エヴゲーニイ・ザミャーチン『洪水』(1929年)

【全7章のうちの第3章までの翻訳】

ヴァシーリエフ島を世界が大海のように取り囲んで世界が横たわっていた。そこでは戦争があった、それから革命があった。しかし、トロフィーム・イヴァヌィチの働くボイラー室では相も変わらずボイラーが同じように唸り、圧力計も相変わらず九気圧を指していた。ただ石炭だけは別のを使いはじめていた。前はカーディフのだったが、今はドネツクのだ。ドネツク産は砕けやすくて、黒い炭塵がそこいらじゅうに入り込んで、いくら洗っても落ちない。家に帰っても、この黒い塵が目立たぬように全てを包み込んでいるようだ。見たところ、何も変わっていなかった。相変わらず二人きりの暮らしで、子どもはいない。ソフィヤはもう四十近くになるが、依然として小鳥のように身軽で、全身が引き締まっていた。トロフィーム以外の人に対してぎゅっと結ばれたままの唇が、夜の営みの時彼に対してだけ開かれるのも以前通りだったが、それでもどこか違っていた。何が違っているかは判然とせず、言葉として凝固していなかった。それが初めて言葉として発せられたのはもっと後、秋になってから、風が強くてネヴァ川の水位が上がっていた土曜の深夜だったことを、ソフィヤは覚えていた。

その日の昼間、ボイラーの水量計のチューブが破裂したため、トロフィーム・イヴァヌィチは修理工場の倉庫まで行って、予備を取って来なければならなかった。この工場に来たのはずいぶん久しぶりだったが、中に入ってみると、場所を間違えたかような気がした。の以前、ここでは全てが躍動し、鳴り響き、唸り、歌っていたものだった――まるで鋼鉄の森の鋼鉄の葉叢が風になぶられているかのように。それが今ではこの森は秋だった。トランスミッション・ベルトはバタバタ空回りするばかり。三、四台の機械だけが眠たげに回り、どこかのワッシャーがきいきい単調な叫び声をあげている。何のために掘られたのか分からない空虚な穴の縁に立った時のような、気分の悪さを覚えたトロフィーム・イヴァヌィチは、彼そそくさとその場を離れ、ボイラー室に引き返した。

夕方、帰宅した時も、相変わらず気分が悪かった。食事をすませ、一休みしようと横になって起きてみると、気分の悪さが一掃され、そんなことなど忘れていた。まるで何かの夢でも見ていたのか、あるいは鍵をなくしたかのようで、しかもそれがどんな夢、どんな鍵だったのか皆目思い出せない。ようやく思い出したのは、もう真夜中だった。

夜っぴて海からの風がまともに窓に吹き付けていた。ガラスが鳴り、ネヴァ川は水位が上がっていた。あたかもネヴァと地下の血管で結びつけられているかのように、血圧も上がったらしい、ソフィヤは寝つかれなかった。トロフィームは、片手で彼女の膝を探り当てると、長いこと寄り添っていた。再び何かが違っていた。訳の分からぬ穴があった。

彼は横たわっていた。吹き付ける風で窓ガラスが単調に鳴っていた。ふと記憶が蘇った―ワッシャーが、修理工場が、空転するベルトが…「それだ」 トロフィームが声に出して言った。「なぁに?」 ソフィヤが尋ねる。「子どもが出来ないってこと」 そうなんだ、それなんだ、とソフィヤも悟った。この先も子どもが産まれなかったら、トロフィームは自分の中からいなくなってしまうだろう、まるで水が流れ出て干上がってしまった樽みたいに、いつの間に水は一滴残らず、自分の中から流れ出てしまうのだろう。この樽(ルビ:ソフィヤ)はドアの向こう側、玄関の間に置かれていた。トロフィーム・イヴァヌィチは、もう長いことそのたがを外すつもりではいたのだが、ずっとその機会がなかった。

深夜、おそらく明け方近くになっていた、バタンと音を立ててドアが開き、猛烈な勢いで樽(ソフィヤ)にぶつかった。ソフィヤは外に走り出た。それが終末の到来であることが、もう後戻りできないのが、彼女には分かっていた。大声で号泣しながらスモレンスク・ポーレめざして走り出す。そこでは誰かが暗闇の中、マッチをつけようと、つぎつぎ擦っていた。ソフィヤはつまずいて転んで両手をつくと、そこはべたべたしていた。灯りがつくと、手が血だらけだ。

