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ニコライ・テルレツキー「履歴書」

Carricurum vitae by Nikolaj Terlcký

私はおとめ座生まれだ。だからもっぱら理性に従って生きていくはずだった。だが理性に従わなかった。おそらく、扉は東に向いているが、窓は西に向かって大きく開かれている町で生まれたせいだろう。その町はペテルブルグと、その後ペトログラード、そしてレニングラードと呼ばれていた。この奇妙な町で一九〇三年九月十三日に、つまり今も手元にある公文書の記載よりも三年早く生まれた。ペテルブルゴペトログラードレニングラードでも、お役所仕事が三年遅れなんてことがあるはずがない。コンスタンティノープルのギムナジウムの校長先生が一九二〇年に僕を三歳若くした方が得策だと考えただけのことだ。

狙撃兵近衛連隊の士官だった祖父には、三人の娘と息子が一人いた。長女のオリガは、モスクワの軍医ミハイル・ヤンチェフスキーに嫁いだ。彼らには、ボリスとドミトリーという二人の息子とナターシャという娘が生まれた。次女リーザは判事のセミョーノフに嫁ぎ、シベリアのバルナウルで暮らした。子どもはいなかった。末娘のリーダは、ペテルブルゴペトログラードのどこかの省の何かの役職に就いていたボルディレフと結婚し、リーラとローラの二人の娘と一人息子のイワンがいて、革命後イワンはパリに落ち着く。祖父の一人息子、ニコライ・ワシリエヴィチ・テルレツキーはバルト地方出身のドイツ人女性アデライーダ・プルスと結婚。アデライーダはルーテル派からロシア正教に改宗し、リディヤ・アドリフォヴナ・テルレツカヤと名乗るようになる。二人の間に三人息子が、長男ニコライ(私)、次男ヴァレンチン、三男アレクセイが生まれた。

最後は参謀本部の陸軍大佐にまでなったが、自分が理性的な父を持ったと断言することは、とうていできない。ヨーロッパの言語六つとアジアの言語五つに通じていたことは、父が精神障がい者ではなかったことを証明しているに違いないのだが、その父は母と結婚した時、当時お決まりになっていたローマ、パリ、ヴェネツィアにではなく、列車、ラクダ、馬、カヌーを乗り継ぎ、ペルシアとインドに行った。世に言う「ハネムーン」から父が持ち帰ったのは(身を守るために殺したという)二頭の虎の毛皮、そしてひどくおびえた母を連れ帰った。

まず僕、次にヴァーリャ、三番目にアリョーシャが生まれた頃は、ペテルブルグできわめて文明的な生活をし、夏はフィンランド湾岸のリゾート地、テリヨキゼレノゴルスクの旧称で過ごした。その後チフリスジョージアの首都トビリシの旧称に用務ができて父はカフカスに引っ越したが、僕らはペテルブルグっ子のままだった。うちの扉は相変わらず東向きで、窓は西に向かって大きく開かれていた。父の元へはフランス人、イギリス人、ドイツ人、ペルシア人、アラブ人などの来訪者があったが、言うまでもなく、西からの客が窓から入らねばならない訳ではなかった。

母にはほとんど会えなかった。父に同行してあちこち旅していたし、たとえ家にいても、ぼくら子どもたちとは別世界で暮らしていた。主に面倒を見てくれたのは祖母と乳母で、僕らは僕らで自分たちの社会を両親の友人の子どもたちと共に作っていた。

父に会えるのは、クリスマスとイースターと夏休みだけ。父は始終ペルシアやインドやアフリカで何かをしていた。大使館付きの武官(アタッシェ)だったのではないかと思う。父が家にいるときは、多くの外国人がうちを訪ねてきた。父には世界中に友人がいた。外国人のなかでも、僕ら子どもにとっていちばん謎めいて見えたのはカトリック教徒で、彼らのことを話す時、祖母は正教徒について話す時より、いつも少し声をひそめていた。僕らにとってとくに謎めいていたのは、父にジャンヌ・ダルクの巨大な銅像を贈ったフランスのカトリックたちだ。父の書斎に置かれていたこの銅像を祖母は嫌っていた。ジャンヌはもちろん聖人だが、男物のズボンをはき、祖母自身がそうしたような淑女らしい乗馬姿ではなく、馬に跨がり、手には槍を握っていた。祖母はかなり進歩的で、トルストイ伯爵が正教について奇妙な考え方をしていたにもかかわらず、彼が好きで、皆が彼を革命家だと考えていたことななど歯牙にもかけていなかった。ジョルジュ・サンドの小説も愛読していたが、たとえそのサンドでも、女なのにとんでもないことだと、ズボンを履いたり槍を持ったりすることは許さなかっただろう。

ジャンヌ・ダルク像以外にもうちには、どこにもないもの、誰も持てなかったものがもう一つあった。アッバス・アリという名の父専属の従卒だ。彼は父を自分自身と同じだけ愛していた。それはまさに正しい愛し方だった。なぜなら自分以上に好きだったなら、父に同化して奴隷になってしまっただろうが、自由を愛するクルド人でイスラム教徒のアリに奴隷になることなどできない相談だった。だがもし自分自身と同じくらい好きでなかったなら、折りあらばキリスト教徒の父を不信心者として殺したり、あるいは父の持ち物を盗むことが正当化されたであろう。しょっちゅうクルド人が反乱を起こしていたイランで、かつて何かの暴動があった時、父はアリの命を救ったらしい。しかし、アッバス・アリが有名だったのは、父を自分自身のように愛したからではなく、大男だったからで、足が大きすぎて合う長靴(ちょうか)がカフカス連隊の倉庫という倉庫を探しても見つからず、士官並みに特注しなければならなかった。アリはみなに好かれていたが、誰より彼を愛したのは祖母だった。たぶん、彼が敬虔なイスラム教徒として一日五回お祈りをし、ラマダーンの時は日の出から日没まで、飲食をしなかったからだ。我が家では、アリの足のことが、父の明晰な頭よりも遙かに大きな賛嘆の念をもって語られた。ちなみに父の頭は情けないほど普通の大きさだったのである。

うちは不動産を所有していなかった。土地と農園は、軍人だった先祖たちが食いつぶしてしまったのだ。そこで父は黒海沿岸のバトゥミジョージアの港湾都市からほど近いツィヒズ・ズィリという村に土地を一区画買った。そこに屋敷を建てるつもりで、まず別荘と厩と使用人の住まいだけが建てられ、井戸が掘られ、将来庭園にするために密林が伐採された。僕ら子どもたちは、祖母と乳母に連れられすぐそこに引っ越さなければならなかった。

八才のとき唐突に父から、ペルシアに連れて行くぞと言われた。それはご褒美というだけでなく、とうとう一人前になったという証明でもあった。もう一人前だからと、大人用の服を二着誂えてくれた。一着は父の友人の文民たちが着ているのと同じような服、もう一着はカフカスの民族衣裳「チェルケスカ」で、それに合わせてブーツともこもこした毛皮の帽子も誂えてくれた。それまでは色んな悪戯を思いつくという理由で弟たちの尊敬を得ていたが、今や、父の側のむしろ年長者として尊敬され出したので、せっかくの尊敬を失わぬよう、ベルトに下げた短剣が装飾用の模造刀で鞘が抜けないことを、数日のあいだ隠していた。やっと打ち明けたのは出発直前だったので、もはや弟たちには、これまで通り未成年と見なすからと、僕に通告する暇がなかった。

父とアッバス・アリと三人で、まずは列車で国境の町ジュリファまで来たら、線路はそこで途絶えていた。相変わらず大人のままの僕は、大人たちといっしょにホテルで食事をし、大人のように大きなベッドで寝たが、夜明けにホテルから馬の待っている中庭に出たら、子どもに戻っていた。馬はアラブ種で、父の友人でペテルブルグやチフリスの家に泊まりに来ていたヌリ・ハンとアスケル・ハンの父親が寄越したものだった。馬は純血種という話だったが、そんなことはどうでもよかった。具合が悪いのは、どの馬も大きいのに僕が小さいことで、滑稽なほど鐙革を短くした鞍にコサックたちに載せてもらう羽目になった。大人らしさを無くしたことには、すぐに折り合いをつけられた。何しろ本物の馬に乗っていたのだ。それまでは父や母や、時には祖母が馬に乗っているのを指をくわえて見ていることしかできなかったのだから。

僕らは、旅人を誘拐して、身代金を要求する山賊が猛威を振るっているという山岳地帯を進んで行った。父にはコサック兵の部隊が同行していたが、郵便物だけでなく〔ペルシアの〕ホイ市のロシア連隊だか何かのためのお金を運んでいることは、ジュリファの誰もが知っていたし、その金のためなら山賊たちはよろこんで命を賭けた。なぜペルシアにロシア軍の連隊があったのか、今もって分からない。

太陽が地平線に顔をのぞかせそうになるとすぐ出発したが、完全に日が昇るともう別世界に、まったく別の空間に僕らはいた。それが前人未踏の地に思えたのはもちろん、それまで大都会にしか住んだことのない僕だけだった。多分このあたりをノアは息子たちと共にさまよったにちがいない。ここを多くの人、馬、ロバが往き来した日がいないのだが、街道など絶えてなく、あるのは旅人たちによって踏み固められた道と、徒渉するしかない激流だけだった。橋、歩道、線路、列車、路面電車といったもの――アダムの時代このかた人間が造ったもの全ては、遙かかなただった。至るところに山が聳え、近くに迫る山々があるかと思えば、遠くにも別の山々があり…。するとアララト山が、大アララトと小アララトの両方が見え、僕は恐ろしく興奮した。それは何より、もし本当にこのアララト山にノアと箱船とアダムとイヴがいたのなら、ドラゴンやバーバ・ヤガースラヴ民話に登場する妖婆にも出くわすかも知れないからだった。しかし強盗にもドラゴンにもバーバ・ヤガーにも出くわさず、僕はちょっとがっかりした。

ホイで何をしたのかもう覚えていないのは、特別何もなかったからだろう。しかしホイまでの道中は記憶に刻みつけられている。初めて馬に乗ったし、自分の目でアララト山を見たのだから。どれくらいペルシアに滞在したのか分からないが、イースターのあと出発し、クリスマス前にはチフリスに着いていたのだから、半年ぐらいだろう。

クリスマスのあと一家を挙げて――父、母、祖母、僕ら子ども、そして新しい使用人たちとで――ツィヒズ・ズィリに向かった。古参の使用人たちはチフリスに残った。まだ造成中の敷地に建てられた別荘は小さかったが、僕らは気に入った。周囲にぐるりと庇付きのベランダがめぐらされていて、冬の雨の日でもそこで遊べた。敷地の片側にはまだ密林が広がっていて、持ってきた鉈を使ってかずらを切り開かなければ先に進めなかったが、次の日になると一から道を切り開かねばならなかった。ここでは何もかもが信じられないような速さで成長した。敷地の反対側には、海へと降りてゆくコンクリートの階段がすでに出来上がっていた。黒海はちっとも黒くはなくて深緑色、海面の下には無数のとがった岩があるので、接岸には腕前が要った。父にもできなかったのだろう、舵はいつもアッバス・アリが握っていた。

ほどなく父と母とアリはまずチフリスの家に、そこからさらにコンスタンティノープルへと出かけて行った。コンスタンティノープルはペテルブルグやチフリスとはまったくちがう町のような気がしていた。当時それが外国にあることを知らなかったというだけでなく、そもそもこの世に外国というものがあることを知らなかった。そこが遠いことだけは分かっていたが、僕にとって、汽車で行かねばならない町はみな遠くだった。

子どもたちは祖母と家庭教師と、大半がトルコ人である新しい使用人たちとツィヒズ・ズィリに残った。僕らはその一画がとても気に入っていた。そこは建築資材が豊富で、大きな人工湖もあって、冬場は雨のためにあふれた水が、赤褐色の奔流となってその湖から密林へと流れ落ちていた。水はたくさんあったが、飲み水は密林の中の泉から運んでこなければならなかった。泉までは桶を取りつけたワイヤーが張られていて、下りは空っぽの桶、上りは水で一杯の桶が動いていた。この一時しのぎの原始的な装置をガソリン・エンジンが動かしていた。空の桶につかまって石組みの水路までぶら下がって降りていくことは固く禁じられていたけれど、僕と一つ年下の弟ヴァーリャは無視した。ただ四つ下のアリョーシャは、こんな無鉄砲にはまだ小さすぎた。

冬の長雨がやむと、隣人たちが子どもたちを連れてうちを訪ねてくるようになって、すぐに友だちが沢山できた。海水浴ができるのは、言うまでもなく大人が見ていてくれる時だけ/大人の監督がある時だけ――深みは岸からすぐのところから始まっていたし、ちょっと沖に出ようものなら海面の下には尖った石がいたる所にあった。しかしどぇでも監督など必要なかった。ヴァーリャも僕もフィンランドで上手に泳げるようになっていたからだ。

僕ら二人は児童書をほとんど読み尽くしてしまい、あれやこれやと、祖母の本さえ読むようになり、それを自己流に理解した――ということは、理解できなかったということだ。たとえば、チフリスの家でスラーヴァ叔父が大人たちにプーシキンの『スペードの女王』を朗読するのを扉の陰から聞いて、とても気に入った。だが今にして思えば、プーシキンの物語よりも叔父が好きだったような気がする。プーシキンの『青銅の騎士』も僕のお気に入りだったが、たぶんそれは、馬にまたがり通りを駆け抜ける銅像のイメージが新鮮で、ワクワクしたからだった。スラーヴァ叔父がこの詩を朗読することはなかったので、自分で読んだ。でも書くのは嫌いだった。当時の僕は、全ての重要なこと、興味深いことはすでに書かれているのだから、今さら書くのは無用だと考えていた。

ツィヒズ・ズィリには約二年住んだ。一九一二年の始めに、ペルシアで父が何か怪しげな毒を盛られたという知らせを。彼の地のではそんなことがままあった。ペルシアではロシア人とイギリス人の利害が衝突し、激しく争っていたらしい。地元住民も巻き込まれ、ある日はロシア側についたり、また別の日は英国側についたりしていた。父はバトゥミの陸軍病院に運び込まれていたが、僕らにはそれが父とはほとんど見分けられなかった。骨と皮だけで、声はかろうじて聞き取れるくらい弱々しかった。第一次世界大戦が布告される数日前に、父は死んだ。ヴァーリャとアリョーシャと僕の三人は、母と祖母の前、棺が乗せられた砲架の後ろを歩いた。僕にとって父はいつも英雄だったし、英雄として死んだ。たとえ何のために死んだか分からなくても。享年三十六歳、その功により死後、参謀本部陸軍大佐に特進した。

