エヴゲーニイ・ザミャーチン「ママイ」(1920年)

 毎夕毎夜、ペテルブルグにはもうアパートがなくなる――あるのは六階建ての石造りの船だ。その船は六階建ての孤絶した世界となって石の波を切り、やはり孤絶した他の世界のあわいを縫って疾駆して行く。荒れ狂う石の街路の大海原に向けて、数限りない船室の灯りが光りを放つ。もちろん、船室にいるのは住人ではない。そこにいるのは乗客だ。船に乗り合わせた者同士のように、互いに知っているような知らないような間柄だ――夜の大海に囲まれた六階建ての共和国の市民たちは。

 毎夜毎夜、石造船40号の乗客は、地図の上に「ラフチンスカヤ通り」という名で表示されているペテルブルグの大海の部分を疾駆していた。かつてはオシップと呼び捨てにされていたが、今ではれっきとしたマロフェエフ氏になった玄関番は、主階段のそばに立って眼鏡ごしに虚空を、闇の奧を眺めていた。時折、波が一人、また一人と住人を打ち寄せてくる。雪にまみれ、びしょ濡れになった人々を闇の中から引き揚げると、一人一人に対して払うべき敬意のレベルを鼻の上の眼鏡の位置でもって調整した。敬意の源泉と眼鏡とは、複雑なメカニズムによって連動していたのである。

 ほら今は厳格な教育者のように鼻眼鏡になっている、ということは、相手はピョートル・ペトロヴィチ・ママイだ。

「ピョートル・ペトロヴィチさん、夕飯だと奥様がお待ちかねですよ。心配そうに、何度もここまで見にいらしてました。どうしてこんなに遅いお帰りに?」

 次は、眼鏡がぴったりと、まるで防御するかのように鼻梁に押しつけられた。25号室のデカ鼻が車で帰ってきたのだ。デカ鼻の相手をするのはひどく厄介で、「さん」付けはダメだし、「同志」と呼ぶのも気まずかろう。

「同志ムィリニクさん!とんだ天気ですね、同志ムィリニクさん…」

 最後に眼鏡が額にまでズリ上げられた。エリセイ・エリセイチが船内に入ってきた。

「やれやれ、ご無事のお戻りで?毛皮の外套をお召しですね。どうぞ気になさらず、お脱ぎになりますか?どうか雪を払わせて…」

 エリセイ・エリセイチは船長、アパートの代表――ミリオンナヤ通に立ち並び、首をうなだれ、苦しげに顔をしかめながら七十年にわたってエルミタージュのコーニスを背負ってきた陰気なアトラスの一人だった。

 明らかにきょうは、コーニスがいつもにもまして重たいらしい。エリセイ・エリセイチは息を切らしている。

「全室まわって…大急ぎで…全体会議…集会室だ」
「そりゃ大変!エリセイ・エリセイ・エリセイチさん、何か厄介事でも?」

 だが返事は無用、悩ましげに皺の寄せられた額と重圧に押しひしがれた両の肩を見るだけで十分だ。マロフェエフ氏も、眼鏡を巧みに操作しながら部屋を走って回り始める。彼の警告のノックは、大天使ガブリエルのラッパのようだった。抱擁は凍り付き、諍いは氷結した砲煙と化して中断され、スープをすくったスプーンは口に運ばれる途中で止まっていた。

 スープを飲んでいたのはピョートル・ペトロヴィチ・ママイだ。いやもっと正確に言えば、妻によってこの上なく厳格なやり方で食べさせられていたのは。慈悲深い観音様のようで、肘掛け椅子におごそかに鎮座した、いかにも母乳の出の良さそうな大きなおっぱいをした彼女は、手ずから創造したスープを地上の人間に食べさせていた。

「さぁ、早くなさい、ペーチェンカ!スープが冷めちゃうわ。何度言えば分かるの!本を読みながら夕飯を食べるのは嫌だって…」

「うん、アーレニカ、もうすぐ、もうすぐだから…。でも第六版だよ!ボグダノヴィッチの『ドゥーシェンカ』の六版なんだから、分かるでしょ?きのうザゴロドヌィー大通りで見つけたんだ。一八一二年にナポレオン戦争で灰燼に帰したと、みんなそう思い込んでいたんだけど、三冊だけ焼け残って…そして、いいかい、これが四冊目なんだよ。ザゴロドヌィーできのうぼくが見つけた…」