「どうした?でっかい声出して」とトロフィームに訊かれて、ソフィヤは目を覚ました。血は夢ではなかった。ただ、それはいつもの月のものだった。以前は、歩きにくくて脚の冷える、不快な数日間というに過ぎなかった。だが今では、毎月被告になったかのように、判決を待つのだった。予定日が近づくにつれ、こわくて眠れなくなった。今度は急になくなったり…急にできたと分かればいいのに…と願いもした。けれどそんなふうになることは全くなかった。ソフィヤの中には穴があり、空っぽだった。何度か勘づいたことがあった――夜中に恥じらいながら彼女の方から、ねぇこっち向いてよ、と小声で呼び掛けても、トロフィームは寝たふりをしていることに。そんな時もソフィヤは、暗闇の中をスモレンスク・ポーレへと走る夢をみてうなされた。次の朝、彼女の唇はいっそう固く閉じられていた。

昼間、太陽は立ち止まることなく、小鳥のように円を描いて大地の上を、荒涼とした大地の上を飛んでいた。黄昏時、スモレンスク・ポーレからは、熱く体をほてらせた馬のように、一面に湯気が立ち上っていた。四月になったある日、中庭で子どもたちが喚声を上げているのが、まるで壁がごく薄くなったかのように、はっきり聞こえるようになった。「逃がすな!捕まえろ!」 追っかけられているのが指物師の娘のガーニカだということを、ソフィヤは知っていた。自分たちの上の階に住んでいる指物師は病気で寝込んでいた。恐らくはチフスで。

ソフィヤは中庭におりていった。まっすぐ彼女めがけてガーニカが、頭をのけ反らせて走ってくるその後を、近所の四人のガキが追っかけてくる。ソフィヤを見つけたガーニカは、走りながら後ろの少年たちに何か言い放つと、一人だけソフィヤに礼儀正しく歩み寄った。ガーニカからは熱気が漂ってきた。息を切らせ、小さな黒いほくろのある上唇がひくひくしていた。この子はいくつなんだろ?十二か十三か…、とソフィヤは思った。私が結婚したのとちょうど同じ頃生まれたことになるんだから、私の娘ということだってあり得たのに。でもよその子、私のとこからさらわれた子なんだ…。
急にお腹のあたりがぎゅっと収縮し、そのしこりが上の方に、心臓の方にこみ上げてきた。ガーニカの発散する体臭が、わずかに震えている小さなほくろのある唇が嫌でたまらなくなった。「パパ、死にそうなんで女医さんが来てるの」とガーニカが言った。ソフィヤの目の前で、唇がわなわなと震え出し、深く頭を垂れた。涙をこらえているにちがいない、そんな様子を見た途端、ソフィヤは恥ずかしさと憐れみとで胸が痛くなった。ガーニカの頭を引き寄せ、抱きしめた。ひとつしゃくり上げたかと思うとソフィヤの手を振り切り、ガーニカは中庭の暗い片隅に向かって走り出した。その後を悪ガキどもがこそこそ追っかけて行った。

折れた針の先のように、何かがどこかに食い込んでいる痛みを覚えながら、ソフィヤは指物師の部屋に入った。ドアの右手にある手洗いで女医が手を洗っていた。胸が大きく、その獅子っ鼻には鼻眼鏡がのっかっていた。「それで、どんな具合ですか?」 ソフィヤが尋ねた。「あしたまでは持ちますよ」 女医は陽気に答えた。「その後は、あなたや私の仕事がまた増えるんでしょう」 「増えるって、どんな仕事が?」 「どんな仕事かですって?人がひとり減るんだから、私らが余計に産まなくちゃならないってこと。あなた子どもは何人?」 胸のボタンがはずれていた。女医ははめようとしたが、バタンが穴まで届かないのに、自分で笑った。「わたし、子どもいないんです」 ようやくソフィヤは、もぐもぐと答えた――唇を開けることがさも辛そうに。

指物師は次の日死んだ。男やもめで、身寄りが一人もいなかった。三々五々集まって来た近所の女たちが戸口に立って、囁き合っていたいたが、黒っぽいスカーフをかぶった女が「ねぇ、こんなふうに立っててもしょうがないわよ」と言うと、ピンを口にくわえてスカーフをはずし出した。ガーニカは何も言わず、前屈みになって自分のベッドに座っていた。はだしの脚は細く、哀れを誘った。膝の上に一片の黒パンは手つかずのままだった。