葬儀の後、僕らはツィヒズ・ズィリに戻ったが、そのあとすぐ、当時はドイツと戦争中だったために「ペトログラード」と呼ばれていたペテルブルグペテルブルグはドイツ語風の地名に発った。

ペトログラードでは生活を一新しなければならなかった。アリョーシャはまだ小さかったので家族と一緒に――言い換えれば、ある時は母のもと、またある時には祖母のもとに留まらなければならなかった。ヴァーリャと僕は、既にしかるべき年齢に達していたので、母は二人をミハイル・パヴロヴィチ大公記念砲兵学校の予科に入れた。そこでの数ヶ月間で、未来の陸軍幼年学校生たるにふさわしい規律正しい集団生活を叩き込まれるはずで、当然ながら文民である祖母が唯一の権威だったカフカスでの快適な生活の後では、苦労が待っていると思われたのだが、僕らはほとんど何の苦労も感じなかった。それはたぶん先生と養育係が女の人、つまり祖母と同じく文民だったからだろう。数か月後、ヴァーリャはペトログラードの、僕はモスクワの陸軍幼年学校への入学を許された。これは、ツィヒズ・ズィリの領地の問題を片付けるためにペトログラードを離れなければならなかった母の望みであり、親戚一同の望みでもあった。さし当たりヴァーリャの世話はペトログラード在住のボルディレフの一家が、僕の世話はモスクワのヤンチェフスキーの一家がしてくれることになっていた。ボルディレフ家とヤンチェフスキー家で僕らはそれぞれ日曜日と祝日を過ごすようになったのである。

他の新入生も同じなのだが、幼年学校に入学してすぐに正式の幼年学校生になれるわけではなかった。肩章がもらえない代わりに、幼年学校生が心得ていなければならぬことの全てと、家庭、学校、社会でどのように振る舞うべきかという訓戒が書き連ねてある手帳が配られた。おそらく、これを全部暗記するまでは、休日に外出する権利が与えられなかったのではないか。十四日後に試験を受け、合格した者は肩章を受け取り、日曜に家に帰ることができたのだったと思う。

幼年学校がとても気に入った。そこでの生活は自宅やミハイル大公記念砲兵学校とはまったく違っていた。ここには女性がおらず、僕らがすべきこと、あるいはしてはならないことを全て男性が決めていた。たとえば祖母や母や家庭教師に靴を磨くよう命じられたとしても、僕は命令に従わずにいられた。それが不名誉にはなることはなかったし、もし本当に靴が汚れていたら、必ずや誰かが磨いてくれた。だが幼年学校は違う。命令に従わないことは不名誉であるのみならず、人間として、幼年学校生として、士官として本質的な欠陥がある証拠だった。服従できない幼年学校生は決して士官にはなれない、なぜなら上官の命令に従わない士官には、部下に命令する資格がないからだと、僕たちは教え込まれた。

僕は十分に予備教育を受けていたので、教科では何の苦労もなかった。例外は体育とペン習字。体育は始まってすぐ優等生の仲間入りをしたが、ペン習字は劣等生だった。体育の優等生の生活はなかなか大変で、他の生徒が外で遊んでいる間、下手くそたちのトレーニングをみなければならなかった。気に入らなかったが、どうしようもない。最初から優等生になるという間違いを僕は犯してしまったのだから。ペン習字は劣等生だったが、これはこれで非常に損をした。他の生徒には自由時間だった放課後に練習しなければならなかったのである。少し後にペトログラードの陸軍幼年学校に転校した時は、優等生にも劣等生にもならないように恐ろしく気を遣った。

幼年学校のカリキュラムは事実上中等学校と同じで、ラテン語とギリシア語の授業がないだけだ。その代わりに数学と外国語と体育の時間が多かった。その頃はまだサッカーはされておらず、ラプタ――アメリカの野球のようなもの――や九柱戯に似たゴロトキーをして遊んだ。とても人気があったのが一対一でも団体でも行われた格闘で、ふつう行われていたように歩いてではなく、竹馬に乗って戦った。そんな格闘の後は、みな額にこぶを作ったり、二、三日びっこを引いたりしたものだった。

学校がとても気に入ってはいたが、いつも日曜日が楽しみだった。制服が申し分なくきちんとしていると当直士官が認めてくれてはじめて、休みに外出できたということは言うまでもない。

ヤンチェフスキー家の人々が僕は好きだった。ミーシャ叔父さんはモスクワでも有名な軍医だった。にもかかわらず一家の長は叔父ではなく、奥さんのオーリャ叔母さんだった。お客の多い家だった。従兄弟のボリスとヂーマ、従妹のナターシャ、僕、そしてちょうどその時来ていたお客さんの子どもたちは、大抵子ども部屋でお茶を飲みながらおしゃべりをした。時々僕らのいる部屋に誰か大人がちょっと立ち寄り、何か可笑しな話をしてくれたり、ちょっとした手品を見せてくれたりした。

モスクワに僕がいたのは半年ほどだった。母はカフカスからペテルブルグに戻り、そこに永住するつもりだった。そのため僕は弟のヴァーリャが在学していたペトログラードのピョートル大帝記念第二陸軍幼年学校に急いで転校させられた。もう正式の幼年学校生として入学したので、すぐに青い肩章をもらった。それには交差した二つの「P」が、Peter Primusラテン語でピョートル一世を意味するラテン文字の二つの「P」がついていた。父の希望で、陸軍幼年学校の三年次を終えたら、海軍幼年学校に入ることになっていた。言葉を覚え歩き始めるや否や、未来というものの存在を認識するようになった瞬間から、いずれは大きな軍艦の艦長に、そして最後は提督になってみたいと夢見てきた。だが僕は船長にも提督にもなれず、海軍幼年学校に行くことさえなかった。

一九一七年の夏休み、母はアリョーシャとヴァーリャを伴ってカフカスに行き、僕はボルディレフ家の人々といっしょに、ヘルシンキからほど近いフィンランドのリゾート地、ホウニ・ヤルヴィに出かけた。そこはまだ人の手が入っておらず、大きな湖と黒々とした森のあるとてもロマンチックな町。その静けさは、ふだん母や祖母と夏休みを過ごしたテリヨキのにぎやかさとは対照的だった。従兄のイワンと従姉妹のリーラ、ローラとは、この休みの間にとても仲良くなり、ペトログラードに戻った後に何をするかという計画がすでに出来上がっていた。だが計画は何一つ実現しなかった。秋に革命が勃発したのだ。ピョートル大帝記念幼年学校は閉鎖され、親元に帰れない生徒は、エカテリーナ女学校に移された。前代未聞のことだった。男女共学のギムナジウムはいくつかあったが、そこからは男であれ女であれ、真っ当な卒業生は出ないと言われていた。だが共学校では単に男女が一緒に勉強するだけだったが、僕たちは勉強だけでなく、女の子たちと寝食を共にしなければならなかった。もっとも、先生はいないし、建物にはほとんど暖房が入っておらず、僕らはいつも空きっ腹を抱えていたので、エカテリーナ女学校では大して勉強しなかった。それにもかかわらず、僕はそこで初めて詩を、もちろん悲哀にみちた詩、呪われた城と月夜に鳴く梟を謳った詩を書いた。ロシアに月夜はあるし、梟もいたが、城はなかったけれど、そんなことは問題ではなかった。ロシアの作家たちだって、ロシアにも外国にもいないルサルカのことを書いていたのだから。

そうこうするうちに、シベリアからエネルギッシュなリーザ叔母さんがやって来た。夫と別れ、政治に身を投じていた。僕を引き取ってくれたが、それはぎりぎりのタイミングだった。学校では暖房が完全に止まり、大半の生徒は病気になっていたからだ。叔母さんは僕のために文民向けのごく当たり前の上着を仕立屋に注文し、制服は燃やしたようだった。軍服風のデザインのしゃれた外套も仕立屋に出され、前ほど軍服風でもなければ前ほどしゃれてもいないコートに仕立て直された。

そして、ロシア全土で何が起きているか先行き不透明な冬が――信じがたいニュースの飛び交う冬がやってきた。その厳しい飢饉の冬を人々が乗り越えたのは、ペトログラードでもまだ物資が手に入ったからというより、住民自身の生命力のお陰だった。雪が解け始めるころリーザ叔母さんは、カフカスを逃げ出さなければならなくなった母から手紙を受けとった。母はさし当たりキエフに落ち着くつもりでいたが、革命が拡大するなか、この先何が起きるのか誰にも何も分からず、落ち着けるかどうかはっきりしなかった。僕はキエフの母のところに行くときっぱり宣言したが、叔母はそれ以上に断固とした口調で、お前はまだ小さい、ロシアは革命とカオスのただ中にあるのだからどこにもやることは出来ないと答えた。ロシアが革命とカオスのまっただ中あることは分かったけれど、それでも僕は何があっても、母のもとに行くぞと決心した。十四才で、幼年学校の第四学年に在学していたのだから、自分は大人だと思っていた。

どう実行すべきか数日思案した。以前叔母が一〇〇ルーブルをくれたが、買う物がなくてそのまま手元にあった。食糧の備蓄を始め、毎日配給される六〇グラムのパンを乾燥させて隠し、コイやフナの類いの干物も二つ三つため込んだ。その後、ウクライナに行こうとする者は必ずヴィザという許可証のようなものが絶対必要だと聞き知った。ヴィザを発行する役所に出かけたが、そこには尻尾が見えないほどの長蛇の列ができていて、通り全体はおろか、角を曲がってその先まで続いている。人々は毛皮のコートにくるまり、椅子や肘掛け椅子や箱や樽の上に何日も、もちろん夜も座り続ける。行列に沿ってあちこちで焚き火が燃え、暖をとったり、おそらくイチゴかキイチゴの葉で作られた代用茶を淹れたりできた。燃やせるものは何でも燃やした。並んでいた行列で、僕が役所の建物に辿り付けるのは三日後、それも地獄で仏と大いに感謝するような幸運に恵まれればの話だ、と聞かされた。昼間だけなら三日間並ぶことは可能だったが、夜は家でおとなしくしていなければならなかった。さもないと、ウクライナに行こうとしていることを叔母に勘づかれてしまう。僕は行列の人たちと、夜は僕の場所をとっておいてくれること、その代わりに昼間は僕が彼らの場所をとっておくということで話をつけた。人々は昼間が必要だという考えに慣れ、必要なのは昼間だけ、夜中は余分な時間という考え方に――暖房の入っていない家で寝るのも、焚き火が燃えていて、その近くでは何か気晴らしになるようなものがいつもある街頭で寝るのも、どうせ同じだという考え方に慣れきっていた。彼らは僕のために町から姿を消して久しい箱入りの砂糖を手に入れ、イチゴだかキイチゴの代用茶を振る舞ってくれた。自分がどこに、何のために行きたいのか多くを語らなかったが、僕が何も言わなくても皆わかっていた。しかし、近所のどこかに不要になった柵があるかとういことは進んで話をしたし、話すだけでなく、柵を壊して木っ端にするのを手伝った。家に帰るのは遅く、クラスメートの家にいたとあいまいにごまかしていた。あの頃、僕はまだ嘘がつけなかった。しかし、叔母には何か心配事があったらしく、どんな友だちの所にいたのか、そこで何をしていたのか、尋ねることさえなかった。朝になると再び並んだが、列は二メートルしか進んでいなかった。またカップ一杯の熱いお茶と干し魚を一切れもらったが、その時でさえ僕がどこに行こうとしているのか聞かれなかった。あの頃は、詮索することは不作法だとされ、誰もあれこれ尋ねることはなかったのである。

四日目の朝に建物に入り、午後にはヴィザを発行する部署まで辿り着いた。身分証明書を見せろと言われる。もちろん身分証明書なんてないし、持っていなければならないことさえ知らなかった。ウクライナに行けるように書類を受けとるため、四日間ずっと行列に並んでいたと言った。仕事の邪魔をするなと言われたが、絶対にここをどかない、ヴィザをもらってウクライナに行かねばならないんだ、僕は子どもじゃない、他のみんなと同じ権利を要求すると反論した。行列の人の中には同情するようにうなずく者がいる一方で、僕を罵る者、声を上げて笑う者もいる。役人は、おとなしくどかないなら民警を呼ぶぞ、とまで言った。民警とは関わり合いになりたくなかったのでその場を離れ、腹立たしさのあまり小さな子どものように大泣きしながら階段を降りて行くと、見知らぬ男の人になぜ泣いているのかと尋ねられたので、僕は洗いざらい話す——僕の持っていない証明書とやらを出すように求められたこと、役所は僕にウクライナのヴィザを出すつもりがないのだということ、そして子どものように追い払われたことを。その人が笑い出したのに怒りがこみ上げ、僕は再び号泣し始めた。するとその人は、幼年学校の外套の仕立て直し、全然うまく行ってないねと、ひとこと言ったあと、両親はどこにいるのか尋ねる。母はウクライナで、僕は叔母さんの所で暮らしているが、叔母さんは僕がウクライナに行こうとしていることに気づいていないらしい、気づいていればひどく怒るはずだから、と答えた。その人が僕が何の話をしているのか分かってくれたかどうかは分からないが、どちらかと言えば分かってもらえなかったのだろう。僕が作り話をしていると思ったのかも知れない。あの頃は誰もが嘘をついていたので、それは特別なことではなかった。

最後になってその人は、ペトログラード第三幼年学校の生徒だった息子が秋に死んだ、と言った。その息子の名で書類とヴィザを手に入れてるれるのだという。息子の名はゲオルギー・サリニンだったが、おそらく用心のためだろう、すぐには教えてくれなかった。書類を駅まで持ってきてくれるということで話がついた。きっと僕を取りに来させたくなかったのだろう。いや、もしかしたらただ警戒していただけなのかも。私服姿だったが、たぶん士官だった。

