも考察途上の与太話に近いので、ツッコむところがあったらツッコミつつ、軽く読み流して頂ければ幸い。

西洋世界における「盲目」

眼のエピソードですぐに出てくるのが初期キリスト教の使徒パウロである。パウロは元々、キリスト教の迫害者だった。しかし彼が回心するきっかけになったのが「眼が見えなくなる」というエピソードである。
そのとき既に磔刑と復活を遂げて聖性が証明されたキリストの声が天から「なぜ私を迫害するのか」と告げ、突然パウロ(このときはサウロという名だった)の眼が見えなくなる。その後キリストのお告げを受けてやってきた信徒の祈りによりパウロの視力が回復し、パウロはキリスト教徒になる。

つまり、キリスト教においては「盲目」は罪と無知の象徴である。

キリスト教美術においても「盲目」の象徴として「目隠し」が登場することがある。
シナゴーグ像である。これはキリスト教徒から見たユダヤ教徒の無知を示したものだ。「目隠し」をし、足元に王冠が落ちていたり、ボロボロの律法の本を持っていたりする。
キリスト教とユダヤ教は聖書を始め重なるところが多い。元々、キリスト教が小さな宗教だったころはもう少し立派なシナゴーグ像が造られたが、やがてキリスト教が多数派になるとこういう像になっていったようだ。

他の西洋美術においての「目隠し」は正義の女神像。
法曹関係の方はご存じだと思う。ローマ神話の女神、ユースティティアの像で、司法、裁判の公正さのシンボルである。
力の象徴としての「剣」、正邪をはかる「天秤」を持ち、「目隠し」をしている。「目隠し」は裁きが目の前にいる人間の権力などに影響されない「法の下の平等」を示すとされる。

あと「目隠し」で有名なのはジョージ・フレデリック・ワッツの描いた《希望》(1885)。暗い色調の中、目隠しもしくは包帯を目元に巻いた乙女が、竪琴に力なく凭れている。その竪琴の弦も1本しか残されていない。
絶望の中の「希望」、ということなのだろうか。

なんか全部驍宗の状況に重なるようで、しっくりこない。
では、東洋世界ではどうなるか。

東洋世界における「盲目」

仏教においても、その教えを信じない者を盲目に例えるくだりはよくある。
「群盲象を評す」だとか、盲人がいっぱい集まって大きな象の身体を触っても、それぞれ象の一部しかわからない、という寓意らしい。
あと「盲亀浮木」だとか、やはりあまり良い意味には使われない。

ただ、私自身は日本のふんわりした宗教観の中で仏教的な「盲」という言葉にそれほど悪いイメージがない。わざわざ唐から危険な船旅をしてやってきた盲人の高僧鑑真だとか、琵琶法師の影響なのだと思う。

琵琶法師ってそもそもなんだ、と思って検索した。「盲僧」、たぶんこれが当たりな気がする。
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B2%E5%83%A7-645001
この記事の一番最後、「盲人」のところ。

…このような者は貴と賤の両義を未分化のまま内に含んでおり,人々にとって怖れ忌避すべき対象であるとともに霊異の存在として畏(おそ)れ崇(あが)める対象でもあったのである。11世紀の日本の説話集に経を読誦して病をいやし,あるいは旱損の田畠に水を呼び,民衆の崇敬を集めた盲僧の話が伝えられている。古代の記録にみえる盲人はこうした呪術宗教者か,あるいは境の地にたむろし,寺の辺りに立って食を乞う浮浪の徒であったが,古代人は乞食の唱えるわずかの寿言(ほぎごと)にさえ呪力を感じ,その背後に神仏の姿をみていた。…(出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

襤褸布をかぶり、函養山から蘇ってきた驍宗。浮浪の徒のような風体をして、一方で王という「神」である。貴と賤の両義性を見事に持っている。
おそらく、これが「当たり」で、一番しっくりくる気がする。

元々禁軍左軍将軍という高官であった驍宗は、仮死、もしくは疑似的な「死」から復活することで、「人ならぬもの」として貴と賤の両義性を備えるに至ったのではないか?
となると、やはり驍宗の視力は回復しないと考えるのが妥当だろうか。

(ちなみにゲルマン民族の王の即位に関する伝承で、統治末期の王から逃亡した兵隊が、地母神の神殿の井戸の中で地下水脈の守護神、通称「緑の人」に永遠の生命と国土を与えられるというものがある。近しいものは感じるが、関係あるか?)

手持ちの本で参照できそうなものがあまり浮かばないので、やはり図書館が開いたら調べに行きたい。

阿選が好きなので、阿選の変化が能の泥眼から蛇に変わる過程に似てるよねって話もしたい。そもそも彼、執念深くて蛇科じゃない?

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