ウロマガ引用祭りと感想文

#ウロマガ

品田遊さん(ダ・ヴィンチ・恐山さん)の黒ウーロン茶マガジンを半年間購読して印象に残った部分やそれに対する自分の考えを書きます。かなり長いです。すみません。
(引用祭りに参加してるのに引用じゃないただの感想の部分が…多い…)
日付はバラバラです。引用元の文章はスクリーンショットにさせていただいております。

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2018年9月9日の日記「なんかわからんけど」

すーぱーそに子以外にもこういう「なぜか面白いもの」を教えてほしいなと思いました。
以前ツイッチ配信中にフランベの画像で爆笑されていたのが印象的です。

2018年8月18日の日記「旅行」
全体が大好き。旅行の話が本当に楽しそう。仲間との旅行の気兼ねなさや、昼間の暑さ、プールのはじけた爽快感、夏の朝の空気感、バッタをやさしく握る感触が伝わってきます。旅行のお話、覚えている範囲でもう少し聞けたら嬉しいなと思います。あとオモコロ合宿のお話も…。

2018年10月6日の日記「人生やってんじゃん」

わ、分かる〜〜!!
私は恐山さんより少し年下ですが、それでもあの頃の旧友たちが化粧を覚え、彼氏を作り、中には結婚寸前だったりする人もいて、それを一気に聞くと「ア、ア…」と身動きが取れなくなるような重さを感じることがあります。もう先生の前でだけスカートを長くしたり、横黒板に変な落書きをしたりする子たちではない。みんなそれぞれ違う道を辿って働いて私生活も年齢相応に(これはあんまり好きな表現ではないですが)暮らしている…。そういう意味でも昔の同級生や仲間たちとはちょいちょい会った方がいいのかも…と思いました。

私個人も学生時代何度か人を指導する立場に立ったことがありますが、同じく「向いてね〜!」と思ってそれ以来避けています。私の場合は人に頼りきりでしたが。
この部分が印象的なのは、自分の経験と重なったというよりも、恐山さんの演劇部時代のお話に興味があるからです。どんな部活ライフだったのかな?どういう指導をされていたのかな?と気になっています。ファンなので…。
(確かオールナイト虚無で話されていた、定規を後輩の背中に入れて姿勢を直そうとした、というのを想像するとおもしろくて好きです)

「恐山さんってもしかしてエモの人間なのでは?」と勝手に思っていた矢先にこの文章があらわれたのでびっくりしました。これはほんとうにもう、ただの想像なのですが、そしてこの文章の趣旨とはズレてしまうのですが、エモーションを論理でくるむような印象を受けることがたまにあります。でも、その論理がはちゃめちゃにしっかりしていて頑丈なので、すごいなあ…と思います。エモが強いから論理も強くなるのかな??とか勝手に考えています。すごく抽象的。こういうのお嫌いでしたら申し訳ないです。

「制御」2018年12月2日の日記

動物・言語・哲学の話聞かせて!!!恐山さんとにぅまさんのその類の話ぜったいおもしろいじゃん!!!と、虚無リスナーとしては熱望せざるを得ないのでした。
(いきもの忘年会でにぅまさんとのお話音声聴けて嬉しかったです)

正直な感想「怖っ」
失敗してるとこ見るの、成功している…。
インターネットを心得ている…。雑談部屋を眺めていて「これどうするんだろう…」と思っていたら全て思惑通りだったというオチ。インターネットを心得ている…。(2回目)
制約サイコ〜!

★ 「柏手の値動き」2018年11月15日の日記

これを読むと、「数字とは…」という気持ちになります。確かに起きる時間なんて5の倍数じゃなくて良いし、私も仕事がある日は6時18分に起きて7時18分に家を出ています。でも、じゃあなぜ、10進数が採用されていて、5の倍数がキリよく感じるのか…?キリよく感じる必要って、何…?と出られない迷路に入り込んだ気分になります。