約束の日までの数日の間に、自分の持ち物を――シャツ、靴下、魚の干物五つ、そして乾燥させたパン十一個を――小さな籠に詰めた。それから叔母に、どうか怒らないでください、キエフの母のところに行きます、という置き手紙を書いた。暗くなってから駅に向かう。切符はもう持っていた。二、三ルーブルしかしなかったが、それはお金で買える唯一のものだった。私服姿の士官は本当にやって来て、書類をくれた。しかし長話はしようとせず、気をつけるようにとひとこと言うと、すぐに人混みの中に消えてしまった。プラットホームに行ったが、列車はまだ入線していなかった。ホームでは老若男女、大勢の人が待っており、そばにはたくさんのトランク、籠、背嚢、頭陀袋があったが、ほとんど誰も口をきかず、一刻も早く豊饒の地ウクライナに行きたいと、苛々した様子だ。発車時間は一時間後のはずだが、列車はまだ来ない。一時間たっても二時間たっても現れず、やっと着いた時は四時間遅れだった。それは家畜用の貨車亡命ロシア人の回想にしばしば登場する暖房付きの家畜用の貨車で「テプルーシカ」と呼ばれたがたくさん連結された列車で、誰もが我先にと貨車へ突進した。やっとドアが閉まってみると車内は満員で、座ろうにも場所がなく、立ったままいるしかなかった。しかし、汽車が動き出すとすぐに人々は狭さに慣れ、何とか詰め合うと、座るだけでなく横にもなれるようになった。もっとも、お互い頭の横には足があるといった有様だが。

列車は一晩中走り続けた後、日中はずっとあちこちで停車しながらゆっくりと進み、全く動かなくなることもしばしばだった。飲み水はドアのそばに陣どった者が駅から運んで来てくれた。引き戸のそばは、列車が動いていようと停車してようといつも騒がしく、用を足すにもドアの所まで行かねばならなかった。

二日目の夕方近くに汽車は止まり、先に行きたい者は別の列車に乗り換えなければならないと告げられた。それは座席のついたコンパートメントに分かれ、暖房とお手洗いの付いた標準的な客車。誰ひとりそんな贅沢に心の準備ができておらず、にわかに信じがたかった。だがひとたび信じてしまうや命がけの戦いが始まる。列車は襲撃に遭ったようなものだった。乗車口は恐ろしいほどの押し合いへし合いになっていたので、まだ空いた場所のあった屋根によじ登ろうと、僕は思い立つ。籠を持って上にのぼり、中程のいちばん良い場所に陣どった瞬間にはもう、客車に入れなかった人たちが屋根をめがけて登り始めている。だが人数が多すぎた。長い列車だったが、家畜用の貨車の方が、人間用の客車よりもたくさん人が入る。もちろん罵り合いになったが、驚いたことに、殴り合いの喧嘩にはならなかった。苦境にあって人はみな兄弟だが、機転の利く者もいれば利かない者もいる、という不文律があったようだ。もちろん罵り合うことは許されていたから、おおよろこびで罵り合ったが、暴力沙汰はなかった。もしみんなが殴り合いを始めていたら、列車は誰も乗せずに出発していたかも知れない。

列車は再び一晩中走り続けたが、翌朝どこかの駅で、この列車は先には行かないから、先に行きたいのなら別の列車を待つように言われた。僕たちは下車して、ポンプのところで顔や手を洗い、水をたっぷり飲むと、各々あり合わせの物で朝食を済ませにかかる。一食分余計にパンを食べ、魚の干物を半分かじり終わると、僕はふと隣の線路に停車している空の貨物列車を覗いてみようと思いつく。それは何か積荷を待っているという話だった。春先なのでコートを着ていたが、屋根の上ですこし凍えたので、僕は風の当らない物陰で次の列車を待つことにした。車両に潜り込み、隅っこで横になると寝入ってしまった。目が覚めた時、貨車はすでに動いており、車両の中は人であふれている。僕らが待っていた列車はどこかで脱線してしまったので、ウクライナ行きには、荷物を載せるはずだったこの列車が使われることになったのだと、乗客たちから聞かされた。自分は理性よりも幸運を多く持っているんだな、と結論づけると、再び眠り続けた。

だが長くは眠れなかった。夜半に、もう一度乗り換えがあったのだが、寝ぼけた僕は、乗換なしでウクライナに直行できる列車への先陣争いで遅れをとってしまったのだ。しかたなく再び屋根によじ登った――たまたまそれは一等車の屋根だったが、一等車だけのことはあった。他の車両の屋根のように真っ平らではなく、縦に切り込まれた溝が、広過ぎもせず狭くもなくて快適で、走行中に振り落とされるという心配なしに横になって眠れた。しかしまだ、それも二度も乗り換えねばならぬ羽目になった挙げ句、ようやく僕らはウクライナに着いた。籠にはまだパン三切れと干し魚がまるまる一匹残っていたが、その気になれば平然と捨てることができた。なぜなら僕たちは貨幣がまだ価値を持っている豊饒の地にいたのだから。駅は村の農婦たちでごった返し、僕たちが忘れて久しかった食料品を売っていた。牛乳、スメタナサワークリーム、サーロ塩漬けの脂身、ブリヌィロシア風クレープ、肉やキャベツの入ったピロシキ、そのほかありとあらゆるご馳走がふんだんに売られている。またおいしい物が食べられるのは幸せだったが、その幸せと胃袋が長らく疎遠になっていたので、僕は下痢をした。ただ食べてすぐではなかった。おいしい食事の後、今度はまちがいなく乗換なしでキエフまで運んでくれる列車に乗り込もうとしたが、出遅れてしまって座席は全て埋まっていた。屋根の上にさえ、何とか僕の入り込めるような場所は残っていなかった。車両の間の連結器にも空きが無い。集団で旅をするのに慣れてしまったのか、誰も一人っきりで汽車に乗りたくなかったようで、最後尾の車両の連結器だけが空いていた。僕は下の方にある鉄のフックに籠をかけ、顔を車両の方に向けて連結部に腰を下ろした。そうすべきではなかったのだが、連結器に座るなんて生まれて初めてで、知るよしもなかった。春先のことで、僕がつかまっていた鉄の棒は氷のように冷たく、両手がかじかみ始めた。鼻先の壁だけをずっと見ていると気が狂いそうになる。しかし、それはまだ最悪ではなかった。下のフックにかけた籠はリズミカルに揺れ、リズミカルに足にぶつかるが、さほどつらくはない。何よりつらかったのは下痢を起こしたことで、これはもうどうすることも、ズボンを脱ぐことさえできなかった。連結器に座り、壁を睨みつけながら、何の役にも立たないのにペトログラードのパン二切れ、馬鹿げた干し魚一尾、靴下、汚れたシャツの入っている惨めったらしい籠が、足を傷つけるにまかせておくほかなかった。

どれくらい汽車が走ったのか分からない。三時間か四時間か、あるいはもっと長かったのか。停車駅はなかった。傷だらけになり出血した足でキエフの駅に降り立った時、恐らく僕はひどい姿だったにちがいない。すぐさま隣の線路の脇のポンプの所まで行き、ズボンを脱いで洗濯して全身を洗う。絞っただけで濡れたままのズボンをはいたが、ひどく気持ちが悪い。汚れたパンツは線路に投げ捨て、籠はフックに掛けたままにして駅を出た。旅の疲れを少し癒やそうと、しばらく公園のベンチに腰かけていた。惨めな気分で、母を見つけるなど覚束ない気がしてきた。もしかしたら母はまだキエフに着いていないかも知れない、もしかしたら全く別の場所に行ってしまったかも知れない。何しろ革命が起きたのだから、どうすれば良いのか誰も知らなかった。唯一はっきりしていたのは、役所の戸籍住民課に行って、キエフにリディヤ・アドリフォヴナ・テルレツカヤという市民が住んでいるか、尋ねなければならないことだった。しかし、そもそも戸籍住民課のような部署がここにあるのだろうか?そもそも母は住民登録をしているのか?キエフに来ているのか?

ついに戸籍住民課を見つけ出して、リディヤ・アドリフォヴナ・テルレツカヤの住所を教えてもらった。僕は奇跡を信じ始めた。
呼び鈴を押すとメイドが扉を開けてくれたが、僕を見るなりバタンと閉めてしまった。恐らくまともな来客に見えなかったのだろう。僕はもう一度呼び鈴を鳴らし、念のため、リディヤ・アドリフォヴナ・テルレツカヤという人を探しているのだと叫んだ。メイドはまたドアを開けたが、それは十中八九、行かないと警察を呼ぶわよと脅すためだったが、その瞬間、母が僕に気づいた。

どんなふうに歓迎されたのか、もう覚えていない。多分どの母親も同じようにするのだろう。そのあと僕は、帰還した放蕩息子のように服を脱がされ、風呂に放り込まれた。

再び家にいるというのは何とすばらしい事だろう!もちろんアリョーシャはいたが、ヴァーリャの姿はなかった。母が言うには、ヴァーリャはポルタワの幼年学校に入学が許されたものの、ポルタワに赤軍が迫ってきたために疎開した幼年学校の行き先が分からないらしい。

僕は自宅にいたが、時は一九一八年の夏、学校に行く必要などない。キエフには学校は一校も存在していなかったのではないか。熾烈を極めている国内戦の最中に勉強できるなど、誰にも思いもよらなかった。当時ウクライナはたぶん独立国だったのだろう。そうでなければヴィザの必要などなかったはずだ。とはいえ、どこへ行っても赤軍と白軍の話で持ちきりだったので、汽車の中でイギリス史の白ばらと赤ばらの戦争のことを考えたが、ロシアの内戦はイギリスの内戦とは似ても似つかぬものだった。白軍側に立っていた僕の考えでは、士官も兵も農民も全員がデニーキン将軍ロシアの軍人で、ロシア革命後の内戦期の南ロシアにおける反革命軍の指導者を支持していた。当時ぼくが信じていた所によるなら、赤軍側についていたのは、労働者とカール・マルクス、ローザ・ルクセンブルグ、コロンタイ、エンゲルスなどの外国人だけ。ロシアに労働者は少なく、文学で語られることはなかった。一方、農民は多く、ロシアでは事実上全員が農民だった。よくチフリスのうちに来ていた知り合いのとても裕福な地主が、いつだったかこう言ったのを覚えている。「私はなによりもまず農民であり、その次に軍人だ。農民はロシアの大地をつくり、軍人はそれを護るに過ぎない」と。

当時の僕は驚いた。大地主は予備役の軽騎兵で、刺繍を施したいかにもロシア風のルバシカと幅広のズボンをはき、本物の農民のように熊手で熊を仕留めたことがあると自慢してはいたが、それでも彼は軽騎兵、つまり軍人であり、社会階層の最上位を占めていると、僕の目には映っていた。だが今ではその人のことが理解できたと思っている。

その夏を僕はこんな風に過ごした――新しくできた友だちとドニエプル川で泳ぎ、食べ、飲み、太り、時々何か読む。世の中で起こっていることにさし当たり興味はなかった。ウクライナにいる僕には、どのみち何もできなかった。実は、革命のことさえ真面目に考えていなかった。赤軍がロシアを滅ぼそうとしていると白軍は言っていたが、かつてのロシアのような大国を革命が滅ぼせるとは信じられなかった。革命とは、何一つ変化をもたらさなかったプガチョフの乱のようなものだと、あるいはナポレオンの勝利で終わり、再び君主制の道をこっそり辿っているフランス革命のようなものだと考えていた。労働者たちがいつか本当に国を支配できるかも知れないという話なんて、我が家でも、セミョーノフ家でも、ボルディレフ家でも一度も聞いたことがなかった。

つまるところ僕は若く、愚かで、ボリシェビキたちが最下位に引きずり下ろそうとしていた最上位にたまたま属しており、階級を超越した考え方がまだ出来ずにいた。そもそも僕には考えることが出来ず、凡人や革命家、あるいは反革命家と同様、感情に従っていた。もっとも僕には、革命ないし反革命の時代という観点からして大きな欠点が一つあった。階級的立場からであれ、何であれ憎むという能力に欠けていた。たぶん子どもの頃から軍隊流に、人間には勝者と敗者の二種類があるという信念のもとに育てられたからだろう、勝者であれ敗者であれ、正しい軍人なら同じ名誉の掟に従わなければならない。つまり、勝者は敗者に対して騎士道的に振る舞わねばならず、敗者は敗者で、次なる戦いでは必ずや打ち破るべき相手であったとしても、今は勝者をより良く訓練された好敵手と見なさねばならなかったのである。
一九一八年の七月、キエフは二つの軍勢に同時に、すなわちデニーキン将軍率いる白軍とペトリューラウクライナの民族主義者。第一次世界大戦に敗れたドイツ軍がウクライナから撤退した後キエフに入城の軍隊によって占領された。劣勢のペトリューラ軍は、白軍を前に撤退を余儀なくされた。白軍はすぐさま町中に、カラフルで美しい制服姿の軽騎兵と竜騎兵の描かれた大きなポスターを貼り出した。軽騎兵と竜騎兵の下には、国際共産主義者(インターナショナリスト)であるボリシェビキの侵略からロシアを護る白軍に、全ての自覚あるロシア人男性は即刻入隊すべし、と書かれていた。もしかしたらボリシェビキにはもっと手厳しい表現が使われていたかも知れないが、もう覚えていない。しかし、当時の僕にとって最もきつく感じられたのは、「インターナショナリスト」という表現だった。家で多くの外国人と会っていたのに、どうしてそのように感じたのか今もって訳が分からない。おそらく「外国人」という語の意味が明瞭だったからだろう。外国人が常に外国から、ある特定の国から来るのに対して、インターナショナリストがどこからやって来るのか、誰も知らなかった。

軽騎兵の制服はものすごく気に入った。あんなに美しい軍服を着て、しかもロシアを護るとは素晴らしい。白軍に入隊すると母に伝えた。どこにも入隊させない、おとなしく家にいなさい、ときっぱり言うと、母はわっと泣き出した。母がかわいそうだったし、好きだった。家族みんな一緒でいたいと――アリョーシャと僕と、そしていまだに消息がわからず、もうこの世にはいないかも知れないヴァーリャも一緒にいたいと――願っているのは分かっていた。僕は軟弱な心と固い頭の持ち主で、いつも石頭の方が勝っていた。だがそれ才気に満ちた頭だったからではなく、ただ単に頑固頭だったからにすぎない。実際いつも石頭だったわけではないが、両肩の上に石頭が乗っかっていることを忘れるには、心がもっとずっと柔らかい必要があった。
僕は白軍の徴募部門に出向き、軽騎兵隊に入隊したいと告げた。白髭の大佐のところに連れて行かれ、両親はどこにいるのか、またなぜ白軍に入隊したいのか、と質問された。もしも、馬が好きで軽騎兵の軍服がとても気に入ったから、と答えたら、真面目に取り合ってくれないにちがいない。そこで、両親に死なれ、ピョートル大帝記念ペトログラード第二幼年学校の四年に在学しており、ロシアを護りたいと思っているなどと、曖昧に答えた。僕はまだ若すぎるから、閉鎖された各地の幼年学校の生徒を集めて新設されたノヴォロシースクの統合幼年学校に送る、というのが大佐の意向だった。母に置き手紙を残して、駅に向かった。そこには二時間後にノヴォロシースロシア南西部の都市で黒海沿岸の主要港がある向け出発する軍用列車が停車していた。