ソフィヤは階下の自宅におりた。お昼ご飯に何か作らなくちゃいけない。間もなくトロフィームが帰ってくるだろう。昼食の準備ができて、食卓を整え始めると、空はすでに暮れかけていて、雲行きが怪しい。寂しげな星がぽつんと一つだけ夕空を刺し貫いていた。上の階でドアをバタンと閉める音が何度もした。おそらくは万事終わって、女たちが帰って行くんだろう。でもガーニカは、相変わらずパンの欠片を膝の上にのせたままベッドに座ったままなんだろう。
トロフィームが帰ってきた。食卓のかたわらに立った彼は、肩幅が広く、脚が短かった――まるでくるぶしまで大地に根を下ろしているかのようだ。「上の職人さんが死んだの」 ソフィヤは言った。それにはトロフィームは、「へぇ、死んだの?」と気のない様子でついでのように反問しただけで、ゆっくりした手つきでパンを袋から取り出していた。人の死よりもパンの方が異常で、珍しかったのだ。彼は前屈みになって、慎重な手つきで分厚く切り始めた。その時ソフィヤは、まるで何年かぶりに見たかのように、日焼けし、やつれた顔を――塩をたくさんふりかけられたように白髪の目立つロマのような頭を、今さらながら見出した。

「もう出来っこない。子どもなんて出来っこない!」 一瞬、ソフィヤの心臓が絶望の叫び声を上げた。トロフィームがパンを一切れ手に取った次の瞬間、ソフィヤは階上の部屋にいた。目の前にはガーニカが一人ぼっちでベッドに座っていて、その膝にはパンがのったまま、窓からは針のように先の尖った春の星がのぞき込んでいる。白髪と、ガーニカと、パンと、何もない空にぽつんと輝く一つ星――この全てが、どうしてかは分からないが互いに結び合わさって、一つの全体をなし、ソフィヤは自分でも思いがけずに言った。「ねぇ、あなた、職人さんとこのガーニカを引き取りましょうよ。ほんとうの子供の代わりに……」 それ以上は、言葉が出なかった。

一瞬、トロフィームは驚いてソフィヤを見つめたが、言葉が炭塵ごしに彼の中に、内心にまで届くと、ゆっくりと、パンの包みをほどいた時の手つきのようにゆっくりと微笑みが浮かび始めた。笑みがほどけ切った時、トロフィームは、白い歯を光らせ、別人のような顔で言った。「ソフィヤはえらいな!その子、連れてこいよ。三人分のパンは十分あるさ」

その夜はもう、ガーニカを台所で寝かせた。ソフィヤが、横になって聞き耳を立てていると、ガーニャは壁際の寝床の上でもぞもぞしていたが、やがて規則正しい寝息を立て出した。「これで万事うまく行くわ」 そう思って、ソフィヤは眠りに落ちた。

中庭の悪ガキたちは今ではまったく新しい遊び、「コルチャークごっこ」をしていた。一人が白軍の総司令官の「コルチャーク」役になって隠れ、それをほかの子どもたちが探し回って捕まえ、太鼓を叩いて歌いながら、銃に見立てた棒で射殺するのだ。現実のコルチャークも銃殺されたし、いまではもう誰も馬肉を食べなくなったし、店では砂糖やオーバーシューズや小麦粉が売られていた。工場のボイラーでは相変わらずドネツク産の石炭を焚いていたが、トロフィームは今では顎髭を剃っていたので、簡単に炭塵を洗い落とせた。彼が髭をはやしていなかったのは、はるか以前の独身時代のことで、今は何となくその頃に戻ったようだった。以前と同じような笑い方をすることさえ、アコーデオンの鍵盤そっくりの白い歯を見せて笑うことさえある。

日曜日は、トロフィームもガーニカもいつもうちにいた。ガーニカはもうすぐ卒業だった。トロフィームは、彼女に新聞を音読させた。ガーニカは早口に元気よく朗読したが、知らない単語はぜんぶ自己流に歪めて読んだ――「勤労動員」を「きんどうろういん」だとか、「科学技術庁」を「かがぎっちょん」というふうに。

「何、何、何だって?」 その度に吹き出ししては、トロフィームは聞き返した。「かがぎっちょん」 平然とガーニカは繰り返す。そのあと、きのう学校に新しい先生が来て、地球の上にも「肉体」という「たい」があり、空にも「天体」という「たい」があるとかなんとか、説明し出したなんて話をする。「どういう『たい』だって?」 どうにか笑いを堪えながら、トロフィームは言う。「一体全体、どんな体なんだ⁈」 ガーニカは、何も答えず、ワンピースの下でとんがり出した乳房を指で突っついている。それ以上我慢できなくなったトロフィームの鼻と口からは、ボイラーの圧力に堪えられなくなって安全弁から吹き出す蒸気のように、笑いが吹きだした。