 一九一七年のママイの戦利品は本だった。髪の毛の突っ立った十歳の子供だった彼は、宗教課程に在籍し、鳥の羽根を集めてよろこび、食事の世話を母親にしてもらっていた。頭の禿げた四十歳の子供になった今は、保険会社に勤務し、本を買い集めてよろこび、食事の面倒を妻に見てもらっていた。スプーン一杯のスープは観音菩薩への捧げ物であるのに、地上の人間は結婚指輪に込められた約束事を失念し、一文字一文字をやさしく撫で、指に感じていた。まさしく初版とは正反対だ…検閲委員会の勧告のためだ…」。大根足が三本並んだmの字の何と素敵なことか、何て可愛いらしいことか…

「まぁペーチェンカったら、どういうことなの?いくら大声を張り上げても、本を離しゃしない。耳が聞こえなくなったの?ノックの音がしているわよ」――ピョートル・ペトロヴィチは全速力で玄関に向かう。戸口には鼻眼鏡。

「エリセイ・エリセイチのご指示です。集会です、急いで下さい」

「え~、みんな読書している時間ですよ。いったい何ごとですか?」――はげ頭の子供は泣き言をいった。

「分かりません。とにかく急いで下さい…」――船室のドアがバタンと閉まり、眼鏡が先へと走りっていく…

 どうやら船にまずいことが起こったらしい。進路を見失ったのか、どこか船底に目に見えない穴が開いていて、不気味な街路の大海が流れ込んでくる恐れがあるのか。階上でも、左舷の方も右舷の方でも、船室のドアを小刻みに叩く不気味なノックの音がする。薄暗い踊り場の方から押し殺した囁き声の会話が聞こえてくる。急いで駆け下りる靴底が階段を叩いている。階下へ、共用船室へ、集会室へと急ぐ靴音。

 集会室に入ると、漆喰塗りの穹窿のもと何もかもが紫煙の雷雲に包まれている。スチームでむっとする静寂のなか、かろうじて聞こえる誰かの囁き。エリセイ・エリセイチがベルを鳴らし、前屈みになって眉間に皺を寄せると、静けさの中で両肩が砕ける音がした――目に見えないエルミタージュのコーニスを持ち上げ、住民たちの頭の上に投げ落としたのだ。

「みなさん、信頼できる情報筋によれば、きょう深夜に家宅捜索があるとのことです」

 どよめき声がし、椅子の倒れる音が轟く。撃ち抜かれた頭、指輪をはめた指、いぼ、リボン、頬髭。首をうなだれたアトラスに紫煙の雨雲から豪雨が降り注ぐ。

「待って下さい!私たちのすべきことは…」
「何だって、紙幣の捜索ってのか?」
「エリセイ・エリセイチ、私が提案したいのは、門を…」
「帳簿を見ましょう、帳簿を見るのがいちばん確かだ」

 エリセイ・エリセイチは、首をうなだれたまま石像のように豪雨を耐え忍んでいる。そして、頭をめぐらすことなく(たぶん彼の首は回らなかったのだろう)オシップに向かって言った。

「オシップ、今夜、中庭の番に当たっているのは誰だ?」

 静寂の中、オシップの指が壁の当番表をゆっくり辿っていく。その指が動かしていくのは文字ではなく、ママイの重い本棚だ。

「今夜はMの番。ママイとマラフェエフです」

「じゃあ、ピストルを携帯していって下さい。ニセ者だった場合に備えて」

 石造船40号は、嵐をついてラフチンスカヤ通りを疾走していた。船は揺れ、風は唸り、明かりのついた船室の窓を雪が打つ。どこかに目に見えない穴があるらしく、果たして夜を切り抜け、朝の波止場にまで辿りつけるのか、あるいは海底へと沈んで行くのか分かったものではない。見る見る人影の消えていく集会室では、一部の乗客たちが石像のように身じろぎもしない船長につきまとっていた。

「エリセイ・エリセイチ、紙幣をポケットに入れておいたらどうでしょう?だって、そこまで見ないでしょうから…」
「エリセイ・エリセイチ、トイペみたい便所に吊しておいたらどうでしょう?」

 乗客たちは、船室に急いで戻ると異常な行動に及んだ。床に寝転がって戸棚の下を手探りしたり、畏れ多くも文豪トルストイの石膏像の頭の内側を覗き込んだり、あるいは五十年もの間、壁から穏やかに微笑んできていたお祖母さんを額縁から外したりしたのだ。

 地上の人間ママイは観音様と向かい合って、些細なことから何もかも見通してしまう眼と眼を合わせないようにしていた。両腕が、自分の手であって自分の手ではないようで、無益にぶら下がっているだけ――寸足らずのペンギンの羽根のように。この両腕がママイの足手まといになってもう四十年だ。もし今、腕が邪魔しなければ、言わなければならないことを言うことはしごく簡単だろうに――でも、そんなことを言うのは恐ろしすぎて、考えられない…