その年は冷夏ではなかったので、僕は何も持って来ていなかった。身につけていたのは、革ベルトで腰を締めたルバシカとズボン、そして白軍のキエフ占領のあと母に買ってもらった新しい靴だ。ノヴォロシースクに行けばすぐに学校の制服を支給されるのが分かっていた。だが制服をノヴォロシースクで受けとることはない。幼年学校はいまトゥアプセ黒海の北東岸にある港湾都市だと告げられ、船はその日の夕方近くに出航するから遅れないようにと、お金と切符を渡された。

暑かった。レストランで食事をしたあと、海水浴のついでに道中かなり汚れてしまったルバシカを洗濯するため、海に向かう。幼年学校にはきちんとしたかっこうで出頭したかった。

洗ったルバシカは、陽に当てて乾かそうと砂地に広げたが、急に太陽が姿を消したかと思うと、冷たい突風が巻き起こった。ノヴォロシースクではままあることだと後で知った。雪で覆われた山に溜まった冷気が、猛烈なスピードで麓へと吹き降りるため、鉄道の車両が堤から海に落ちることもよくあった。僕は大急ぎで濡れたシャツを着ると、壁沿いに桟橋に向かって歩いた。実際は歩いていたのではなく、しっかりつかまることの出来る地点から、次のつかまれる地点まで走ることの繰り返しだった。通りは掃き清められたようになっていて、もはや無用の長物と化した交通警官の哨所だけが、交差点ではなく通りの角で、突風に吹き飛ばされないように、引きつけでも起こしたようにして街灯にしがみついていた。

すでに船は港に停泊していたが、それは本格的な汽船にはほど遠く、ノヴォロシースクからトゥアプセに保養客を運ぶための、船室も乗客用の下甲板もない沿岸小型船舶に過ぎない。いま甲板は風よけのため、使っていない帆布でぐるりと囲われていたが、凍てつくような風もあらゆる方向から吹いてきたのだから、無駄なことだ。船にはすでに大勢の軍人やコサック、農民たちが乗り込んでおり、みな毛皮のコートか重い軍用外套を着ている。僕だけが濡れたシャツを着て、甲板をあちこち走り回った挙げ句に、甲板の下にある機関室のボイラーの上にあたる暖かな場所を見つけた。だがそこには不都合があった。熱い金属板の上は寒風が吹きすさんでいたので、お腹と背中を交互に暖めたり冷やしたりしなければならなかった。それはもうひどい夜だった。しかし朝になってトゥアプセに着岸してみると、日が輝き、ノヴォロシースクでは、「ノルド=オスト」と呼ばれる恐ろしい北東の風が荒れ狂っていたことなど夢にも知らない人々が、海水浴を楽しんでいた。

幼年学校は本当にトゥアプセにあった。当直士官に到着を報告していると、もう一人将校が入ってきて、君はポルタワ幼年学校からここへ移ってきたヴァレンチン・テルレツキーの親せきではないかと尋ねた。勿論、ずっと行方不明になっていた弟のヴァーリャだった。久しぶりの再会だった。ヴァーリャが白軍側で体験したことを話してくれるのを聞きながら、僕は自分の赤軍側での体験と引き比べていた。

客観的に判断すれば、どちらの側でも同じように相手を銃撃し、絞首刑にし、投獄し、罵倒していた。主観的に見れば、もちろん白軍は十分な糧食に恵まれているに対して、赤軍はほとんど餓死寸前だった。さらに再び主観的見地に立てば、白軍は赤軍よりも明敏だった。だがそれには完全に客観的な理由があったことに、当時の僕たちは思い至らなかった。白軍が、大して種まきをしなくても、あらゆる植物が成長する南方で作戦行動をおこなっていたのに対して、赤軍は、多少なりとも真面目に種まきをしても、ほとんど何も育たない北方で行動していたのである。僕らの年齢では、物事を主観的に判断するのは至極当然だった。

弟には母の住所を教えたが、さし当たりは僕の名前は出さないでくれと頼んだ。僕は何としても白軍に入隊したいのに、母はそれを許しはしないだろうから。ヴァーリャは、自分も白軍に入隊したいのだが、本当の軍人になるにはまずは勉強しなければならないと言われたと、打ち明けた。しかし今では弟は、射撃は特別な技能ではなく、そのために自然科学も、数学も、歴史も必要ないことを、自分の目で見て知っていた。

ことは明白だった。二人で逃亡することに、最近聞いたところによれば僕らよりも若い少年たちも戦っているという前線に行くことに決めた。だが運命の采配はちがっていた。遊覧船の旅のせいで、僕は肺炎と、さらにチフスに罹った。手紙で弟が僕の病気を知らせたので、母は白軍と赤軍の両方と戦っていた緑軍農民パルチザンに占領される直前、僕らのためにトゥアプセまでやって来た。幼年学校はすでに疎開しており、僕は意識がないまま陸軍病院に入院していた。母は僕を連れ帰ろうとしたが、医者は、数時間後にこの子は死ぬだろうし、いずれにせよチフス患者は船に乗せてもらえないと断言した。僕が死ぬまで待つことのできなかった母は、最終の汽船で帰るほかなかった。

だが僕は生き延びた。遺体安置所で意識を取りもどした。他の死体と同じように素っ裸で、シーツにだけ包まれていた。秋だったので、開け放たれた窓から冷たい風が吹き込んでいた。死んでいないと分かると、僕は病院に戻された。それは我が人生最良の日。まだ生きてるぞ、と話しているのが聞こえた時、僕は声を立てて笑わずにはいられなかった。もちろん僕は生きていたが、高熱の後、こんどは体温が急激にギリギリまで下がったので、すっかり衰弱して、話すどころか目を開けることもできなかった。閉じた瞼を通して奇妙な光が見え、僕は自分が幸せだと感じていた。後になって目を開けることができた時、それがごく普通の光であることを知り、夜中に雪が降り、陽の光に山々が白く輝いていることを知った。

僕の幸福感は長くは続かなかった。病院の大部屋でいっしょに寝ていた士官たちは皆、ベッドに寝ているところをそのまま緑軍農民パルチザンによって撃ち殺されたが、今はそのベッドに当の緑軍のたちが寝ていると、ある看護婦が教えてくれたのだ。今やパルチザンたちは、白でも、赤でも、緑色でもない、当たり前の人間の顔色をしていた。大半が意識不明だったが、結局彼らがどうなったか、僕には分からずじまいだ。町が再び白軍によって占領されると、僕はすぐさま担架に乗せられ、フェオドシヤクリミヤ半島北東に位置する黒海沿岸の港湾都市の病院に移された。フェオドシヤは、僕が初めて見た――といっても担架で運ばれながら見た――クリミアの町であり、ロシアを永遠に離れる船から最後に見た町だった。

まるまる一冬入院した後、春にはもう十分に回復したので、セヴァストポリの医療常任委員会にまず送られた。委員会は僕に、通常の生活に戻って良いとのお墨付きと新しい英国製の制服と身分証を――それで士官の日当、十五ルーブル三十コペイカ受け取れることになっていた――さらに、最新情報によれば統合幼年学校があるはずだというイェフパトリアクリミア半島南西岸のリゾート地行きの乗船券をくれた。

イェフパトリアへは、もう一人の生徒と一緒に行ったが、どこの幼年学校の出身だったか、もう覚えていない。メデムという名だった。彼は僕より少し年下だったので、世話をするのが自分の義務だろうと考えたが、あに図らんや、メデムの方があれこれと僕の世話を焼き出した。まず、もう大人なんだから煙草を覚えるべきだと、一箱よこして、初めは煙をたくさん吸い込んではだめだ、と僕に注意を与えた。吸い出してすぐ気分が悪くなったが、とにかく僕の方が年上なので、おくびにも出さなかった。僕はペトログラード幼年学校のメデム男爵という生徒を知っていたが、道連れのメデムは、自分は男爵ではないと言った。その代わり自分の名が前から読んでも、後から読んでも何一つ変わらないMEDEMであることに、大きな誇りを持っていた。
イェフパトリアに着いたが、幼年学校などどこにもなかった。僕たちはそれぞれ十五ルーブル三十コペイカ渡され、士官用のホテルでの宿泊が許された。いま学校はヤルタクリミア半島南岸にある保養都市にあるはずだと言われたが、確かな話ではない。事実、確かではなく、ヤルタにも幼年学校は見つからなかった。学校は間違いなくシンフェロポリクリミア半島の中心都市に移ることになっているから、直ちに向かえと言われた。

シンフェロポリには行かなかった。夏の素晴らしい天気に恵まれ、僕たちにはお金があった。二人でいいレストランに入って食事をし、ワインも一本注文した。ワインなんて、僕は一度も飲んだことがなかった。家でも、ヤンチェフスキー家でも、ボルディレフ家でも、セミョーノフ家でも子どもたちにワインを飲ませなかった。幼年学校で昼食の時に出されたのはクワスロシア特産のビールに似た清涼飲料水だった。ただ十二月六日の「皇帝の日」にだけ、交差するラテン文字の「P」がついた肩章の形をした砂糖菓子に加えて、シードルが一本出された。それはリンゴのワインと思い込まれていたが、たぶんアルコールの入っていないごく当たり前の林檎ジュースだった。
僕はワインがすぐに気に入った。ワインを飲んだ後の二人の気分は最高だった。レストランから泳ぎに海まで歩いて行く途中、砂浜で釣りをしている少年に出会った。しかし、海に餌が十分あるのか、ただここに魚がいないのか、釣果は上がっていなかった。プスコフのギムナジウムの生徒で、両親を亡くし、生きているはずの叔父を探しているのだが、ヤルタにはいなかったのだという。僕らはハルワという名のお菓子砕いたクルミやひまわりの種などを砂糖で固めた菓子を一袋買って、三人で食べていた。そんな楽しい気晴らしの最中に、メデムが、この感じの良いギムナジウム生を自分たちの仲間にしようと思いついた。僕らは情報部に行き、両親を亡くした友だちがヤルタで叔父さんを探したけれど、見つからなかった、という話をした。叔父さんはシンフェロポリにいるかも知れないから、僕らと一緒行けば良いのではないか。すると、それは名案だ、シンフェロポリには赤十字の支所があって、尋ね人のいる者はみな登録に行くし、あそこならギムナジウム生の面倒も見てくれるだろう、という返事がかえってきた。そこで彼にも新しい英国製の制服と、十五ルーブル五十コペイカと汽車の切符が支給された。

僕たちは駅にはいかなかった。第一に相変わらずの好天だったし、第二に、幼年学校探しも叔父さん探しもする必要がない、と思いついたから。したいことが何でもできた。僕らはまだ若過ぎると、絶対に誰も言わない前線に直接行くこともできた。今こそ重要な時期だと、ひとりひとりがどちらかの側について戦わねばならない時なのだということが、僕には分かっていた。僕のいるべき場所が白軍の側であるのは明らかだったが、軍隊に入るということは、実は命令を聞くこと、言い換えれば、誰か他人が望むことだけを実行することに他ならないとの認識も芽生えていた。全くその通りで、家でも親類の所でも幼年学校でも、いずれ命令する資格を得るために、まず言うことを聞けるように躾けられた。だが今、自由でいられるチャンス、自分のしたことだけを出来る初めてのチャンスが、目の前にある。それは大きな誘惑だった。¥キエフでは、白い髭を生やした陸軍大佐に、まず勉強すべきで、戦うのはその後だと言われた。今の僕には、自分の好きなことをまず為すべきであり、そのあと戦う、それどころか勉強すべきだと思えた。それに僕は、前にも言ったように、革命を深刻に考えていなかった。言うまでもなく、国はカオスの中にあり、誰も何も知らなかったのに。実際それはとんでもないことだったのに。僕らの唯一の義務は、毎日軍事センターとかいう部署に出頭して、幼年学校を探していると報告し、幼年学校が移っていそうな町の名を――僕らの場合、実は学校のありそうもない町の名を――申告することだった。それからお金と船か列車の切符と、ともかくどこかに幼年学校はあるはずだから必ず見つかるよ、という慰めの言葉を受けとった。

およそ二、三ヶ月の間、クリミア中を旅行し、ワインを飲みながらレストランで食事したり、あるいは戸外で食事をし、煙草をふかし、海水浴をしているうちに、僕たちは少しずつ、いかなる幼年学校もこの世に存在しない、ギムナジウム生の叔父さんなどいやしないと信じ始めていた。だが存在していた。少なくとも例の幼年学校は。あるとき僕らはフェオドシヤに大きなサーカス団が来ているのを知り、幼年学校とギムナジウム生の叔父は十中八九フェオドシヤにいるらしいと、軍事センターに申し出た。僕らはまたお金と乗船券を受け取り、オレグとかいう子を船に潜り込ませことにまで成功した。その子が何者だったのかもう覚えていないが、幼年学校生でもギムナジウムの生徒でもなかったことは確かで、その代わりと言っては何だが、歌が上手でサーカスをとても見たがっていた。

僕はフェオドシヤの野戦病院に入院していたから、そこに幼年学校がないことは確かだったのだが、あに図らんや、下船してみると、フェオドシヤに幼年学校があることが判明した。まだどこか先の目的地に行く船に引き返したかったのだが、挙動にひどく怪しいところがあったのだろう、僕らは逮捕されてしまう。警察では、洗いざらい本当のことを話すしかなかった。ギムナジウム生とオレグは赤十字の支所に送られ、僕とメデムは警官ふたりの監視付きで統合幼年学校まで移送された。罪人として。

しかし事態はそんなに悪くはなかった。幼年学校はコンスタンチン士官学校の校舎の片翼棟全体を占めており、そこではいつも何かが行われていた。藁を詰めたマットを倒したり、行進したり、ゴロトキーをしたり、歌を歌ったり。通常の幼年学校と同様、生徒はクラス分けされ、教官と養育係と「指導係」がいたが、勉強した記憶はない。勉強したに違いないのに記憶にないということは、座学がそれほど重要ではなかったからだろう。射撃を習ったことは覚えている。町をぶらつき、補給倉庫から不要品をしょっちゅうくすねては、市場で売って、ワインや煙草を買っていた。総じて監視下の自由が放浪していた頃の自由とほとんど変わらないことに、僕はうれしい驚きを覚えた。

セヴァストポリでもらった英国製の制服は、すぐに市場で売った。新しくて洒落ていたが、フェオドシヤの暖かい気候には全く不向きだった。僕らはリネンのズボンと、ベルト付きのルバシカを着ていた。洒落た英国製の制服を着ていたのは、すでに町の娘のお尻を追いかけ始めていた上級生たちだけだった。