2018年6月16日の日記
2018年6月17日の日記
なか卯の券売機が喋る日本語に違和感、というお話。

↓ 翌日

このメッセージを送ったのは何を隠そう私です(取り上げていただけて嬉しかったです。ありがとうございます)。
「ある」という動詞は状態動詞と言って、その名の通り物の状態を表し、形容詞に近い働きをします。対義語は形容詞「無い」ですしね。恐山さんが挙げてらっしゃる通り、「見える」や「痛む」もその類です。英語のhave(「持っている」の意味のみ)、know(「知っている」)、などもこれに当てはまります。状態動詞を定義づける1つの要素として、「進行形にできない」というものがあります。「あっている」とか、「I’m having a pen」とは言えないですよね。これは言うまでもなく、既にその動詞が進行のニュアンスを持っているからです。
さて、「動作動詞」「状態動詞」という区分ですが、実は言語学的にはかなり大雑把なくくりです。学校教育の上で用いられている呼び方ではないかな、と思います。
言語学(意味論や認知言語学)の上では、「活動動詞」「到達動詞」「達成動詞」「状態動詞(動作動詞に対する状態動詞とおおよそ同じ)」と分類されることが多くなっています(これらを動詞の「語彙(的)アスペクト」と呼びます)。言語によってその定義は少しずつ違うのでここでの説明は割愛しますが、動詞は動詞でも十把一絡げにはできないんだぞ!ということをお伝えしたいと思います。
また、恐山さんは西村義樹・野矢茂樹著「言語学の教室」を既にお読みかと思うので(インスタグラムで写真を拝見しました)認知言語学はある程度身近なのでは?と思っています。哲学にも近いですし…。
あとこの本の中だと「概念メタファー」の話をぜひぜひ詳しく読み込んでいただきたいのですが、話が逸れてしまうのでその話題はここではやめておきます。ただ、「思想は偏っていてもまっとうでいられる」内で話されていた内容が「それ!概念メタファー!メタファー拡張!」と興奮したので(私だけ)、ちょっと調べていただけると、言語に対する視野も広がって色んなことを考えるのが楽しくなるんじゃないか…と思っております。よければ…。

あっあと、状態動詞うんぬんのメッセージを送った数分後に恐山さんが「状態動詞!」とツイートされててめちゃくちゃびっくりしました。びっくり、しました…。

「さらば因果」2018年11月6日の日記
2018年10月5日の日記「パン5 vs 米3」

死関連。死について考えると答えが出なさすぎてウワ〜〜!となってしまいます(そこがおもしろい)。
人は全員生きているので(すごい)、根本的に生にアイデンティティを求めて「生きていること」の価値を上げざるを得ないのでは、というのが私個人の考えです。その価値観を共有し、そしてそこから逸脱する人のことは止めようとする。ある意味、生が閉鎖的な檻のような役割をしているのかもしれない。生から解放された死は、生きている人は誰も経験していないので怖い、だからお前もやめろ、という感じなのかな〜と考えています。
あと「死ぬのが怖い理由」として「残された人が悲しむ」というのは私もなんとなく腑に落ちないというかしっくりこないというか…。確かに、親や友人を悲しませたくない気持ちはあるけれどもそれが死への恐怖につながるか?と言ったら疑問です。死への恐怖って「自分の意識がない」ことに対する恐怖じゃないのか??と。
まあどれもこれも死んでみなきゃわかんないですね。キャンディクラッシュみたいに命が5個くらいあればいいのに。

★ 「ホテルで病気のきのこの山を製造した日」2018年11月18日の日記

今年一番笑いました。

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引用祭り、以上です。
狂看板(7月19日から)も印象的だったのですが、もう…看板がないとなると…。もっとバトってほしかった。
あと時たまやってくださる音声日記が大好きです。恐山さんの声が聞き心地良くてとても好きなので…。
あっあと「匿名ラジオを録った」と日記に書かれていると安心します。2本録りなのかな…。

めちゃくちゃ長くなってしまいました。引用祭りというより、ただのファンレター的なアレが強くなってしまいました。気持ち悪かったら本当にすみません…。
毎日ウロマガの更新ありがとうございます。自分では至ることのない考えに毎日触れられる機会はとても貴重なので大事に読ませていただいております。
これからも無理のない範囲での更新たのしみにしております。

以上です。

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