「何をビクビクしてるのか、分からないわ。鼻まで真っ青になって!うちに何があるというの?うちにはお札が何千ルーブルもありゃしないんだから」

 もしも千三百年代のママイの手がやはり他人の手のようだったら、そして今と同じような秘密をかかえ、同じような妻がいたとしたら、一九一七年のママイと同じように振る舞ったかどうかは、神のみぞ知る。威圧的な静寂の中、どこか部屋の片隅でネズミの引っ掻く音がした。一九一七年のママイは慌ててそちらに目を向け、ネズミの穴を見つけると身震いした。

「ぼく持ってるんだ…つまりうちには…四千二百ルーブル…」
「何ですって?持ってるって…どうやって手に入れたのよ?」
「ずっと、少しずつ…その度ごとに君に預かってもらうのは申し訳ないから…」
「何ですって?盗んだってこと?私をだまし続けたってこと?何て不幸な私。ずっと私の愛しいペーチェンカだと思ってきたのに…何て不幸せなの!」
「本のためだよ…」
「分かってるわよ、スカートをはいた本なんでしょ!お黙んなさい!」

 母親が十歳のママイを叩いたのは生涯に一度だけ、沸かし始めたばかりのサモワールの蛇口を開けて中の水を流してしまったため、熱でハンダ付けが剥がれた蛇口がむなしくぶら下がっているのを見つけた時だった。いま彼は人生二度目に追体験していた――頭が母親の脇にはさまれ、ズボンを下げられて…

そこでママイは子供特有のずる賢い嗅覚でもって卒然と気づいた――悲しげにぶら下がっている蛇口ならぬ四千二百ルーブルのことをどうやったら忘れさせることができるかに。哀れっぽい声で言った。

「今日は朝の4時まで中庭の番をしなくちゃいけないんだ。ピストルを持って。エリセイ・エリセイチが言うには、ニセ者が来るかも知れないから…」

 瞬時にして、憤怒の不動明王がおっぱいの大きな慈悲深い母に豹変する。

「何てことなの!あの人たちどうかしてるわ。気でもちがったのかしら?みんなエリセイ・エリセイチのせいだわ。私といっしょにいるべきよ。絶対にだめ」

「そうはいかないよ。ポケットに入れてるだけさ。僕が撃てると思う?僕は蠅だって…」

 実際、コップに蠅が入ったとしても、注意深くつまみ上げて息を吹きかけ、「飛んでけ」と離してやるのが常だった。いいや、そんなに恐くはないさ。それに四千二百のこともあるし…

 するとお不動様が再登場する。

「いったいどんなお仕置きをすればいいのかしら。盗んだお金はいまどこに隠してあるのよ。いいえ、言い訳はけっこう、盗んだんでしょ…」

 本のあいだ。玄関のオーバーシュースやサモワールの煙突。ママイの帽子の綿入り裏地、寝室の壁にかかっている青い騎士の織り込まれた絨毯。雪でまだ濡れている半開きの傘、何気なく机の上に放り出されている、架空の友人ゴリデバエフの住所が読みやすい字で書かれている封筒…だめだ、どこも危ない…。ついに夜半頃になって、隅々まで微に入り細を穿った心理的計算に基づく作戦やり方をすることに決めた。彼らはあらゆる場所を捜索するだろう、ただし敷居以外の。敷居の近くの寄木張りの床板が一枚がたついている。書籍用のペーパーナイフでその床板を巧みに持ち上げた。盗んだ四千は(「いいや、おだまんなさい!」)ビスケットを包んであった蝋引き紙にくるんで(敷居の下はじめじめしているだろうから)床板の下に埋められた。

 石造船第40棟は、一面張りつめた空気に包まれ、人々は忍び足で歩き、声をひそめていた。窓窓は熱に浮かされたように暗黒の街路の大海に向けて光を放ち、五階、二階、そして三階でもカーテンが開け放たれた、光り輝く窓に黒い影が――だめだ、真っ暗で何も見えない。でも、あそこに、中庭にはふたり番をしていて、もし何か始まれば知らせてくれるはずだし…

 二時過ぎだ。中庭には静寂が充ちていた。光に集まる羽虫のように、門の上の街灯の周囲を雪の花びらが、際限なく数限りなく散り落ちては、群れをなして舞い上がり、また落ちては灯に焼かれて散っていく。

