努力の定義と素養とは
人によって違うものは様々ある。努力という言葉の定義もそうだろう。
なんとなく自分なりに一生懸命やる気持ちがあれば良いと思う人と、複数の重量ランクで世界4団体のチャンピオンベルトを取るという目標達成のために励む人とでは、努力という言葉の定義が同じはずもない。もっとも、高い目標に向かって努力している本人は、案外努力とは思っていなくて、目標に向けて励むことを怠けたりしないのはいたって自然なことだと感じているフシがある。
一方で、努力が足りない人に限ってそのことを指摘されると、これでも一生懸命やっているんだそれの何が悪いと開き直る。その一生懸命の行いが目標達成に役立つものでなければならないし、そもそもサボっていては努力もヘッタクレもない。
努力という言葉の印象がこれほどまでに違う理由は、育つ過程で努力する人をどれだけ見たかによるのではないか。努力という言葉を裏付ける実際の行為を見たかどうか。子供が一番身近に見聞きする親や指導者の生き様みたいなものが反映されるのではないか。そうだとすると、小さい頃にきちんとした指導者に付いて本格的な習い事をするのは大切だろう。それなりの指導者になる人はともすれば夢破れた人かもしれぬが、努力をしてきた人である点では間違いないだろう。
それでも、ただコツコツと闇雲にやることが努力ではないと思っている。闇雲では目標に近づくかどうかが分からなさすぎる。自己満足の努力では無意味だ。
しかしながら、努力が実を結ぶことは現実的にはレアなことだ。それでも努力することを続けられるとしたら、努力する素養があるのだろう。それには、どんな小さなことでも良いから努力が実った経験が不可欠だろう。
やっぱり可愛い子には旅をさせた方が良いのだ。
今年1年はどんな旅になるだろう。愉しんで努力を続けられるようになりたいものだ。
おわり
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