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「教える」ことへのためらい ー〈支援〉と〈指導〉の間で

 大きな音に一瞬驚き、声の主を確かめて事態を察する。この教室ではよくある「噴火」、もとい上司から生徒への説教である。
「大概の卒業生は、私のことを『今まで出会った大人のなかで一番怖い』と言うんですよ」
 「鬼の副長」が、面談相手の保護者に笑いながらそう話している。とはいえ彼は、単にキレ散らかしているわけではない。むしろ、心が落ち着かない日は説教を封印するのだという。しかも「噴火」に至る要因は、宿題や教材の忘れ、度を過ぎた悪態、度重なる遅刻など、専ら教科学力以外の要素である。入試で重要な内申点に限らず、少なくともこの国では、様々な場面で「態度」がものを言う。だから彼はあえて嫌われ者に徹しているらしい。
 そうした〈指導〉らしき場面に出会す度に、〈支援〉の側に立つ者として、後ろめたさとためらいが生じる。〈支援〉の立場にいることで、〈指導〉の困難から逃げているのではないかと(注)。

(注)2000年代前半頃から、教育学において、従来における教育者から学習者への一方的な〈指導〉への反省に立ち、〈支援〉の概念が論じられるようになった。実践者により定義は分かれるが、ここでは仮に教育者と学習者(教師と生徒、選手と監督など)の力の不均衡に配慮しない一方的な働きかけを〈指導〉、力の優位性を自覚し学習者をエンパワーする働きかけを〈支援〉とする(安部芳絵『こども支援学研究の視座』学文社、2010年、p.25-26に依拠)。

 以前、たまたま夕食時に目に入ったテレビ番組で、宝塚音楽学校受験専門の教室に密着取材をしていた。指導者と受験生両方の声を積み重ね、本番や結果発表に臨む感情の起伏を感動の素材に仕立てる、よくある密着ドキュメンタリーの流れだった。
 予想通り、受験に向けたレッスンは相当厳しいものだった。数回目のリベンジ。初めての受験。最後の挑戦。一人ひとり、目指している場所は同じだが、年齢や受験の背景は十人十色。ハイレベルな集団のはずだが、その中にも序列が生じる。仕上がり順調と太鼓判を押される受験生がいる一方、レッスン中ひたすら叱責され続ける受験生もいる。人格否定のような罵倒こそないものの、パフォーマンスの不足点、その遠因となる心の揺れを、これでもか、これでもかと冷たく指摘され続ける。
 本番を終え、合格発表の日。教室で待つ指導者のもとに、受験生が次々と駆けつける。これまで教室で積み上げてきた時間を思い出し、涙する受験生たち。そして、その横で指導者もまた、感極まっていた。鬼の目にも涙、とはまさにこのような光景である。
 共に涙を流すのは、指導者が受験生と感情面で同じ地平に立ったことを意味する。労い、あるいは慰めの言葉をかけ、これまで教室で積み上げてきた努力を肯定する。受験まで終始〈指導〉の姿勢を貫いてきたこの先生は、最後の瞬間だけ〈支援〉の顔をのぞかせた。
 これほど厳しい人でも〈支援〉の姿勢を持っている。しかしそれまでずっとこの方が〈指導〉的であったこともまた事実だ。宝塚音楽学校は一般的な大学受験など比べ物にならないほどの狭き門であり、素人目に見ても試験内容は相当に高度なものばかりである。限られた時間の中で、数々の技術を高い完成度に引き上げなければならない。「待つ・見守る・支える」などと悠長なことは言っていられないのだろう。
 〈支援〉はあくまで「弱き者」に向けたアプローチであり、トップクラスの「強き者」を鍛えるには〈指導〉が求められる。これが「選ばれし者」たちの世界なのか。しかしそれは、一面的な見方に過ぎなかった。

https://toyokeizai.net/articles/-/371832

 スポーツの指導においては、激しいトレーニング、技術に関する叱責などの「厳しい指導」がよく議論の的になる。記事における回顧が正確な記憶によるものならば、オリンピアン級のトップアスリートにおいてさえ、行き過ぎた〈指導〉は時に学習者のパフォーマンスに悪影響を及ぼす。試合を決める重要な場面で、叱責を恐れ自分にトスが上がらないでほしいと内心願う日本人選手。他方、自信にあふれ、自分にトスを上げろと主張し合う海外の選手。どちらが本番に強いかは、火を見るより明らかだ。
 加えて目を引くのは、明らかに行き過ぎた「厳しい指導」を、元プレーヤーの多くが肯定的に捉えていることである。あの厳しい〈指導〉があったからこそ、今の自分がある。そうした物語を自らのなかで作り上げ、だからこれは正しいのだ、と教え子も〈指導〉を再生産する。記事では、インタビューに応じた元代表選手が、〈支援〉に舵を切った実践(大人の指導者が子どもの選手を叱責しないバレーボール大会)の効用を紹介している。「ミスしても怒鳴られない」と悟った子ども選手たちは、生き生きとした表情で、以前より積極的にプレーするようになったという。
 教科学習にせよスポーツ(あるいは音楽などの芸術)にせよ、子どもの頃習ったことをそのまま生活の糧にする人はごく少数である。大半の場合、「習い事」で身につけたことはせいぜい特技の一つにとどまり、何か別のことを生業にしながら小市民として生きていく。よほど突出した能力がない限り、他者と折り合いをつけながら暮らしていくためには、人並みの常識や礼儀を身につけていることが(少なくとも世間の「空気」としては)求められる。特に経験や技術が未熟な間は、より優れた他者から教わることの方が多い。そして「先生ガチャ」で〈支援〉属性が当たることは極めて稀である。
 ならばある種守られた存在である学齢期のうちに、〈指導〉への免疫をつけておいた方が良い。むしろ教育者は学習者に対しすべからく〈支援〉的に関わってくれると「誤解」させることは罪なのかもしれない。教育者は、学習者がその場を巣立った後歩む道で起こる出来事に、明確な形で責任を取り得ない。
 しかし〈指導〉が〈指導〉を再生産することも往々にしてある。学校教育、子育て、職場における研修やOJTなど、人を育てる営みは多くの場合経験則に基づいて行われる。たとえ少数派のままであっても、あるいはモードの一つにとどまっても、〈支援〉型の働きかけを増やしていくことで、教育者ー学習者関係は多様化していくだろう。
 「エンパワー」の5字に込められた実践の術は、厳しくすれば〈指導〉、優しくすれば〈支援〉、などという単純な二分法では定義し得ない。〈支援〉された方がリラックスして力を発揮できる人も、〈指導〉された方が悔しさをバネに努力できる人もいる。特定の手法に安住せず、常に変わっていく目の前にいる相手と向き合い、一つひとつの働きかけを省察しながら実践を続けていく。それが「ゆらぎ」を引き受けることだ。
 それでも、このアプローチを必要とする人がいる限り、〈支援〉に軸足を置いていたい。教育の主役は学習者であり、教育者の責務は、学習者が自分の力で巣立てるように働きかけることなのだから。

より良き〈支援者〉を目指して学び続けます。サポートをいただければ嬉しいです!