 下では鼻眼鏡のマラフェエフ氏が高説を垂れていた。

「私は穏やかな自然人ですから、こんな悪意の中では生きづらくって。故郷のオスタシュコフに引っ込もうかと思ってるんです。上京して来たものの、実際まったくあり得ないような国際情勢ですから。みんなまるで飢えた狼のように敵対し合ってる。とてもじゃないけど、やってけません。穏やかな人間なんですから、私は」

 その穏やかな人間の手にはピストルが握られており、薬莢に詰め込まれた死が六つ装填されている。

「オシップ、あんたは日露戦争には従軍したの?人を殺したの?」
「戦争ですからね!ご存知の通りですよ」
「銃剣でやるのは一体全体どんな感じなの?」
「あぁ、どんなも何も、西瓜を突き刺すような感じで、最初は堅くて刃が入っていかんのです、西瓜の皮のようにね。でもその後はどうってこともなく、すいすい刃が入ってくんです」

 西瓜と聞いて、ママイは背筋がぞっとした。

「私だったら、もしも私だったら、今でも絶対に無理だな」
「そんな言い方はやめて下さいよ。他にどうしようもなくなったら、あなただってやりますって…」

 静まりかえっている。雪が街灯の周囲を舞っている。突然遠くで銃声が強い鞭の音のような響いたが、再び静寂と雪。やれやれ四時だ。きょうはもう来ないのだろう。交替の時間だから、船室に戻って一眠りしよう…

 ママイの寝室の壁では、青いチェックの騎士が青い剣を振り上げたまま凍り付いたようになっていた。騎士の目の前では犠牲(いけにえ)の儀式が執り行われている。

 リネンの雲の上で、おっぱいが大きくて、無限の包容力をもった菩薩のようなママイ夫人が安らっていた。その姿は語っていた――きょう天地創造を終え、全て良しと、例の四千二百にもかかわらず、このちっぽけな人間さえ含めても全て良しと、彼女が自負していることを。ちっぽけな人間は、すっかり凍えて鼻を赤くし、自分のものとは思えぬペンギンの羽根のような寸足らずの腕をぶら下げ、ベッドの傍らに命運尽きたかのごとく立ち尽くしていた。

「さあ、おいでなさいな…」

 青い騎士が目を細めた。すさまじい場面になるのは明らかだ――ほら今、小男は十字を切ると、頭から水中に飛び込むように両手を前に伸ばしてドボーン!

 時化をおかした航海は無事進み、石造船40号は朝の波止場に接岸した。乗客たちは書類鞄や買物籠をあわただしく引っ張り出すと、オシップの眼鏡の脇を抜け、岸に急いだ。着岸しているといってもそれは日が暮れるまでのこと、夜にはまた大海原に出るのだから。

 うなだれたエリセイ・エリセイチが、背負ってきた目に見えないエルミタージュのコーニスをオシップに投げつけた。

「恐らくきょうの夜中に家宅捜索だ。みんなに知らせておいてくれ」

 それでも真夜中までということは、まだまる一日生きていかれる。見知らぬ奇妙な街を――一年近く前にそこから出港し、恐らくもう帰ることはないであろうペテルブルグに、どこか似ているようで似てもつかないペトログラードを――船客たちは途方に暮れながらさまよっていた。夜の間に凍結して石のようになった奇態な雪の波。雪の山と穴。見知らぬ部族出身の兵士たちは、奇妙な襤褸(ぼろ)をまとい、負い紐をつけた武器を肩に担いでいた。夜中にお客にやって来て朝まで居座るというのは異国の風習だ。深夜の街路にウォルター・スコットのロブ・ロイたちが跋扈する。ほらここ、ザゴロドヌィー大通りの雪には血のしずくが焼印されている。ちがう、これはペテルブルグではない!

 見覚えのないザゴロドヌィーを途方に暮れてさまよい歩いているはママイだった。ペンギンの羽根が歩くのに邪魔だ。ハンダ付けがとれた蛇口のように、首をうなだれていた。すり減った左の踵に雪のヒステリー球がくっついている。一歩踏み出す度に痛む。

 急に頭をもたげ、その足取りは二十五の若者のように軽くなって、頬に赤みがさした。ウィンドウの向こうからママイに微笑みかけているのは…

「こらぁ、ぼけぇ!どかんかい!」 大きな餌袋をぶら下げた赤毛の馬が正面から暴走してくる。

 ママイはウィンドウから眼を離さぬまま飛び退いた。馬車が通り過ぎるや否や、再びウィンドウに眼をやった。そこからは彼に微笑みかけていた――

「そうなんだよ、これのためなら誰だって金をくすねたり、欺したり…何だってするってもんさ」

 ウィンドウから、誘うような官能的な微笑みを送って来るのは、エカテリーナ時代の書籍『サンクト・ピチェルブルフ名所記』だった。ずる賢い女のように媚態を示しながら衣裳の中を――弾力を感じさせてたわむ、青みがかったマーブル紙の左右のページの間の、暖かな窪みを覗かせていた。