メデムは二日でいなくなった。最初、僕は逃亡したのかと思ったが、後になって親類に引き取られたことを知った。他のクラスメートの大半は気の良い子たちで、世の中のことを何も知らず、僕が警官に連行されてきたことに感心することしきりだった。片脚を幼年学校に、もう片方の足を犯罪の世界に突っ込んでいる僕は、彼らの間で権威と見なされていた。

そうこうするうちに全ての前線で戦況が悪化した。白軍は退却を重ね、ある日、各自の荷物をまとめるよう命令された。それから四人ずつ隊列を組んで埠頭まで行進して行くと、すでに船が停泊していた。コルニーロフ号コルニーロフは内戦期の反革命運動の指導者だった陸軍大将という名だったと思うが、思い違いかも知れない。二隻同じ名前の船が――一方は軍艦でもう一方は民間船が――あったことははっきり覚えている。僕たちを待っていたのは、民間船の方だった。

乗船には長くかかり、晩になってようやく第一下甲板に落ち着くとすぐに、赤軍が退却しているという知らせが前線から届き、即刻下船せよとの命令が発せられた。僕らは命令に従ったが、どうやら幕僚たちには、赤軍が進攻を再開することが分かっていたらしく、埠頭で野営するよう命じられた。眠りたくなかった僕と二、三人の生徒は、町の様子を見に行くことにした。埠頭に立ち入らないように見張りに立っている哨兵たちを丸め込んで、通してもらった。みんな身分書と新しい英国製の軍服を持っていたが、それは乗船の間際に支給されたものだった。

発電所が故障しているのか、あるいはすでに地元のボリシェビキに占拠されていたのか、町は人影もなく、真っ暗で、通りでは時たま銃声がした。だが、町はまだ赤軍に占領されておれず、置き去られたものが盗まれ、商店、倉庫、金持ちの住居が略奪に遭っただけだと、僕たちは分かっていた。幼年学校で、妻子を連れ、トランクを携えた学校付き司祭のクチタレフ神父に出くわした。途方に暮れた神父さんたちは学校のむき出しのマットレスに腰を下ろして、蝋燭の光の下で静かに語り合っていた。幼年学校の出発に間に合わなかったのだという。途方に暮れた親子は、誰かが船まで連れて行ってくれないかと期待しながら、朝を待っていた。僕たち生徒は、すぐにもこの一家を埠頭まで連れて行こうとしたが、神父様は、朝まで待つ方が賢明だと判断した。

空が白み始めると,中庭から何か物音が聞こえてきたので、何ごとかと見に行った。するとコンスタンチン士官学校の生徒たちが補給倉庫を開け、新しい英国製の銃と薬莢と手榴弾で武装していた。僕らも銃を渡され、余計な時間はないからすぐ港に行くように言われた。それで司祭一家といっしょに港まで歩いて行くと、ぎりぎり間に合った。幼年学校生たちはすでに乗船を終えていた。当然ながら、持っていた銃は、乗船するとすぐに没収された。僕たちだけでなく、全員が武器を差し出さなければならなかったのだが、それはまったく理にかなったことだった。

僕たちはまた第一下甲板に収容されたが、は鉄製のタラップを降りていかねばならない下甲板はほとんど真っ暗闇で、上甲板からの灯りは、開け放たれた跳ね上げ戸を通って上からからさし込んでくるだけ。石油ランプや蝋燭を点けることは、安全上の理由から厳禁で、上甲板に出ることも、安全上の理由なのか、それとも何か別の理由からなのか、厳しく禁じられていた。僕たちはほとんど真っ暗な中、座ったり寝そべったりしたまま、何も問題がないか確認するため、下甲板に降りて来たかと思えば出、出たかと思えばまたやって来る養育係たちの話に耳を傾けていた。自分たちがどこに輸送されているのか、僕らの船が着岸できる場所がまだロシアに残されているのか、僕たちには分からなかった。公海に出て初めて、コンスタンティノープルに向けて航行中だと告げられると、当然ながら、僕らはひどく興奮した。コンスタンティノープルは外国である上、千夜一夜物語の町であり、おとぎ話とハーレム、反りのあるサーベル、魔法の絨毯、そして僕にとってはカトリックよりもさらに神秘的なイスラム教の町だった。少なくともカトリック教徒は正教徒と同じようにミサの前に鐘を鳴らしたし、正教徒と同じように日曜日には教会に通って、賛美歌を歌い、大きな声で祈りをあげた。イスラム教徒は、正反対に、あぐらをかいて座ったまま黙って祈り、いかなる儀式もなく、彼らにとっての日曜日は金曜日で、しかもそれはもう木曜日に始まるのだという。船上ではそんなことが大いに話題になっていたが、長続きしなかった。僕らの足もとの一番下の船倉で、水夫たちがチョコレートの入った木箱を四十二個見つけた、という噂が突然耳に入ったからだ。どこかの投機家が――ご本人はすぐに海に放り込まれてしまったけれど――チョコレートをコンスタンティノープルに密輸しようとしたのだとか。今や話題はハーレムのことでも千夜一夜物語のことでもイスラム教のことでもなく、チョコレート一色になったが、チョコレートは、船長の命により女性や子どもたちに分けられることになった。ウィンチで引き上げられた木箱は、もともと検査のためにだいぶ壊れており、穴を大きくしてチョコレートの入った紙箱を引っ張り出すのは簡単だった。僕らはその後の人生で手に入れたチェコを全部合わせたよりも多くのチョコレートを手に入れたが、良心には一点の曇りもない。僕たちは子どもで、チョコレートは僕ら子どものものだったのだから。

しかし甘いお菓子があったのに、チフスを発症した僕は長いこと食べられなかった。いわゆる「ぶり返し」で、急な発熱でチョコレートのことも、イスラム教の異国で僕らを待っている千夜一夜物語のことも、思い浮かべることさえできない。

コンスタンティノープルに着いても、ヨーロッパとアジアを隔てるボスポラス海峡に碇泊したまま、長らく下船の許可を待っていたが、役所はぐずぐずするばかり。後になって分かったことだが、僕らをコンスタンティノープルに上陸させる気など毛頭なく、その後船は、たしかギリシアだったと思うが、どこか別の目的地に向けて出航した。フランス軍の小型艦が四人のチフス患者だけを、すなわちペレヤスラフスキー第五竜騎兵連隊の士官三名と僕だけを陸地に運んだ。水夫たちは、担架に載せて岸壁に運び上げた僕らを毛布でくるみ、毛布の下にそれぞれの身分証を押し込んで立ち去った。たぶんこんな大都会の沢山の人が行き来する岸壁なら、誰かが僕たちを見つけると考えたのだろう。事実、アメリカ赤十字が見つけてくれたが、それはあくる日の夕方近くになってのことだった。僕たちは病院に搬送され、入浴のあとアメリカ製の清潔なベッドに寝かされ、僕らが身につけていたものは全て消毒に回された。

僕たちは急速に回復した。良い医者に診てもらったためかも知れないし、政治的、気候的、細菌学的変化に対しもはや十分免疫があったからかも知れない。歩けるようになり、ふつうに食べられるように、つまり食事に出されたものを全部平らげられるようになると、プリンキポ諸島の一つ、ハルキという名の島に送られた。そこで我々ペレヤスラフスキー竜騎兵連隊の士官三名と僕は、あるギリシア人の庭付きの小さな家に間借りした。その家には五部屋あり、三部屋にギリシア人とその家族が、二部屋に僕たちが暮らした。部屋は家具付きで、藁のマットレスが四つと箒と石油コンロがあって、僕らはそのコンロを使い、難民キャンプ管理局からの配給品(主に缶詰とパンだった)を材料に料理を学んでいった。アメリカ赤十字から支給された毛布にくるまってマットレスの上で眠り、庭ではパントマイムという別の言葉で、いや言葉ではなく、手足と目と、体全体で話すことを学んでいった。このせわしないパントマイムの相手は、家主その人と、のべつ庭に何か洗濯物を干しているその奥さんと、十二歳くらいの息子だった。この子は、僕らの部屋の敷居に立って、何時間ものあいだずっと、いや増す好奇心をむき出しに、僕たちを観察して飽きなかった。将校たちはみなすごく良い人で、友だちのように接してくれた。パンと缶詰と砂糖と紅茶以外を手に入れるには、島の近くの沖合に碇泊しているフランスやイギリスやアメリカの船まで泳いで行って、ピストルや薬莢を詰めた袋を陸(おか)まで運び、それと引き替えにトルコのお金を受けとっていた。今に至るまでこの奇妙な商売を誰が取りしきっていたのか分からない。分かっているのは、ワインや煙草や砂糖菓子を買い、パンや缶詰よりマシなものを食べるため居酒屋にでかけるのに十分なお金を稼いでいたことだけだ。しかし、それほど長くは続かなかった。ある日、島に市民服姿の男の人がやってきて、コンスタンティノープルに都市同盟ロシア語ギムナジウムが設立されたから、いっしょに来なくちゃいけないと言われた。それで僕は船で島を出たのだが、一つにはその人のことが気に入ったからだったが、島の暮らしに飽きを覚え始めていたからでもあった。難民の子どもたちは僕よりずっと年下で、親に監視されていた。それまで将校たちはいつも女に囲まれて時を過ごしていたが、今では武器の密輸のために船まで行くことが難しかった。船と海岸の間をしじゅう軍の巡視艇が航行するようになっていたのだ。

コンスタンティノープルに着いても、すぐにはギムナジウムに連れて行かれたわけではなかった。まずロシア語の話されている大きなロシアレストランに立ち寄り、僕らはボルシチと何かもう一つロシア料理を供され、食後にはバクラヴァというトルコのお菓子が出た。男の人はギムナジウムの教授だと自己紹介すると、数学、歴史、物理、ロシア語についていろいろ質問してきた。僕に十分な知識があるかどうか、おおよそのところを試したのである。三年の間、ただただ逃亡し、放浪し、ギムナジウムでは教えないようなことばかり考えてきた後では僕に十分な知識がないことを、二人が了解するのに一時間もかからなかった。陸軍幼年学校の三年次を修了して四年生になってはいたが、習ったことをだいぶ忘れてしまっていたので、今の僕の知識はちょうど三年生並みだった。しかし、十六歳の少年をギムナジウムの三年生の教室に座らせるのは必ずしも適切ではなかったのだろう、秘密が守れるかと聞かれた。守れると答えると、後年チェコスロヴァキアで数学を教えてくれることになるこの教授は、校長と相談して君の誕生日を変えることにしたと、後になってから教えてくれた。幼年学校の身分証にあった一九〇三年の三を六に変えたのである。

僕は五十八年間律儀に秘密を守ったので、この間に、弟のヴァーリャよりも二歳年下であることに、すっかり慣れてしまった。多分その弟は、兄は一九二〇年にトゥアプセで死んだと信じ込んだまま、生きているのだろう。
はじめて教室に入った時、クラスメートの少なくとも三分の一が、三年生にしては少し年が行っているように見えるな、とまず思った。後になって聞いた話では、そのうちの一人はもう髯を剃っているのだという。彼が髯を剃っているのを見たことはなかったが、あり得ないことではない。内向的で憂鬱そうで、秘密を守るのがずいぶん大変そうだったが、口を噤んでいた。もっともあの頃は、誰がいつ生まれたか気にかけるような小うるさい人はいなかった。重要なのは、誰がいつロシアから逃げたかであり、異邦人という全く新しい皮をかぶってどう感じているかだっだ。

ギムナジウムでの生活は、幼年学校とは全然ちがっていたにもかかわらず、気に入っていた。幼年学校では命令に従わねばならず、服従は当たり前のことだった。命令に従うことのできない者は、後で上に立った時、いかなる部下であれ命令を下す資格がないのは当然なのだから。もはや自分が艦長にも提督にも絶対になることはなく、文民になることがはっきりした今となっては、文民として誰かに命令するなど滑稽以外の何ものでもない。この先誰かに命令しなければならぬ立場に立つことはないと悟った今、命令に従うことを学ぶ必要などないこと――いや、もちろんその必要はあるが、ある程度までで十分なのは明らかだった。養育係や先生たちが干渉してくるかも知れないが、僕が先生たちの望むこととは別のことをしたいと思ったとしても、決して不誠実なわけではないのが明らかだった。

すぐにたくさんの友だちができた。僕はまだ髯を剃り始めておらず、憂鬱でもなかったし、自分を異邦人だと感じてもいなかった。この頃、ぼくは再び詩を書いた――ロシアの船が大海原に出て行く時のことを、もう二度とロシアに戻らぬことになる船出について。次々と船が出航してゆくさまは魅惑的だった。それは冒険であって、亡命とは何の関係もなかった。しかし、それらの船がもう二度と戻ることはないであろうと悟った時、船出はもはや冒険ではなく、ひどく憂鬱なものになった。当時の僕はポーの詩「大鴉」の影響を受けていたのかも知れない。“Nevermore”「もう二度と」。すでに髯を剃っているクラスメートのように、僕は憂鬱だった。

ギムナジウムは、商業地区ガラタイスタンブールのヨーロッパ側、金角湾北岸に位置する主要商業地区のトプハーネにある古びた四階建ての建物に入っていた。そこで勉強し、ランチを食べたが、そこには女生徒のための寮と一、二年の小さい男子生徒のための寮もあった。男の上級生は、毎日、授業が終わるとトプハーネからベシクタシュヨーロッパ側でボスフォラス海峡に面する地区にある寮まで約三キロの道のりを歩いて帰った。僕らの寮もやはり古色蒼然とした木造四階建てで、今にも倒れそうになりながら海岸通りに立っていた。窓からは、岸壁に繋留されている漁船がすき間なく並んで列をなしているのが見えた。ボスポラス海峡の中央には、米英仏の軍艦が碇泊しており、さらにその向こうを見やると、対岸にはスクタリアジア側のユスキュダル地区の旧称が横たわり、そこからはもうアジアが始まっている。スクタリに僕たちが興味を持っていたのは、それがアジアにあるからではなく、スクタリこそバイロン卿がボスポラス海峡を泳いで渡った地点だったからに過ぎない。

キリスト教徒とはまったく違うというイスラム教徒についての情報は、全くその通りだった。ちょうどイスラム教の断食月のラマダーンに当っていて、まる一ヶ月の間ずっと、飲食も喫煙も妻との同衾も禁じられていたが、それは日の出から日没までだけ。日没後、僕たちはもう寮に帰っていたので、妻子と共に水上生活をしている漁師たちが、深夜まで飲み食いし、煙草を吸いながらおしゃべりに興じているのを見かけた。