ソフィヤはひとり離れて座っていた。科学技術庁、天体、新聞を持ったガーニカ――その何もかもが、ソフィアにとっては訳の分からぬ、縁遠い存在だった。ガーニカは、トロフィームとしか話さないし、笑わない。ソフィヤと二人きりになると何も言わず、ストーブに薪をくべたり、食器を洗ったり、猫に話しかけたりした。時々、ソフィヤの緑の眼が、滑るようにゆっくりとソフィヤに向けられ、じっと見ていることがあって、そんな時、緑の眼がソフィアについて何か考えているのは明らかなのだが、いったい何を考えているのやら。同じように猫たちも彼女を見つめながら、何か、自分のことを考えているようで――猫たちの緑の眼と、そして人には理解できない猫の思いを考えると、急に気味悪くなってきた。ジャケットを羽織り、暖かなスカーフをかぶって、ソフィヤは出かけた――行き先なんかどこだって、店でも教会でも、マールィ通りの暗闇だって構やしない。ただもう、ガーニカと二人きりでいなくて済むなら。ソフィヤはまだ凍っていない黒いドブ川や、屋根葺き用の鉄板でできている塀を横目で見ながら歩いて行った。彼女は冬で空っぽだった。マールィ通りの教会の向かいには、窓の壊れた、彼女と同じように空っぽの建物があった。ソフィヤは知っていた。自分に似たその空き家に、もうこの先誰かが済むことなどないのが、そこから子どもたちの明るい声が聞こえてくることなど決してないだろうと。

十二月のある夕方、この家の前を通りかかったソフィヤは、いつも通り、空き家の方を見ないようにして、足早に通り過ぎようとした。その時、飛んでいる小鳥が片目の隅っこでチラッと見るように、ソフィヤは空っぽの空に灯りが点っているのに気づいた。ソフィヤは立ち止まった。まさか!後戻りして窓の破れ穴からのぞき込んだ。中では、散乱した煉瓦のかけらの真ん中で焚き火が燃え、そのまわりをルンペンの少年が四人、囲んでいた。ソフィヤの方に顔が向いていた少年の瞳は黒く、おそらくロマにちがいない、踊るように体を動かし、裸の胸では銀の十字架が揺れていた。歯が白く輝いていた。

空虚な建物が生き返っていた。そのロマの少年はどこかしらトロフィームに似ていた。ソフィヤはふと感じた――私だってまだ生きている、全てが変わることもありえないわけじゃない。
感情が高ぶったソフィヤは、向きいの教会に入った。ここには、トロフィームが工場の同僚たちと一緒に出征した一九一八年以後、一度も入ったことがなかった。お祈りをあげているのは昔と同じ、小柄な、白髪が苔のように見える坊さんだった。聖歌を歌うと教会の中があったかくなってきて、氷が溶けた。冬らしきものが消え去り、前方の闇に蝋燭がともった。

家に帰ったソフィヤは何もかもトロフィームに話したくなったが、何もかもとはいったい何なんだろう。もう自分でも分からなくなったので、教会に行った、とだけ話した。トロフィームは笑った。「どうせ古くからの教会に行ったんだろ。同じ教会通いをするんなら、《活ける教会》派のとこへ行きゃいいんだよ。奴らの神様は党員証を持っているようなもんだからな」

トロフィームはガーニカにウィンクした。片目をつぶった、髭のない顔は、あのロマの少年のようにいたずらっぽく、ほんとによく揃った歯並びは陽気で貪欲そうに見える。同席していたガーニカは血色がよく、ソフィヤの視線を避けるように目を伏せ、うさん臭そうに緑の眼で盗み見るだけだった。

その日からソフィヤは足繁く教会に通うようになったが、ある日、見慣れない活ける教会派の司祭が信者を引き連れ、聖体礼儀に現れるまでのことだった。活ける教会派の坊さんは赤毛ののっぽで、寸づまりの僧服を着た姿は、まるで兵隊が変装しているかのようだった。ちびで白髪の老司祭は、「勝手にはさせんぞ!」と叫んで、のっぽの坊さんにつかみかかり、二人は入口の階段に転がり出た。会衆の頭上には、旗ならぬ拳が打ち振られていた。ソフィヤはその場を立ち去ると、二度とその教会に行くことはなかった。彼女は、乗り物を使ってオフタまで通い始めた。オフタでは、黄色い禿げ頭のフョードルという靴屋が、新約でも旧約でもない「第三の聖書」を布教していた。

