諦めるとはあきらかに極めるということ
サッカーをしていた人なら誰もが知っているといっても過言ではない選手、ゴン中山選手。
静岡県磐田市出身の自分にとっては、まさにヒーローみたいな人だった。
小学校の頃、たまたま入った花屋に中山選手がいて、とても興奮したことを今でも覚えている。
最近選手としての活動をひとまず終えて、ジュビロ磐田のコーチに就任されたが(それでも僕の記憶ではいつまでも選手)、ところどころで特集されている際に話されていた言葉がある。
諦めるとは、あきらかに極めるということー。
この言葉はどういう意味なのだろうと、気になってルーツを調べた。
実はこの言葉、仏教由来です。
漢字で「諦観」と書き、諦はインドの原語「サットヤ」で真理、明理ということです。
観はミルということですから、諦観というのは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。
本来「諦める」とは、【なぜそんな結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい】ということです。
先ほどの例でいうなら、【オリンピックの人選に漏れた】のは結果ですから、それには必ず原因があったのです。その原因を正しく分析し、その原因克服に努めれば結果は変わります。
どうしてあと一歩で選ばれなかったのか、その原因をごまかさずに、やつあたりせずに、しっかり目を向けていくことが、本来の「あきらめる」ということです。
仏教では「諦」と「明」の合体した「あきらめ」こそ、いつでも、どんなことが起こっても、心が苦しまず、おだやかでいられる境地(悟り)に至るために大切だとします。
諦めるために真理を見ようともがき続ける。もうやれないという境地まで追い込む。そのときに新しい世界が見えるのかもしれない。それが諦めるということ。
諦めなければいけないシーンはきっとある。これまでもスポーツや勉強でもそういうシーンはあった。このときに原因をあきらかに見ることが出来たか、言葉通り諦めることが出来たのか。出来ていないかもしれない。
「諦めが悪い」と「諦められていない=あきらかに極められていない」は一緒にしちゃだめだなと思った。
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