寮はギムナジウムよりくつろげたが、それも分かろうというもの。寮で僕たちは好きなことができたのだから。養育係と奥さん、そして朝食と夕食を作ってくれる料理番の女性では、合わせて六つしか目がなく、三年、四年、五年、六年の男子という手に負えない群勢を監視するにはとても足りなかった。ありがたいことに、七年生と八年生はまだいなかった。

「鳩小屋」と呼ばれていた四階に僕ら三、四年生が住んでいた。三階は「馬小屋」と呼ばれていたが、そこには上級生の五、六年生が住んでいた。「馬」たちはほぼ同年齢で、比較的おとなしかった。規則違反があっても誰も気づかないよう、うまくやっていた。「鳩小屋」には悪評が立っていた。一つには、僕らもほぼ同い年ということになっていたものの、前に言ったように、書類上そうであるに過ぎなかったから。実際のところ、僕らは、「リーダー」と「世間知らず」の二つのグループに分かれていた。リーダーになっていたのは、いちばんの人気者だった二人、コルバスニコフとシロキフ。シロキフは、権威ぶって始終船について語っていたので、僕らは「船長」と呼んでいた。彼が本当に船に通暁していたのかどうか、僕には分からないが、驚くべきナイスガイだったのは確かだ。左腕には水兵の好む蛇とハートのタトゥーが彫られていたし、海軍軍歌だって歌えた。コルバスニコフの運命は、僕の運命とほとんど同じだった。両親のもとを飛び出して白軍に入隊し、コンスタンティノープルにははるか日本からの軍事輸送船で着いた。連隊を乗せた船は、どこかもっと先に向かったが、コルバスニコフは未成年だからとコンスタンティノープルで降ろされた。一方ぼくは、幼年学校といっしょにフェオドシヤから着いた。幼年学校はさらに先に向かったが、僕はチフスに罹っていたので降ろされた。彼とは親しくなり、その友情は数年後、見解の相違で袂を分かつまで続いた。

「リーダー」たちのリードを、ある程度養育係も認めていた。部屋の掃除は、生徒が自分たちで床を掃き、窓を水拭きした。部屋はきれいに片付いていたが、リーダーがいなかったらこうはいかなかっただろう。「世間知らず」たちは僕らリーダーを尊敬の眼差しで見ていたので、養育係の命令よりも、僕らの命令を進んで実行した。それこそ大喜びでやった床磨きだけが、禁じられていた。禁止されていたにもかかわらず、ときおり青天の霹靂の潔癖の発作に取り憑かれことがあったが、それはふつうシロキフか僕で、どちらかが床を磨くぞと、いや正確には甲板を磨くぞと(僕らは床のことをそう呼んでいた)宣言する。水兵式に、シロキフの言い方によれば「スケートをする」ように床は磨かれた。船上でのように恐ろしくシンプルなやり方で、まずバケツ二三杯の暖かい石けん水が床に撒かれ、それからある者はブラシで床を磨き、ある者はふたたびバケツで水を運んだ。僕らは床を甲板とでも何とでも呼ぶことはできたが、物自体は何も変わらない。「鳩小屋」は船ではなかったから、汚水の流れは、船上でのように海に流れ落ちるかわりに、二階の天井にしみ込んだり、階段を伝って「馬小屋」へと流れ下っていったりする。養育係を先頭に怒り狂った「馬」たちが駆け上がってきたが、もう潔癖の発作はおさまった後だ。「世間知らず」たちは僕らリーダーが考えついたゲームの規則に従っただけなので、ふつう罰を受けるのは僕たちだけだった。大人たちが悪ふざけと呼んでいたいろんなゲームを、僕らは言うまでもなくエネルギッシュに、しかもほとんど組織的に行っていたが、たまたま目撃者が居合わせるかも知れないことを忘れており、突然「鳩小屋」に養育係や奥さんが現れ、厳しく罰せられることがあった。罰はたいてい同じで、ファンタジーのかけらもない退屈なものだった。罰せられたのはもちろん僕らリーダーだけだが、しかしいちばん大騒ぎをし、動産、不動産に損害を与えたのは、主に「世間知らず」たちだった。放課後、トプハーネの人気のない教室にただ二、三時間閉じ込められているだけで、僕たちは死ぬほど退屈した。そんな服役を終えた後、僕たちは自由な時間を少しは取り戻そうと、まっすぐ寮に帰らず、夜まで町をぶらついた。

平日はいつも同じように過ぎていった。起床し、洗面所で顔を洗い、二階で養育係か奥さんか料理番に監視されながら朝食をとった後、二列縦隊になりって、まずは揺れる漁船の列の脇を、その後かつてのスルタンの宮殿のそばを通ってギムナジウムまで歩いて通った。ギムナジウムでは勉強した――別の言い方をすると、教授たちは僕たちに何かを説明してくれた。しかし、ほとんどの先生がやさしかったので、僕らは先生たちの話をあまり聞かず、放課後何をするか心の中で計画を練ったり、おおっぴらに相談したりした。正午に昼食、その後は昼休みだった。僕らは庭や中庭に出たり、木々や灌木や背の高い草に覆われた背の低い塔に登ったりした。それがなぜ「裏切りと愛の塔」と呼ばれていたのかは謎だ。僕たちは授業中も、次が特にやさしい先生の授業の時は、よくそこに隠れた。学校がひけると、ふたたび二列縦隊で寮に帰り、当番にあたっている生徒たちは、パンと、アメリカ製の缶詰の入った袋をはじめとして、料理番が夕食と朝食を作ってくれるのに必要なものをみな運んだ。日曜日にはとても大胆な養育係か教授が街歩きに連れ出してくれたが、もちろん小さな班に分けられ、もしも行儀良くしなかった、誰もいない教室に二時間閉じ込めるぞと、あらかじめ警告されたことは言うまでもない。そんなエクスカーションの行き先は、たいていハギア・ソフィア大聖堂かガラタの市場で、とりわけお行儀が良かった時は、目抜きのペラ通りにある大きな菓子店に連れて行ってくれた。

僕らが何をどんな風に勉強したか、もう覚えていない。あそこには、学校の時間割に組み込むことなど到底できない新しくて興味深いものが沢山あった。先生たちは、こんな混乱した時代に知性の涵養さほど重要でないことが分かっていたのだろう、野生に帰った生徒たちの魂を馴致することが自分たちの主要な任務だと、考えていたのは明らかだ。今は恐ろしく混乱した時代だから、世界で何が起こっているかを理解するために勉強しなければならないと、毎時間のように言われたことを――僕たち難民だけでなく、ソ連の国民にとっても今は混乱期だから、レーニンも「学べ、学べ、学べ」と言うのだと諭されたことを、いまでも覚えている。

僕らは学ぶことを学んでいたが、長続きしなかった。突然夏休みがやって来て、女子も年少の男子も僕たち年長者も、そろってマルマラ海沿岸の農園に出かけた。

そこで僕は同級生の女の子に恋をした。名はイリーナ。彼女に言い寄るどころか、話しかけようとさえしなかった。なぜなら男児たる者、何よりもまず国民としての責任を果たさねばならない――すなわち戦い、食べ、飲み、運動をし、女性はステンカ・ラージンのように船から放り投げるか少なくとも無視しなければならないと、僕たち「リーダー」は信じ込んでいた。そして戦場で能力を発揮してはじめて、第二の国民の義務、すなわち結婚して未来の兵士の父となるという義務を遂行できた。僕は正真正銘男であったが、無理をしていた。後になって、正真正銘の男でありつつ、イリーナに愛を告白してもよいのだと分かった時はもう手遅れだった――ほかの女の子を好きになっていたのだ。

コンスタンティノープルに帰ると、すでに秋めき、霧雨がそぼ降っていた。だがそれは序曲に過ぎず、間もなく土砂降りになった。「鳩小屋」の屋根は悲惨な状態だったので、天井からの雨漏りが僕らの頭上に降りかかり、少しでも雨漏りのない所へと絶えずベッドを移動させなければならなかった。シロキフがどこかから手に入れてきた古い傘にかくれて寝ていたので、僕たちは水を怖がるなんて本物の海の男じゃないぞと、彼をなじった。

結局、雨はそれほど長く僕らの頭上に降り注ぐことはなかった。チェコスロヴァキア政府がさらに多くのロシア難民の受け入れを決めたので、ギムナジウムは長旅の準備を始めた。チェコ人についての僕らの知識はわずかなもので、彼らがスラヴ人でスポーツ好きの民族であること、素晴らしいビールを醸造し、新たに独立国を建てたばかりということだけだった。

チェコスロヴァキア共和国へは、二編成の長大な列車に分乗して引っ越した。途中ブルガリアの駅でボルシチをご馳走になり、ユーゴスラヴィアではボルシチ以外にとても美味しいブドウを振る舞ってもらったが、オーストリアの駅には人っ子ひとりいなかった。もう夜分のことでもあり、しかも土砂降りだったせいかも知れない。そして僕らはモラフスカー・トシェボヴァーに、新たな我が家に到着した。

最初の数日間、モラフスカー・トシェボヴァーで自分がどんな気持ちで過ごしたか、今となってはもう分からないが、きっとうれしい驚きを感じていたのだろう。僕たち全員が入れる大きさの普通の建物はなかったが、小さな建物だって同じことだ。そもそも屋内に十分な場所あるなんてことは、若者たちにとってはあり得ないのだから。僕らの学校は、長く広い道の両側にならんだ二列の二階建ての建物を占有し、建物と建物の間をやはりかなりの広さのある路地が通り、広い道と直交していた。広い通りの片方の突き当たりには小さな木造の正教の会堂があり、斜面を下りきった反対側の端に門があった。門からは並木道が町のサッカー場へと通じ、さらにその先は町中へと伸びていく。会堂の裏手には塀以外何もなく、塀の向こうは斜面になっていて、斜面のいただきには僕らの収容所に水を供給する給水塔が立っていた。各棟の一階には四つの大部屋と、四つの洗面所と、四つのトイレと、四つの入口がある。各部屋にはベッドが十二台、椅子が十二脚、衣裳戸棚が十二本と、大きな緑色の暖炉があった。片方の列の建物は生徒用にあてられており、会堂に近い方の建物が男子用、遠い方が女子用だったが、教会との距離と性別は無関係だった。神さまにとって女生徒の方が、すでにかなりの数の無神論者がいた男子よりも間違いなく可愛かったはずだ。もう一方の列の建物には、食堂と台所、図書室、体育館、教室、実験室、用務員のための部屋、そして洗濯室があった。教授たちは家族と一緒に、広い道から少し離れた小さな一戸建てに住んでいたが、養育係たちは、生徒用バラックの二階に部屋があった。そこへは木の螺旋階段が通じていたのだが、すこぶる好都合なことに、恐ろしくきしんだ。階段がきしみ始めたということは、つまり養育係が見回りに来ることを意味したから、その瞬間だけ僕たちは良い子のふりをした。もちろんそれは、自分たちにとって良い子に見えるようなふりをしたわけで、たいていの養育係は僕らの正体を知っていた。

僕は相変わらずイリーナに恋をしていた。恋をする以外にも、乱読し、スポーツをし、詩を書くなど、当時は色々することが多かったので、成績はそれほど良くはなかった。数学と歴史はただもう嫌いだった。歴史が何の役に立つ?歴史とはすなわち過去だが、僕は生来の未来学者、オシップ・フレヒトハイムが未来学を提唱よりも前から未来学者だった。

歴史と数学は新学年の初めに追試験を受けなければならなかったが、なんとか合格した。その後も詩を書き、体操をし、ギターを弾いたが、イリーナに告白できないのも相変わらずだった。一つには、愛の告白というやつが僕にはどうしてもできなかったからだし、前にも触れたように、もうイェレーナ・ボームに恋していたからでもあった。しかしレーナにも告白しなかった。要するに僕にはできなかったのだ。

数学と歴史との関係が突然変わった。数学のロトゥケヴィチ教授から、新学年早々に呼びだされて話し合い、数学は学問よりも芸術に関係するところが多いと説得された。カルデア人とバビロニア人の間では、数字は聖なるものと見なされ、まず何よりもシンボルとして理解されていたのであって、リンゴや梨を数えるのに数字の使用が許されるのは、実用的な理由がある場合に限られたのだという。それから、無限のどこかで交差するに違いない平行線以上に詩的なイメージを君は知っているか、と聞かれた。それ以上に詩的なイメージを僕は知らなかった。僕の負けだ。その日から僕は数学に興味を持つようになった。

歴史の成績も上がったが、それは全くの偶然の結果――ラテン語とガリア戦争のおかげ、そして、ルビコンという小さな川を渡ろうと決めたというだけで、赫々たる英名を歴史に残したカエサルのおかげだった。カエサルは僕を魅了した。カエサルは過去の人物にほかならず、僕は俄然過去に興味を持ち始めた。

レーナ・ボームは一学年下だったが、たぶん二学年か三学年分、僕より賢かった。実際、告白できなくもなかったのだが、適当なチャンスに恵まれなかった。教室でも食堂でも「好きだ」と、ただ何となく言えなかった。休み時間や放課後に文学について、バラの芳香やナイチンゲールの鳴き声や潮騒の音や月の輝きがどれほど美しいかを共に語った。またサッカーチームは日曜日の試合で勝てるのだろうか、いったいムィスリメチェク先生は笑うことができるのかといった話もした。時折文通もしたが、それは主に、何か小児性の伝染病が流行って、強制隔離の命令が出た時だった。

春になると先生たちから優等生として見られるようになり、歴史と数学も最高点をもらって五年生に進級した。詩作もギターも続け、体育の成績はトップクラスだが、幾何は劣等生だった。

五年になると僕は自覚的無神論者となったが、同時に神の喪失は容易ならざることであって、神のいた場所にきわめて不快な空所ができることを理解した。何とかその空所を埋めるには、かつての神と同じくらい大きな存在を見つける必要がある。しかし、それはとてつもなく難しかった。これまで神はいたる所に存在したが、すでに神を信じなくなった今も、神が遍在している。イエスも遍在し、天使と悪魔も遍在している。僕がその存在を信じなくなった神は、燃える柴からモーセに話しかけたが、それは美しい場面だ旧約聖書出エジプト記3章1-15節。ヤコブは天と地を繋ぐ梯子を見たが、これも美しい旧約聖書の創世記28章10–12節。イエスは波立つゲネサレト湖の上を歩いたしヨハネの福音書6章16 - 21節、磔から三日目に死から復活した。これまた美しい場面だ。ナンセンスだが美しい。かつて“Credo quia absurdum est”不合理なるが故に我信ずと述べたテルトゥリアヌスに、僕は内心感謝していた。なのに僕は無神論者だった。天使たちは地上を歩き回ったり、天国から下り来たかと思えばまた昇っていったりするし、悪魔たちもまた地上のいたるところを徘徊し、正直者たちを、後で恥ずかしい思いをする羽目になるような事をするように誘惑している。神とイエスと天使と悪魔はどこにでも、宗教に、美術に、文学に――ダンテ、シェークスピア、ゲーテ、トルストイ、ドストエフスキーの作品に――存在する。神も天使も悪魔も人間が考え出したものだからと、ためしに僕は神のあとの空所に人間を置こうとした。だがそれは難事中の難事だった。