この年は春の来るのが遅く、聖霊降臨祭にもまだ木々に葉が出はじめたばかりで、ふくらんだ木の芽が眼には見えないほどわずかに震えていた。はっきりしない夕空は、なぜか明るく、つばめが飛び交っていた。靴屋のフョードルは、最後の審判の日は近い、と説教をした。黄色い禿げを大粒の汗がころげ落ち、青い眼の狂ったような輝きからは、目が離せなかった。「救いは天から来るのではない!ここからだ、ここから、ここからなのだ!」 全身を震わせながら、靴屋は自分の胸を叩き、白いシャツの胸のあたりを強く引っぱると、しわの寄ったの黄色い肌があらわになった彼は、シャツと同じように胸を引き裂こうと、胸を引っつかんだ。息ができなくなった靴屋は、絶望的な断末魔の叫び声を上げると、癲癇の発作を起こして、床に昏倒した。彼のまわりに二人の女が残っただけで、会衆は足早に散っていき、集会は途中解散になった。

靴屋の狂った眼のせいで、木の芽のように全身に緊張感をみなぎらせて、ソフィヤは自宅に戻った。鍵を持っていないのに、外からドアの錠が下りていた。あぁ、トロフィームがガーニカを連れて、どこか散歩にでも出かけたんだ。きっと十一時過ぎにならないと、帰って来ないだろう――自分から「十一時前には帰らない」と、二人に言い置いて出たんだから。階上(うえ)の部屋に行って、二人が帰るまで待たせてもらおうか。

階上(うえ)には今、ペラゲーヤが御者をしている亭主と住んでいた。開け放された窓から、赤ん坊に話しかけるペラゲーヤの声が聞こえてきた。「よしよし、いい子……そう、そう、いい子だ、いい子だ!」 今のソフィヤには、そこへ行って、ペラゲーヤや赤ん坊のようすを見ていることなど出来ない相談、そんな気力は無かった。木の階段にへたり込んだ。日はまだ高く、空は靴屋の眼のように輝いていた。そこからか、熱い黒パンの匂いが漂ってきた。ソフィヤはふと思い出した。台所の窓の掛け金が壊れてる。紐で縛りつけておくのを、きっとガーニカは忘れたにちがいない。あの子ときたら、いつも忘れてばっかり。ということは、外から窓を開けて、もぐり込めるってことだわ。

ソフィヤは裏へ回った。実際、紐で縛りつけられていなかった。簡単に窓を開けて、台所に入れた。これじゃあ誰でも幾らでも入り込めるわ、と彼女は思った。ひょっとしたら、もう誰か忍び込んでるかもしれない。隣の部屋で衣擦れの音がしたような気がした。ソフィヤは立ちすくんだ。静まり返って、壁の時計がチクタク時を刻んでいるだけだ。そこいら中で、ソフィヤの体内でも、チクタクという音が響いている。何のためか自分でも分からぬまま忍び足になり、一歩踏み出した。ドアに立てかけてあったアイロン台に服が引っかかり、アイロン台は大きな音を立てて床に倒れた。途端に部屋の中で、ペタペタはだしの足音がした。ソフィヤは小声であっと叫んで、窓の方へ後ずさりした。窓から飛び出して、助けを呼ばなきゃ……

だがソフィヤが何もできずにいるうちに、戸口にガーニカが現れた――裸足で、しわくちゃのピンクのスリップ一枚という格好で。ガーニカは棒立ちに突っ立ち、ソフィヤに向けた眼と口を丸くした。それから、ぶたれるときの猫のように身をすくめると、「トロフィーム!」と一声叫んで、背後の部屋に逃げ込んだ。

ソフィヤはアイロン台を起こして、元の場所に戻してから、椅子に座った。彼女にはもう何もなかった――手もない、足もない、残ったのは心臓だけ。その心臓は、撃たれた鳥のようにもんどり打って落ちていく、落ちていく。

ほとんど間髪を入れず、トロフィームが出てきた。服を着ている、ということはつまり、着たまましてたらしい。台所の真ん中に立った彼は、頭が大きく、肩幅が広く、膝まで地面に埋められたかのように脚が短い。「なんで今日に限って、こんなに早く帰って来たんだよ」と口走った後になって、何で俺はこんなことを言っちまったんだろう、よくもこんなことが言えたもんだ、と自分の言葉に驚いていた。でもソフィヤの耳には入らなかった。彼女の唇は、冷えたミルクの表面の薄皮のように引きつっていた。「何これ、いったい何なの?」と、トロフィームを見やりもせず、絞り出すように言った。トロフィームはしかめっ面をし、自分の内側のどこかの片隅にでも引きこもってしまうと、そのまま無言でちょっとの間立っていたが、根こそぎ脚を床から引っこ抜くと、戻っていった。部屋の中からはガーニカのコツコツ床を打つ足音が聞こえてくる。もう服を着て、ブーツも履いたんだろう。