 ママイは二十五歳の若者のように恋に落ちた。毎日、ザゴロドヌィーのウィンドウの下まで通い、声に出さず、両の眼でセレナーデを歌った。夜ごと寝つかれなかったが、それは床下でネズミが活動しているせいだと、自分を誤魔化した。朝になると出かけた――毎朝、毎朝、例の敷居の寄木張りの床板に甘美なピンをさし込んだ。ママイの幸せがその床板の下に、かくも近くに、かくも遠くに埋められている。何ための四千二百ルーブルかがはっきりした今となっては、一体どうすべきか?四日目、ママイは震えおののく雀のように動悸を打つ心臓を握りしめて、ザゴロドヌィーのドアを入った。カウンターの向こうには白い髭をはやし、ぼさぼさの眉をしたチェルノモルが座っている――こいつが彼女を幽閉しているのだ。ママイの中で軍人だった先祖が甦った。勇猛果敢にチェルノモルに向かって突進した。

「これはこれは、ママイさん。とんとお見限りで…あれこれお取り置きした本がありますよ」

 雀のような心臓をさらに強く握りしめると、ママイはページを繰ったり、さもいとおしそうに本を撫で回す振りを装いながら、背中に全神経を集中していた。背後のショーウィンドーで彼女が微笑んでいる。黄ばんだ一八三五年の雑誌『望遠鏡』を選び出すと、長々と値段の交渉をしたあと、とてもじゃないがと言わんばかりに手を振って諦めた。そして獲物を遠巻きにするキツネのように棚から棚へと本を探し回った挙げ句、ウィンドウにたどり着く――ことのついでと言わんばかりに。

「これはいくら?」
「イタミがひどくてね」 雀が小躍りする。「引き取って下さいよ」 チェルノモルが髭を撫でた。
「初売りだから、百五十におまけします」
「う~ん、じゃいいか(やったぁ!祝いの鐘だ、祝砲だ!)そんなもんかな。あした金を持ってきて引き取るよ」

 今やもっとも恐ろしいことをしなければならない――敷居の近くの床板。深夜、ママイはやきもき、居ても立ってもいられなかった。しなくちゃいけない、しちゃいけない。できる、あり得ない。できる、できない、しなくちゃいけない…

 全てお見通しで、慈悲深く、おっぱいの大きい菩薩は――結婚指輪をはめた菩薩は、お茶を飲んでいた。

「さあ、飲んで、ペーチェンカ。どうしたの?何か変ねぇ…また寝られなかったの?」
「うん、ネ、ネズミがね…いや、どうしてなのか分らないんだけど」
「ハンカチをひねくり回すのはおやめなさい!一体全体どういうことなの?」
「ぼ、ぼくもうひねくり回したりしないよ」

 この時やっとカップのお茶を飲み終えようとしていた――それはカップではなく、底なしの樽、五十リットルの樽だ。菩薩は料理女から供物を受け取っていた。キャビンにはママイひとりだった。ママイは、十二時を打つ前の時計のようにカチカチ音を立てていた。息を呑んで聞き耳をすまし、忍び足になって書き物机まで行く。そこにペーパーナイフがあった。熱に浮かされたママイは、敷居ところで小人のように身をかがめた。禿げに冷や汗をにじませ、床板の下にペーパーナイフをさし込んでこじ開け…そして絶望の悲鳴を上げた。悲鳴を聞きいたガタピシ音を立てて台所から出てきた菩薩が彼女の足下にまず見いだしたのは、カボチャのような色の禿げ、その下にはペーパーナイフを手に腰をかがめた小人、さらにその下にはごく細かい紙くず。

「四千ルーブルをネズミどもが…あそこに、ほらあそこだ、奴はあそこだ!」

 千三百年代のママイのように残酷で無慈悲な一九一七年のママイは、四つん這いの姿勢からとび起きると、剣を片手に扉の近くの隅に向かう。床板の下から飛び出たネズミが部屋の片隅に身をひそめている。血に飢えたママイは、剣で敵を突き刺す。西瓜のようだ。一瞬は刃が入っていかない。皮だ。しかし、そのあとは柔らかい肉、そして刃が止まる――床板に当って。これでお終い。