その頃の僕はまあまあ成績も良かったが、体系的に勉強していたわけではない。三ヶ月間教授たちの説明を上の空で聞き、宿題をサボった。学期末になると数日間徹夜で勉強して、以前のひどい成績を相殺するほど良い点をとった。学年末も同じようにしたので、どの先生も満足してくれた。ラテン語教師のラキダ以外は。恐ろしく厳密な試験のあと、ラキダはこう言った――試験は優だが、君が一年間ずっと怠けていたことを考えると、可をつけざるを得ない。だが、一年間真面目に勉強してきた生徒たちに公正であるためには、可だってあげられないから、君には不可をつけることにした。つまり君は秋に再試験を受けなくちゃいけない。僕の返事はこうだ――試験で優をとったとした以上、学習課題をちゃんと覚えたことは明らかなのに、再試験を受けろというのは公正さを欠いていると思います。するとラキダは、今の言葉を真に受けることはしない、秋には君ももう少し賢くなって、いまの言葉を撤回してくれるんだろうね、と言い放った。それに対しては、何が公正で何が公正でないかの分別がつくくらい、いつも賢明であろうと思いますと、答えた。

夏には、両親も、親類さえもなく、お金が必要な生徒が皆そうしたように裕福な農家で働いた。結構な金額を稼いだ上に、雇い主が僕のために市民服を誂えてくれた。僕はその一張羅がとても自慢だった。

秋、新しい学年が始まる前に、いつラテン語の試験を受けなければならないのかを養育係から告げられた。僕は主義として再試験を受けるつもりはないし、そのことをラキダも知っている、と答えた。主義のために落第するほど君は馬鹿じゃないと思うが、と養育係に言われたが、これがそれほど馬鹿げたことなら、試験を受けなくてもラテン語教師が良い点を付けるようにしてくれと答えた。ひどく馬鹿なことを言ったものだが、言ってしまった以上、そう言い張るほかない。

試験の当日、数学とロシア語と歴史の教授が入れ替わり迎えに来て、試験を受けずに成績をつけるなんてことはあり得ないのだから、分別を持つよう説得した。しかし僕は、何が公正で何が公正でないかくらいの分別はあるつもりだし、もう後戻りなんてできないと、わざとらしくゆっくり、横柄に言った。

その日、僕はサッカーをしに出かけたので、教員会議で留年が決まり、五年生をもう一度やることになったと知らされたのは、帰寮してからだった。ひどく不愉快なことだったが、その一方で、しばらくの間仲間たちから英雄視されたので、僕もしばらくの間自分を英雄のように感じていた――そうする以外どうしようもなかった。

いや実際のところ、留年はそんなに悪くなかった。この一年でするはずのことは全部知っていたので、スポーツと読書と詩作にあてる時間の余裕ができた。しかも今では、組こそ別だが、レーナ・ボームと同学年というのは好都合だ。とても知的でアイデアに溢れた子で、彼女とのおしゃべりは至福以外の何ものでもない。にもかかわらずレーナに告白しなかったことは、正しかった。なぜならば、新学年早々、同級生で未来の妻のネオニーラ・ジョントコフスカヤ、ネリーに恋したからだ。彼女には好きだと言った。もしその前にレーナにも告白していたなら、自分をプレイボーイだと感じたかも知れないが、追々明らかになる通り、僕は愛する女性に対していつも誠実だし、すでに述べた通り、好きだと告白した女性に対していつも誠実だった。
ネリーも僕のことが好きで、そう言ってくれたが、子どもは欲しくない、出産するとスタイルが悪くなるらしいからとも言った。僕は同意した。子どもは好きだったが、学校に通いながら子どもを持つのは途方もないことに思えた。

校内には恋するカップルが密会するチャンスがいくらもあった。教会の裏手の塀には穴が開いており、それはしじゅう塞がれるのだが、いつも元通りになっていた。この穴をくぐり抜ければ、森や野原に行ける。下の方の学校のサッカーグラウンドの近くにも、同じような穴があって、町にドイツ娘たちをナンパしに行く時は、この穴をくぐって並木道に出た。

それは大恋愛だった、少なくともあの頃のネリーと僕はそう思っていたが、子どもができないように注意もしていた。夏は森か野原でデートをしたが、冬は行き当たりばったり――たとえば無人の教室や、夕食後には鍵のかかっていない食堂だった。ネリーは大抵いつも僕より成績が良かったが、唯一の苦手が文学の宿題、いわゆる作文だ。僕はロシア語と体育と幾何学以外の全科目で可をもらっていた。ロシア語と体育はほとんどいつも最高点、ありきたりの四辺形さえ描けなかったので幾何学は最低点だった。そこで僕の代わりにネリーに製図をしてもらい、彼女に代わって僕がロシア語の作文を書いた。これは理想的な協力関係で、僕らはほとんど喧嘩をしなかったし、喧嘩の種があったとしても――ひとりずつ別に、あるいは二人いっしょに――レーナのところに行くと、仲直りさせてくれた。

神を信じていたネリーは、僕が無神論者だと知ると、神への信仰を持たずに生きることがどれほど大変か、分からせようとした。もちろん僕にもそんなことは分かっていたし、困難な人生を送る覚悟を決めた上で、そんな人生を少しは楽なものにするつもりでいた。そこでただ単純に、神のことを考えないことに決めた。以前の神を信じていた頃でさえ、神のことは考えていなかった。そんな時間はなかったし、考えなければならないことが他に幾らもあったからだ。

僕は神のことは考えなかった。僕ら二人は神を話題にしなかったが、それは正解だった。だがある時、一体なぜかも、どんな経緯(いきさつ)だったかも覚えていないが、真夜中に丸一時間墓地にいられるかとネリーに聞かれたことがあった。これは意地悪な質問だった。もちろん僕は神も亡霊も死後の生も信じていなかったが、夜中に丸一時間墓地にいるのは決して気持ちの良いことではなかった。僕は、できるかどうか分からないがやってみると、正直に答えた。

その頃仲の良かったタルノフスキーは信心深く、このような企てには向いていない。しかしキュビスムの画家で、僕と同じで無神論者だったシロツキーとも仲良くしていた。万霊節の夜中の十二時から一時まで二人で墓地にいることで、彼と話をつけた。技術面に関して至極簡単だった。養育係たちは、夜の十時に全員就寝しているかを点検するだけで、それぞれ用事を済ませに行く。しばらく経ってからもう一度、養育係たちが自室に引き上げる前に点検があった。塀の向こうに行く者は服で人形(ひとがた)を作り、程度の差こそあれ巧妙に毛布でそれを覆っていく。所詮は申し訳の決めごとではあったのだけど。

例によって「死者の日」はひどい天気だった。突風が吹き荒れ、曇り空から断続的に激しい雨が降っていた。十時過ぎに僕らはベッドを決めごと通りに整え、サッカー場のそばの塀の穴から這い出た。墓地は学校と同じくらい市街地から離れた、町外れのゴルゴダと呼ばれていた丘の上にあった。墓地の門はもちろん閉まっていたので壁を乗り越えて、時計を見た。十二時五分前。僕の無神論が試練を受けるのに、これ以上の条件は望めなかった。強風が吹きすさび、空を見上げると、月を横切って飛び去っていく切れ切れの黒雲だけが見える。満月が輝いていたので全てが見渡せたが、絶景とは言いかねた。枯れた花輪や墓石の上を舞う落ち葉が見え、きょう遺族たちが点していった灯明が明滅している。十字架にかけられた金属製の装飾がガチャガチャしたり、軋んだりする音や、不気味な風のうなり声が聞こえた。僕は一瞬墓石の端で足を滑らせ、すんでの所で転びそうになったが、シロツキーはもっと悲惨で、喪章のついた真新しい花輪が、突風に煽られ、首をめがけて飛んできた。白状すると、頭が変になりそうだった。一分ごとにネリーが貸してくれた時計に目をやった。時計は止まっているように感じられたが、動いていた。ただ針の進みはとても遅く、どうやらそれは無神論者で唯物論者で進歩主義者の僕が怯えていたためだった。シロツキーも怯えていたかどうかは知らない。そんなことは尋ねないのが礼儀だ。ただ僕と同じように、彼もしじゅう後ろを振り返っていた。まるで二人とも、ゾンビが捕まえに来るのではないかという非科学的きわまる予感に怯えているかのように。いずれにせよ僕たちは一時間後には塀を乗り越え、言葉すくなに寮へと急いだ。
超自然的なものに怯えたということが、僕にはひどいショックで、あまりに忌々しく、自分の子どもじみた恐怖心をできるだけ早く克服しようと決意を固めた。週に二度ほど真夜中に墓地に通い、クリスマスの直前にはその恐怖心から解放された。もちろんネリーは、僕が怯えたのも知っていたし、怯えぬことを学んでいったのも知っていた。そしてがっかりしていた。恐らく、死者の日に墓地で天使か亡霊か死人と出会うことによって、ハムレットが言ったように天と地の間では驚くべき事が起こると――無神論者も共産主義者も唯物論者も、かく言うニコライ・テルレツキーさえ思いもよらぬ事が起こると――僕が納得すると、彼女は思っていたのだろう。  

僕は無神論者だと公言していたが、共産主義は気に入らなかった。それが理性ではなく感情に訴えるがゆえに、むしろ宗教だったからだ。僕にとって階級的理性の方が階級的憎悪よりもまだしも容認できた。聖書には「先の者があとになる」マタイ20章16節。とあるが、それは二千年近く前のことで、僕は何か新しいものを求めていた。社会階層をひっくり返し、分かりやすい理由で非プロレタリアートを弾圧し始めるプロレタリアートに権力を与えるのは、ひどく古臭い方法だ。ひとつの民族を迫害者と被迫害者に分割することは当時の僕には正当なことには思えなかった。道徳的観点からだけでなく実際的観点からも、聖書の中の勝利した民族は、聖書以外の勝利した民族よりも政治的に成熟していた。なぜなら敗者の男は大人も子どもも皆殺しにされ、女は奴隷として売られたからだ。平和だった。何の復讐もなかった。

これを僕は養育係のN・N・ドレイェルに言ってみた。もし自分が歴史の教授だったら、迷わず不可をつけるだろうというのが、彼の答えだった。歴史は「分割して支配せよ」とうい原則に従ってきたと言われているが、そのためには憎しみが絶対に不可欠だ、というのである。

その学期は、本当に歴史で不可をつけられたが、民族を迫害者と被迫害者に分けることが正当だとは思えなかったからではなく、単に勉強する時間がなかっただけだ。

僕は恋をしており、恋に多くの時間を取られていた。しかも操行で不可を喰らってしまった。ある時、数人の同級生と一緒に僕は、校則を破って映画館に禁止されていた映画を見に出かけた。みんな変装していた。付け髭をしたり、演劇サークルから借りた小道具のカツラをかぶったりして、首尾良く潜り込んだ。しかし僕だけは、濃い口髭をつけていたにもかかわらず、学校の洗濯係の一人に気づかれてしまった。そのため操行は不可。その後すぐ、僕たちは禁止されている映画をまた見に行った。たしか《戦艦ポチョムキン》だったと思う。クラスメートの一人は労働者に変装し、別の一人は市民服を着て、頭に包帯を巻いた。この時は女の子たちが僕を女装させてくれた。今度は全員気づかれ、そろって操行で不可をもらった。

相変わらず恋していたにもかかわらず、僕はわりあい良い成績で六年生に進級した。必修の学科以外に、成績優秀とは言い難い男子生徒たちのようにモダンダンスを習い、サーカスの色んな演目の訓練を――宙返りや綱渡りができたり、手当たり次第に何でもジャグリングできたり、瓶の上での逆立ちしたりできたりするように訓練を受けた。体育には夢中だった。自分には大したものに思えた詩が書けると幸せだったが、自分の身体(からだ)を正しいリズムに乗せるだけで何の苦労もなく軽々と、鉄棒や平行棒の上でうまく複雑な技ができた時も、同じくらい幸せだった。数学のロドケヴィチ先生はかつて僕に、芸術作品から感じるのと同じ美的な経験を味わえる数学の公式があると言った。それは全く正しい。だが、後年知った所によれば、イギリスの生物学者、サー・ジュリアン・ハクスリーは、幸福は人工的な手段によってのみ得られると考えていたという。これは全くの誤りだ。人間が自然なあり様で幸せであろうと、電流によって脳が幸福な状態になったのであろうと、サー・ジュリアンにとっては同じことだったが、僕にとっては同じではない。僕にとって、電気的に幸福であることは、人間的なるもののうちの何かを失うことを意味していた。

ほぼ全員が習っていたモダンダンスと、仲の良かったタルノフスキーと僕だけが練習していたサーカスの演目は文化の周縁、いや、むしろ文化のいわば埒外にあった。なぜなら二人のほかにこの両方が出来るのは、未開人しかいないのだから。でもダンス以外は、僕もタルノフスキーもじゅうぶん文化的な生活を送っていた。二人とも詩を書いていた。二人とも文学や歴史について多少の知識を持ち、ラテン語をかなりうまく訳すことができて、数学がリンゴや梨や大地の恵みを数えるために創出された訳ではないことをすでに知っていた。にもかかわらず僕は、一九二五年六月のプーシキンの誕生日に催された〈ロシア文化の日〉の祭典への参加が許されなかった。左脚にギプスをはめて入院していたからだ。鉄棒で「大車輪」からの着地に失敗して、腱を切ったのだ。後になって、それが素晴らしい祝祭だったと聞かされた。記念碑が除幕され、スピーチが行われ、六年女子のリューシャ・リスノワがロシアの民族衣裳姿で記念碑に花輪を捧げた。そのあとコンスタンティノープルにおけるロシア語ギムナジウム創立のいわれを記し、校長と先生たちが署名した文書を収めた金属製の箱が埋められたというのだが、このことを知ったのはようやく一九七八年のことで、すでに私はチューリッヒで年金生活を送っていた。この〈ロシア文化の日〉について詳しく教えてくれたのは、かつての同級生で、アメリカでやはり年金生活を送っていたミハイル・ドルゴルコフ公爵だ。退院後に知らされた内容は、ドルゴルコフが書いてよこしたこととほぼ一致していたが、金属製の箱のことは、誰にも何も聞いていなかった。コンスタンティノープルにおけるロシア語ギムナジウム創立の経緯についての文書を入れた瓶が、記念碑の横に埋められたという話だった。金属製の箱の方が瓶よりも頑丈で実用的だということは分かるが、それでも瓶の方がより詩的に思えた。プーシキン自身だって同じ意見だろう。手紙を入れた瓶は、ふつう沈没船からの漂流者が海に投げ込むものだが、当時の僕たちはみな、正真正銘、漂流者だったから、そんな風に考えたのだろう。ロシア文化の日のあと、僕らはみんなでよく歌った。