世の中は全て今まで通りに流れていくので、生活を続けていかねばならなかった。ソフィヤは夕飯の支度をした。料理を運ぶのは、いつもの通り、ガーニカだ。パンを運んで行った時、振り向いたトロの頭がぶつかり、パンが彼の膝の上に落ちた。ガーニカは大声で笑ったので、ソフィヤは目を向けた。眼と眼がぶつかり合い、その瞬間に二人は、今までとは全く違った目でにらみ合っていた。ソフィヤは、何か丸いものがお腹の底から圧し上げてくるのを感じた。次第にそれは熱を帯び、速度を増して喉元にまでこみ上げてきて、息遣いが荒くなった。もうガーニカの亜麻色の前髪や唇のほくろを見てはいられない。今すぐ靴屋のフョードルのように叫び声を上げるか、何かをせずにはいられない。

ソフィヤは目を伏せた。ガーニカは薄笑いを浮かべた。食後、ソフィヤが皿を洗い、布巾を持ったガーニカが皿を拭いた。それは終わりの見えない仕事、おそらくこの夜でいちばん辛い仕事だった。その後、ガーニカは寝るため、台所のベンチに引っ込んだ。寝床の支度を始めたソフィヤの中では、何もかもが燃えさかっているのに、体はがたがた震えていた。トロフィームがそっぽを向いて、言った。「俺の寝床は窓際のベンチにこしらえてくれ」 

ソフィヤはその通りにした。真夜中になって彼女が寝返りを打つのをやめると、すぐトロフィームが起き上がり、台所のガーニカのもとに忍んでいくのが聞こえた。 

ソフィヤの部屋の窓敷居に、広口のガラス瓶を逆さまに伏せてあって、どこからどう入ったのか、ハエが一匹入っていた。どこにも出口がないのに、それでも一日中這い回っている。日に照らされたガラス瓶の中は、ゆっくりと上上昇していく、無慈悲な熱気がこもっており、ヴァシーリエフ島全体同じ熱気が立ちこめている。それでもソフィヤは一日中動き回って、何かしら仕事をしていた昼間はしばしば黒雲がわいて、重く垂れ込め、今にも頭上の緑のガラスにひびが入り、ついには割れて、ざーっと豪雨が降り出しそうだ。だが黒雲は音もなく散り、夜がふけるにつれてますます分厚くなってきた上空のガラスに覆われ、暑苦しい閉塞感が強まってきた。真夜中、三人それぞれに異なる息遣いは、誰にも聞こえない――一人は何も聞くまいとして枕に頭を埋め、あとの二人はボイラーのノズルのように、食いしばった歯の間からむさぼるような熱い吐息をもらしている。

朝、トロフィームは工場に出勤する。ガーニカはもう学校を卒業していたので、ソフィヤと二人、家に残る。だがソフィヤから遠く離れたところにいる。今ではソフィヤには、ガーニカやトロフィームだけでなく、周囲の全てが、遠くに見えたり、聞こえたりする。そしてそんな遠くから、ほとんど唇を動かさずにガーニカに言う――台所を掃除してちょうだい、黍(きび)をといでちょうだい、焚きつけ用に薪を割ってちょうだい。ガーニカは掃除をしたり、といだり、割ったりする。斧の音を聞きながら、あれはガーニカだ、ほかでもないあのガーニカだと、ソフィヤには分かっているのだが、遠く離れていて、姿が見えなかった。
ガーニカは薪を割る時はいつも、しゃがんで丸っこい膝と膝の間を大きく開く。一度、どうしたわけか、その両膝と、わずかにカールして額にかかっている亜麻色の前髪が、同時に眼に飛び込んだことがあった。するとこめかみがうずき出したので、ソフィヤはあわてて顔をそむけ、眼を逸らしたままガーニカに言った。 「私がするから――遊びに行っといで」 ガーニカは、楽しげに前髪を揺らしながら走り去ると、夕飯時まで、トロフィームの帰宅の直前まで帰って来なかった。

それからというもの、ガーニカは毎日、朝から外出するようになった。あるとき階上のペラゲーヤがソフィヤに言った。「お宅のガーニカだけどさぁ、悪ガキたちと空き家に入り込んでるよ。見張っていないと、あの子、今にとんでもないことになりかねないわよ」 ソフィヤは、トロフィームに話さなくちゃ、と思った……が、トロフィームが帰ってくると、ガーニカという名前をどうしても口に出して言えず、結局トロフィームには何も話さなかった。

相変わらず上空をガラスが覆っているので、重苦しい黒雲に圧迫されても、涙雨さえ降らないまま、まるまるひと夏が過ぎ去り、その後も、乾いた秋が続いていた。秋らしからぬ暖かく晴れ渡った秋の朝、海風が吹き始めた。閉めた窓ごしに、綿に包まれたような、くぐもった砲声がしたのに、ソフィヤは気づいた。その後すぐ、二発目、三発目が聞こえた。おそらく、ネヴァ川の水位が上がってるんだろう。一人ぼっちで、ガーニカもトロフィームもいなかった。

