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SNS医療のカタチで語られた「臨終行儀」

「死について考える」ことは難しい。
医師や僧侶なら日々、死について深く考えているのだろうから、死について詳しいに違いない、と考えられるのも当然だ。
しかし実際には、その医師や僧侶ですら「死についてはわからない」と言う。
僕ら緩和ケア医も、毎日のように死に向かっていく方々と接しているわけだが、だからといって死に詳しいわけではない。他人よりも少しだけ、死に向かっていく姿を多く見てきた、というだけだ。

今年も、SNS医療のカタチTVでは「死について語り合う」企画が開催された。昨年と同様に、ヤンデル先生(医師)と小鴨住職(僧侶)、そしてたらればさん(編集者)とおかざき真里さん(漫画家)、というメンバーだ(37分ごろから)。

 その中で、比叡山延暦寺の小鴨住職からは「死についてはわかりません」という言葉が出る(56分ごろ)。ああ、やっぱり「わからない」なのか・・・、と僕も感じたが小鴨住職は「わかりません、ですが・・・」と続けたのだった。

死に向かっていく作法としての「臨終行儀」

 死についてはわからない。
 しかし、過去・現在・未来の流れの中にある生と死の理をはかり、「死に向き合っていく考え方/作法」を仏教は生み出してきた。問題は、その考え方をどう伝えていくか。言葉だけで死や法を理解することは容易ではない。
 それに対し、小鴨住職は「表現によって伝える」方法を紹介する。

小鴨住職「言葉で伝えるだけが伝え方ではない。仏典で一生懸命学んだことを言葉で伝えることもできるけれど、法要で伝えていくことでも同じような伝え方ができる。法要はセレモニー。その儀式における表現、例えば調度品や伽藍や僧侶の振る舞い、それらすべてを通じて仏の世界を伝えていく」

 ここで小鴨住職の言葉から、古来より「臨終行儀」という儀式があることを知る。改めて調べてみると、なるほど古典の中で描かれている仏とつながっていくための儀式のことかと。
「人が死と向き合う人生最期の時の迎え方およびその看取りの在り方に一定の心得と作法を示したものである」
 つまりこれは、前述の「言葉で伝えるだけが伝え方ではない」にかかっているのだなと感じた。

 死という得体のしれないもの、知らない世界に行くという恐怖。医療の枠組みが乏しかった古代において、仏とのつながり・仏弟子とのつながりを感じながら「臨終室」という特別な場を設けまた自らも修行をする、という「作法(セレモニー)」は、その時代における死へ向かうための智慧だったのだろう。
「ここを通過して、先に行く」ことを信じられる仕掛けは、少なくない方に安心をもたらす仕組みだったろう。先に待っている方がいて、お迎えに来てくれる。そこに行くための方法として念仏という手段もある。

 では現代における「臨終行儀」とは何か?緩和ケア病棟ですら、その死に向かっていく営為を一種のセレモニーとしてとらえる意識は希薄だろう。現代は良い意味でも悪い意味でも「日常の延長上に死がある」。それは卒業式(+次の入学ガイダンスも)が無い卒業のようなものだが、それが普通なら何とも思わないかもしれない。では、そもそも式がある意味とは何なのだろう?は考える必要がある。

現代における「つながり方」

 信仰としての宗教が薄れてしまった現代において、僕らが提供できるのは「この世とのつながり」が中心になってしまった。
 しかし、現代に「臨終行儀」を広く復活させるべきとは僕は思わない。定型化された臨終行儀は誰しもが気軽に受けられるものとはいえなくなってしまったし、仮に病院内などにその環境を整備したとしても多くの人はそれを信じられないだろう。
 もし、先に示したような「日常の延長に死がある」という価値観が一般に受け入れられるのだとしたら、医療がいかにその日常を日常のままに保持していけるかが現代のカギになる。

 一方で、現代においても「臨終行儀」に倣うべき部分もあるのではないか。臨床宗教師に関わってもらうのもひとつだが、それだけではなく医療者が今よりももう少し「セレモニー」を意識をして、死に向かっていく本人と家族・友人などを孤独にさせず、つながりを保つ中で送り出すことができるかもしれない。

 もちろん「セレモニー」と言っても、「最後に家族みんなで歌を歌って送る」とか「病室で結婚式を挙げる」のような特別なことではない(それはそれであって良いが)。
 あくまでも話は「日常の延長に死がある」に戻る。その大前提の上で、死に向かっていく少しだけ特別な時間を様々な仕掛けで演出できるかもしれない、を意図する。つまりそれは医療者側の押し付けではなく、あくまでも本人とその周囲の方々の生活の営みのうえにあること。そのような形が、現代における死の形として普遍化していくことが、望ましいのかもしれない。

※ちなみに、このSNS医療のカタチTVに出演されていた、編集者のたらればさんと「たらればさんとの生と死トーク」というラジオをしたのですが、そのうち「死とは何か」を取り上げた、全6回のうち第3回をシェアします。

(この先のマガジン購読者限定・有料部分では、壇蜜さんのコメントおよび小鴨住職の苦悩に対する感想を書いてみます)

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