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(画像はNASAから拝借。美しい)

外の風が強い。野良猫が暴風に煽られて飛んでいかないかいつも心配になる。(私の今住んでいる土地には野良猫がいないらしい。2年以上住んでいるけど1回も見たことがない)

ここずっと絵を描くのが辿々しい。「なぜ描くのか」という名称の大いなる壁が年々高く、厚くなっている気がする。

純度。それは外に開かれていない超個人的で自分しか愛さないようなもの。昔はそれが当たり前で描いていたし、逆に人に見せるのが怖かった。人に見せて微々たる顔の歪みや空気にマイナスの要素があった場合、全否定された錯覚に陥って泣き出してしまいそうだったから。あるいは、その人を す、くらいの想像はしただろうから。

それが今はネットに載せるのに抵抗がなく、何なら数は気にせずとも気に入っていただけたら嬉しいなと思っている。勿論本心であるし、その延長線上で他の分野と繋がれたら良いなーと、烏滸がましい欲望もうっすらとある。(残念ながら私の絵は愛想が全くないので叶わない…)でも私は自分のためにしか描けないので、他者が介入するとその世界に興味を失ってしまい、かろうじてある純度さえ消える。

そうなると技術や色彩に長けていない絵は瞬く間に「つまらない絵」としか見れなくなり、描くのをやめてしまう。それが今の状況。

クートラスやダーガーの絵は決して好みの絵柄ではないのだけど紛れもなく純度が高い作品だろう。子どもの描く絵とか壁画もそう感じる。しかし純度が高ければ良いって話でもない。それが消失する代わりに「美術」を習得して人々を感動させ、何百年と残ってきた絵画もあるし、そんな絵も好きだ。観るたびに「ああ、もう絵の頂点の時代は既に終わっているんだな」と悄気て、更に描く気が失せるのであまり観ないようにはしている。


結局絵を描く動機にあれこれ話しても描けるわけがなくて、自分が自分の絵で楽しむ気持ちが必要。そのために外部を閉ざして技術を得る、それだけが大いなる壁を越える唯一のエネルギーなんだと思う。なので今年も公募展には出しません。もう気にするもやめないと…

近所の桜。桜は撮り方が難しい


今は釣りとかソロキャンプに興味がある。