再び砲声が窓をやわらかく叩き、ガラスが風に鳴った。階上(うえ)からペラゲーヤが、息を切らせ、両手両足をバタバタさせながら走り下りて来て叫んだ。「どうかしちゃったの?ぼやっとすわってるなんて!ネヴァ川が氾濫したのよ。今に何もかも水びたしになっちゃうのよ」

ソフィヤはペラゲーヤのあとを追って、中庭に走り出た。たちまち強風が、うなり声をあげながら、がソフィヤの全身を布のように巻いた……どこかでドアがばたばた音を立てる中、女の声が叫んだ。「ひよこを、早くひよこをあつめて!」 頭上を猛然と、風に乗った大きな鳥が斜めに横切った――翼は大きく広げられていた。これこそ自分に必要だったのだと、――何もかも巻き込み、吹き払い、水浸しにしてしまうような、こんな風が必要だったというように、ソフィヤは突然、気分が軽くなった。ソフィヤは顔をまっすぐ風に向け、唇を開くと、風が口の中に飛び込んで来て、歌い出した。冷え冷えと歯にしみて気持ちがいい。

ペラゲーヤと二人で、自分たちのベッドや服、食料や椅子などを、急いで階上(うえ)に運んだ。まもなく台所は空っぽになり、隅っこに花柄の小型トランクだけが残されていた。「あれは?」とペラゲーヤが尋ねた。 「あれは……あの子の」とソフィヤは答えた。「あの子のって、誰の?ガーニカのでしょ。だったら、何で置きっぱなしにするのよ?」 ペラゲーヤはトランクを持ち上げ、突き出たお腹で支えながら運び上げた。

二時頃、階上の窓ガラスが風で割れた。枕で割れ目を塞ごうと、窓に駆け寄ったペラゲーヤは、いきなり大声で泣き始めた。「私たちもう駄目……ああ、もう駄目なんだわ!」と口走るなり、自分の赤ん坊を両手で抱き上げた。ソフィヤは窓の外を眺めた。すると、さっきまで道路だったところが、今では緑色の奔流と化し、風が水面にさざ波を立てている。誰かの机が、ゆっくりと回転しながら流されて行き、机の上には茶色の斑(ぶち)のある白猫がすわって、口を大きく開けている――おそらく鳴いているにちがいない。ガーニカという名前を考えないようにしながらも、それでもあの娘のことを考えてしまい、動悸が打ち始めた。

ペラゲーヤはストーブを焚く。ストーブから赤ん坊へ、あるいはソフィヤが立っている窓辺へと右往左往している。向かいの建物の一階の開け放たれていた通気窓が、今では水流にバタンバタンと揺すぶられているのが見えた。水位はますます上がり、丸太や板や干し草が流れて行った後、何か丸いものが見え隠れしていた。人の頭のように見える。「もしかすると、うちのアンドレイも、お宅のトロフィームも今ごろ……」

言いよどんだペラゲーヤの頬を涙がこぼれ落ち、見栄も外聞もなく、開けっぴろげに泣いている。ソフィヤは自分自身に驚いた。まるでトロフィームのことなど忘れしまったかのように、ひとつことばかり、ずっとガーニカのことばかり考えているなんて、いったい私はどうしちゃったんだろう。

中庭のどこかで人の声がするのに、ペラゲーヤとソフィヤは二人同時に気づいた。二人は台所の窓に駆け寄った。流木をかき分けながら中庭を進むボートに、どこかの二人の男と無帽のトロフィームが立っていた。トロフィームは袖なしの綿入れの上から紺のシャツを羽織っていた。横風でシャツが片方の脇腹にぴったりはり付き、反対側がふくらんでいるので、体の中央で二つに折られたみたいに見えた。同乗者の二人がトロフィームに何か尋ね、ボートはこの建物の角をまがった。流木がぶつかり合いながら、ボートのあとを追った。

腰までずぶ濡れのトロフィームが、台所に駆け込んできた。ぽたぽた水がしたたっているのに、自分では気づかないらしい。「どこだ……どこにいる?」と、ソフィヤに尋ねた。「朝出かけたっきりなの」とソフィヤが答えた。誰のことか、ペラゲーヤも察して言う。「言わんこっちゃないのよ……とうとう、水に追い詰められて、どっかで泳ぐ破目になってるんだわ」 トロフィームはそっぽを向き、壁の上をなぞるように指を動かし始める。ずっとそのまま立ち続けていた――体から水が滴っているのを、彼は感じていなかった。

