反出生主義者が子供を持つとしたら

反出生主義に出会ってから、すっかりその思想に染まってしまって、自分が子供を持つということを全く想像できずにいる。一方で、私は「家庭」に対して憧れが強いタイプらしく(占いをするといつもそういった結果が出る)、いつか結婚や出産が経験できればいいのに、とも思っている。

私が反出生主義に共感できる理由は、社会に対してあまり期待ができていないからだと思う。社会には、自助努力でなんとかできる範囲を超えて、大きな課題がさまざま存在していると感じている。例えば、貧困などの問題が再生産され、親から子へと受け継がれてしまうこと、貧富の差が拡大し、二極化が進行していること。日本の財政は赤字が膨らんで悪化しているし、少子化が進んでいる。環境問題もあるし、自殺もあるし、戦争も起こる。そういった側面に注目すると、この世界で子供を産む時、子供の幸福に責任を持てないような気がする。(そもそもそんなこと無理だよ、という意見もあるだろうし、その通りなのだけど、仮に母になることを想定した場合の私の心構えとして、ということ)

一方で、もう少し長い目で過去から現在を眺めると、社会は進歩しているとも言える。女性は自立し、インターネットで多くの情報にアクセスできるようになり、人権や平等や自由という価値観が確立&共有されている。便利な発明品が次々に生まれている。つまり、過去ではなく、今、子供を持てるということはかなり恵まれていることだとも言える。

結局のところ、どの視点から世界や社会を捉えるかということが重要なのだと思った。そして、その視点は「何を信じているか?」によって決まってくる。「今の社会は最悪だし、これから先も最悪だろう」と捉えるか、「社会は進歩し、改善されている。今後も進歩するだろう」と捉えるか。どちらを信じるのか。それは「何を基準にしているか?」に言い換えることもできる。「実現されることのないの理想郷」を基準にするか、「これまで人類が築き上げてきた社会(過去の社会)」を基準にするか。

話は逸れるが、例えばスイスなどで安楽死を選んだ方は、自立し、人生を楽しんでいる状態を基準にして、自分の生活を考えていたのだと思う。病気などが原因で、その基準を下回らざるをえなくなったとき、安楽死を望むようになるのだと思う。その基準は、自分自身で勝手に決めてしまっている場合もあれば、社会の規範として定められたもの(もしくは、なんとなく求められているもの。言語化されていないけれども社会の構成員に共有されているもの)を内面化してしまっている場合もあると思う。

最近、「こんな夜更けにバナナかよ」を読んでいる。寝たきりの状態の男性と、彼を取り巻くボランティアのノンフィクション。「生きる」ことについて考えさせられる…。その男性と私とでは、あらゆることの基準が違うような気がする。

私たちは自分の中の基準を普段意識していない。自分にとっては当たり前のことだからだ。基準が高すぎたり、低すぎたりすることは生きづらさにつながる。これからは自分の基準点を常に意識していきたいと思った。


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