  子らよ、これは単なる偶然ではない
  地中に瓶が埋められているのは

歌いながら僕らは、漂流者が海に投げ込んだ瓶よりも、ワインやウォッカの瓶のことを考えていたのだが。

同じ一九二五年、クルデュスキー・サーカスが巡業でモラフスカー・トシェボヴァーに来た。誰かが団長に、僕が一リットル瓶二本の上で逆立ちしながら何ができるかを一つ残らず話したのだろう。自分の目で確かるために、団長は僕をサーカスに呼んだ。自分にできることを全部見せると、サーカスで軽業師として働かないかというオファーを受けた。とても魅力的な話に思えた。しかし、学校には退屈し始めてはいたが、自分にとって良いのは中等教育を修了することの方だと、冷静に判断した。軍人にはなれそうになかった。僕は激しやすい、つまり兵士に向かない気性だったし、命令に服従するなど僕には出来ない相談だ。エンジニアや医者になることは、軍人になるよりもなお受け容れがたく思えた。汚い建設現場も、製図板の置かれた陰気な事務所も、いつも消毒液の臭いのする病院も嫌いだった。教師という職業にも魅力を覚えなかった。落第した二度目の五年生の教室で、教師たちが説明したとを思い返してみると、彼らは前の年と同じ説明をしていた。同じ学年を繰り返し、先生たちも同じ学年を繰り返していることを知ったのは、ある意味有益だった。要するに退屈。それに引き換え、サーカス団員としてトレーラーに乗って世界中を回ることには、何かがあった。しかし、ネリーがサーカス団員なんかとは結婚しないと断言したので、結論は出た。申し出を断り、軽業師についての哀しい詩を、居酒屋からテントが建っていた場所に戻ってみると、サーカス団はすでに立ち去った後という詩を書いた。トレーラーがどちらの方角に行ったか、軽業師は尋ね回ったが、人々は怪訝そうに彼を見ながら、サーカスがこの町に来たことなど一度もないと答えた。この詩、実際には取り残されたサーカス団員というアイデアは、後に「ザンベジ・サーカス」に――一九四八年の作品集『風帰る』に収められた短編小説に使った。

七年生のとき、二度と詩を書かないという詩を書いて、小説を書き始めた。とても良い長編だった。作家が駄作と分かって小説を書くなんて、僕は許せなかった。僕の小説にはアレクサンドル・デユマばりの決闘と口論があり、シェークスピア流の亡霊が登場し、恋愛はドストエフスキー風に描かれ、主人公はある日見知らぬ町に着き、なぜかそこでゴーゴリの査察官のように振る舞い始める。そんなこと許されなかった。僕は、この上なく憂鬱で真面目なものを書こうとしていたのだ。そもそも僕自身、憂鬱で真面目だったし、青春とは憂鬱で真面目なものだったから。後にその小説は、一、二年生用のバラックのストーブで燃やした。そのバラックには、養育係補佐として住み込まざるを得なくなっていた。君をどうしていいか分からないので、養育係補佐に昇任させただけのことで、あまりよろこばないようにと、N・N・ドレイェルに釘を刺された。アメリカでも同じように、放免囚から採用された警官がいちばん良い警官になっているらしい。

それには一理あった。七年生の時、僕は操行でえらく立派な点数をもらった。

今ではもうモラフスカー・トシェボヴァーのことは隅から隅まで知っていた。チェコスロヴァキアの町だが、済んでいるのはドイツ人だ。チェコ人のうち僕が知っているのは、床屋と郵便の集配人と駅長のたった三人だった。他にチェコ人はいないと言われていたが、これは流言以外の何ものでもなかった。

チェコ語は二人の教授が教えていた。一人は陽気で機知に富んでいるがとても厳しい先生で、彼の教え子たちは流暢なチェコ語を話した。もう一人のチェコ語教師は物憂げで、とても鋭敏な音感の持ち主だった。僕らはこの謹厳な先生に習ったが、まるでチェコ語が話せるようにならなかった。ただ読んで書けるようになっただけだった。当てられた生徒が何かチェコ語で話そうとするや否や、耳を塞いでうめき声を上げ、ぞっとするような訛りで話されるチェコ語が聞こえないようにするのだった。まるで歯でも抜かれるかのように顔をしかめながら。

ロシア語教師も二人いたが、一人は陽気で機知に富んでいるが、厳しいゴルチュコフ、もう一人は陰気でいささか情熱的なロプホフスキー。いつも体操服姿のロプホフスキーは、男子よりも女子が好きで、僕らをエクスカーションで城やら宮殿に連れて行ってくれた。学期末ともなると、ロシア語の成績を良くしたい生徒たちが教室に集まったものだった。そこにゴルチュコフがやって来て、上着を脱いで腕まくりをして、こう言った。「ちょっくら揉んでやるから、掛かってこい」。陽気で厳しいゴルチュコフの方が僕は好きだった。

中等普通教育修了証をもらったあと何になるのか、依然として分からずにいた。その頃、ロシア人移民はパラグアイ政府から土地と武器、馬、農具、お金を支給されるというニュースが届いた。南米の熱帯林に定住し、サトウキビ、バナナ、コーヒー、牛を育て、武器を手に自分の財産を護る――これこそ真の男の仕事ではないか。テルレツキー家はいかなる土地も相続しなかったので、カフカスへの定住を計画した時、父は土地を買わねばならなかった。土地は先祖以来の弱点らしい。僕にとって土はいつも神秘的なるもの、不可思議なことに生命あるもの、神は信じていなかったが、神から人間に付託されたものだった。大地にサクランボの種を埋めれば、大地から僕らのためにミザクラの木が生えてくる。小麦やライ麦の種籾からは小麦やライ麦が生える。秋、町外れに行って、耕されたばかりの畑に手で触れると、自分の指が根を下ろそうとしているかのような、一種独特なむずがゆさをいつも感じた。大地は単なる物質、一〇三の化学成分の混合物ではなく、未知で神秘的な力だった。アンタイオスギリシア神話の海神ポセイドンの息子は大地に立っている間は無敵だったので、ヘラクレスは彼を空中に抱き上げて絞め殺すため、地面から引き離さなければならなかった。これはもう自分ではどうしようもなく、僕は何千年も前の、今では汎神論者と呼ばれている人々と同じように土を見ていた。自分の土地を持ち、そこに果物や穀物の種を蒔き、そこから生えて来るのを待つ――そのことが僕を魅了した。

だがもちろん、僕はこの魅惑的な思いつきを頭から追い払った。屈強な南米の開拓者の妻という役回りのネリーを、僕は思い描くことができなかった。
八年生になり、僕らはすでに卒業試験の準備をしていたが、ネリーはどこかから、全ての職業のなかでいちばん素晴らしい職業が測量技師であるという情報を仕入れてきた。測量技師には世界中を飛び回り測量する機会が常にある。放浪して測量する、ただそれだけ。すばらしいアイデアだった――まだ測量し尽くされていない惑星を測量するために旅し、豪華国際ホテルで、あるいは開拓者用のテントで暮らすのだ。試験勉強と詩作と体育館での運動以外に、僕は自発的かつ楽しみながら地理の勉強を、特に惹かれる国々についての勉強を始めた。それは、南アメリカ、イラン、アフリカ、エジプト、アルジェリア、モロッコなど、僕の知るところは少なく、夢見ることの多い国々だった。

そこそこの成績で卒業試験をパスした後、僕は農園に働きに行き、ネリーはパリに移り住んでいた母親と姉に会いに行った。秋に僕と結婚したいと二人に伝えるつもりだった。僕は一生懸命真面目に働いて、必要なお金を稼ぎ、ネリーがパリから戻る予定の日の一週間ほど前に、部屋を探しに自転車でプラハに向かった。友だちの父親のヤヴォルスキー教授の家に泊めてもらい、翌日にはすぐ部屋探しに歩いて出かけた。たくさんの部屋を見て回った。幾つか良い部屋が見つかったが、高かった。他の部屋は安いかわり、あまり良くなかった。僕の望みが、ネリーと共に家庭生活と同時に学生生活がそこから始まる安くて良い部屋だったのは言うまでもない。一日中歩き回ったが、日が暮れる頃には疲れ果ててしまったので、まずまずまともな部屋が見つかったらその部屋を借りる気になっていた。しかし外はもう暗く、家主たちは見知らぬ人間を家の中に入れたがらなかった。どうしようもなく、部屋探しを翌日まで延期してヤヴォルスキー先生の家に戻るしかなかった。プラハは不案内だったが、地図を持っていた。そこで、カフェテリアで何か食べて、デイヴィツェ地区に向かうつもりでいたが、夏でもあり寒くもなかったので、結局、公園のベンチで寝ることにした。しかし、長くは眠れなかった。警官たちに起こされ、身分証明書を見せるよう求められた。僕は何の書類も持っていなかった。モラフスカー・トシェボヴァーに置き忘れてきたのだ。連行された警察署での尋問に、自分はトシェボヴァーのギムナジウムに在学していたロシア人で、部屋を借りるためにプラハに来たと答えた。しかし、あまり信じてもらえなかったようだ。僕のことはヤヴォルスキー教授に照会してもらえば分かると言っても、どこに照会するかは、こっちで決めるという答えが返ってくるだけで、木製のすでに何人かが板寝床に寝転がっている留置場に僕は放り込まれた。朝になるとライ麦の代用コーヒーとパンを一切れずつ手渡された。その後はまたみな寝転んだまま一体どこの誰で何をしでかしたのか、前科はあるのか、といったお決まりの質問を留置人たちから受けた。正直に答えても、警官と同じで信じてくれなかったが、僕に何か隠し事をしなければならない事情があると思ったのだろう、それでも気さくにしてくれた。正午には、ブリキのマグカップにひとりスープ二杯とパンが一切れずつ運ばれてくる。片方のスープは濃く、もう片方はものすごく薄くて、どちらも僕の口には合わない。同房の仲間たちは、判決が出てボリ刑務所に送られたらまともな食べ物にあるつけるよと、慰めてくれたが、僕は憂鬱だった。空腹だったのでスープを二杯とも平らげてしまうと、ネリーがプラハに来て、婚約者が刑務所にいると知ったら、果たして何と言うだろうかと考え込んでしまった。

ボリ刑務所には入らずに済んだ。すぐに自転車でプラハから立ち去ること、今度来たいと思った時は身分証だけは忘れないことという訓戒を受け、三日目に釈放された。デイヴィツェ地区にあるヤヴォルスキー家に立ち寄ると、僕のことを心配して、警察に失踪届を出していた。事のいきさつを話すと、教授、奥さん、それに息子と娘に、公園のベンチで寝るなんて馬鹿なことを思いついたものだと大笑いされた。馬鹿げた思いつきなのは自分でももう分かっていたから、そんなことを言ってもらう必要はなかった。自転車を引き取るとすぐ、荷物と身分証を取りにモラフスカー・トシェボヴァーに向かった。二日後にはネリーが帰国するはずだったので、急がなければならなかった。

部屋探しはもう出来なかったが、その必要もなかった。同級生たちが、正確に言うと同級生の女子たちが両方とも、結婚式も部屋探しも引き受けてくれたのだ。ネリーはプラハに着くとすぐ、亡命ロシア人の教授アパート亡命ロシア人の主だった教育者たちが共同出資して建設したアパートからほど近いデイヴィツェ地区の下宿屋に引っ越した。僕はさし当たり友人たちのところに泊めてもらった。

僕たちは奨学金を受け取り、結婚申請書を提出した。締めくくりに結婚式を、ネリーの強い希望により正教会で挙げる予定だった。僕はプラハ工科大学に、ネリーは英語カレッジに登録した。その数日後、工科大では図面をたくさん引かねばならないと、学友たちから教えられ、おぞけを震った。才能に恵まれたおかげで、作文はネリーより上手に書けたが、彼女に描いてもらっていたから、製図は出来ないままだった。製図板に向かって過ごす学生生活を思い描いくと恐怖を覚え、エキゾチックな外国を旅する測量技師の夢は永久に消えた。ネリーには無断で高等教育委員会に出向き、間違えたので哲学部に登録変更したいと申し出た。自分が何をしたいのかはっきり分かっていない入学予定者には慣れていたのだろう、お陰でそれまで一度もしたことがなく、したいと望んだこともないことをしなければならないという恐ろしい運命から、間一髪で逃れることができた。

最初ネリーは怒ったが、僕が図面を引けないことを僕に言われて思い出すと、怒りを和らげ、僕なら同じように世界中を飛び回り、そのついでに贅沢な食べ歩きのできるジャーナリストなれるかもしれないわね、と言った。
学年が始まるにあたって、哲学部の大きな講堂に集められた新入生に対する学長の演説は、僕らを怖じ気づかせた。最高学府で学べる者は、ほんの一握りしかいないと、学長は言いだしたのだ。次に、君たちはみな怠け者で、先天的に大学で学ぶ能力が欠けていると宣告されるのではないかと、教授の話を書き留めろと、サボらず講義に出ておとなしくしていろと言われるのではないかと、僕らは戦々恐々としていた。だがそんなことは言われなかった。学長は、一刻も早くギムナジウムで習ったことを全部忘れてしまえぬ者は、二学期にはもう落第する破目になるだろうと言った。大学では全てを新たに、新しい大人の目で見なければならず、最高の博士論文を描くのは、中等教育機関でオール優をとった者ではないというのだ。僕らは安堵のため息をついた、少なくとも僕はそうだ。なぜならどの学年であれ、オール優など取ったことがなかったのだから。しかし早とちりしたらしい。ものごとを新しく、高等教育機関にふさわしい目で見ていたにもかかわらず、僕は第六セメスター終了後に大学をやめた。