夕方、水が引くと、ペラゲーヤの亭主が帰って来た。まだ固いけれどよく熟した禿げ頭を、天井から下がっているランプに光らせながら、何やかや語る――書類鞄を持ったまま自分ちの玄関まで十メートルほども泳いだ紳士のこと、走って行くうちに、あられなくも、上へ上へと次第にスカートをたくし上げたお嬢様たちのこと。「たくさん溺れたの?」 眼をそらしたままソフィヤが尋ねた。「とんでもない数だよ。何千人もだ!」 御者は顔をしかめた。トロフィームが立ち上がった。「ちょっと出かけてくる」

だが出かけるまでもなかった。ドアがあいて、戸口にガーニカが立っていた。濡れたワンピースが胸や膝にぴったりはり付いて、全身泥だらけだったが、眼は輝いていた。トロフィームの顔に、歯をむき出すだけの不道徳な笑みがゆっくりと浮かんできた。ガーニカに近づき腕をつかむと、台所に引っ張り込み、ぴったりドアを閉めた。もごもごとガーニカに何か囁いているかと思ったら、ぶつ音がし出した。ガーニカがしゃくり上げているのが聞こえる。そのあと長いこと水をはねかす音がしていていたが、額にかかる前髪をゆすりながら部屋に入ってきたガーニカは、ふだんの明るさを取り戻していた。

ペラゲーヤは仕切り壁の向こうの納戸にガーニカを寝かせ、トロフィームとソフィヤには台所の壁際に寝床をしつらえてくれた。二人きりになると、トロフィームはランプを消した。青白く光る窓の向こうで、薄い雲のスリップをまとった月が震えていた。ぼんやり白く闇に浮かぶソフィヤの姿が服を脱いで横になると、トロフィームも寝支度にかかった。

横になったソフィヤは、ただ一つの事だけを念じていた――どうかあの人が、私が震えているのに気づきませんようにと。ゆっくり寝そべったソフィヤは、ごく薄い氷の殻で全身が覆われているみたいで、秋の朝早くには、木の枝がそんなもろい氷で覆われることがあるが、風にほんの少し揺すぶられるだけで、塵のように粉々に砕けてしまう。

トロフィームは身じろぎもせず、何も聞こえなかった。だが、まだ眠ってないのが、ソフィヤには分かっていた。寝入ると彼はいつも、赤ん坊がおっぱいを吸う時のように、唇でぴちゃぴちゃ音を立てたからだ。なぜ眠れないのかも、分かっていた。ここではもうガーニカのとこに忍んで行けないからだ。ソフィヤは眼をつぶって唇を結んだ。何も考えないですむよう、全身を閉じた。

突然トロフィームは、何か決心したかのように、勢いよくソフィヤの方に向き直った。全身を駆けめぐっていた血流が急停止し、足がしびれて動かない中、彼女は待った。一分、二分、窓の外では月が毛布にくるまって震えていた。トロフィームは頭を少しもたげて窓の外を眺め、それからソフィヤの体に触らないよう用心しいしい、再びむこう向きになった。

ようやくトロフィームが、すやすやと寝息を立て、赤ん坊のようにぴちゃぴちゃ音をさせ始めると、ソフィヤは眼を開けた。それから、そっとトロフィームの顔をのぞき込んだ。あんまり顔を近づけたので、眉から目まで真っ直ぐたれ下がっている一本の長い黒い毛が目についた。唇がひくひく動いていた。その寝顔を見守るうちに、ソフィヤは今までのことを何もかも忘れてしまい、ただただトロフィームを哀れに思った。片手を伸ばしかけて、すぐ引っ込めた。赤ん坊のようにトロフィームを撫でてやりたかったが、できなかった。とてもじゃないが、そんな勇気はなかった。

毎晩、下の部屋が乾くまでの三週間ずっとこんなふうだった。毎朝、トロフィームは出勤前に階下(した)/一階の部屋におりていって三十分ほどの間、あちこち修理した。ある日、彼は上機嫌で下から戻ってきて、ペラゲーヤと軽口をたたき合っていたが、彼の眼がかがんで部屋を掃いているガーニカを追っているのを、ソフィヤは見逃さなかった。出がけにトロフィームは言った。「じゃあ今日は下へ引っ越してくれ。もう大丈夫だ」 それからガーニカに向かって言った。「ストーブをがんがん焚くんだ。夕方寒くないよう薪をケチるんじゃないぞ」

夕方じゃなく夜のためだと、ソフィヤは分かっていたが、眼を伏せたまま何も言わなかった。ただ唇が、すっかり冷めかけたミルクの泡の薄皮のように、かすかに引きつっただけだった。