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「完全看護」は理想の姿なのか

 医療現場には、一般常識とはかけ離れた現実がある。

 先日、こちらの記事を読んだ。看護学生が、医療現場に対してもった「違和感」から倫理的問題を考えるという内容なのだが、例えば

意識レベルの低い60代の患者への食事介助。看護師は、主食、副菜、デザート等のペースト食を、まずはすべて一緒にまぜてから、無言で次から次へと口に運んでいく。「えっ、全部まぜちゃ、味がわからなくなってしまう」と思った。せめてどんな料理かを伝えたくて、「今日の献立はお魚の煮付け、ほうれん草のおひたし、ご飯です」と話しかけながら、食事介助をやってみたら、「そんなゆっくりじゃ、どれだけ時間があっても足りないわよ」と看護師に言われた。
私(看護学生)が休憩から戻って患者さんのもとにいくと、患者さんが自分でトイレに向かうところだった。ちょうど看護師もやってきて、患者に「転んだら危ないでしょ。オムツにしてください」と言った。

という状況が描かれていて、それに対して「こうした実態を生じさせている様々な要因があったとしても、やはり『患者の人間性を大切にしてかかわっていく』という看護の基本にまずは立ち返る必要があるのではないか、という意見で一致しました」という結論が書かれている。

 確かに、この記事を読めば、誰しも「人権侵害!」「医療者は何をやっているんだ!」「きちんと患者を看ろ!」と、お叱りの声があがってもしかたがない。

 僕も、この状況をもって医療現場がこのままでいいとは思っていない。しかし、この状況を「倫理的問題」として、「患者の人間性を大切にしてかかわっていく」という基本に立ち返ろう、という結論でいいのだろうか。

「完全看護」は本当に可能なのか

 僕が研修医のころ、「入院中は家族が付き添いをしなければなりませんか?」と尋ねる家族に対し、看護師が「大丈夫ですよ。当院は『完全看護』ですので、私たちにお任せください」と笑顔で答えているのを見て、とても頼もしく感じられたことが記憶にある。
 実際、多くの方は、病院に入院さえすれば、看護師が身の回りのことをすべて支援してくれ、家族が顔を出さなくても安全に快適な看護が提供されていると思うだろう。

 しかし、「完全看護」なんて言葉は、本当は存在しない。

 厳密にいえば、昔は存在した。1950年に「完全看護制度」が、それまで、家族や付添人によって行われていた入院患者の療養上の世話を、看護職によって行うことを目的として導入された。「看護は看護師の手で」がそのスローガンだったという。
 しかし、当時の看護体制では24時間の看護を十分に提供することは困難で、また「入院患者の世話をすべて看護師が行うという誤解を与えかねない」との指摘もあり、1958年に「基準看護」と改められた。その後、看護体系が変わっていくに従い、1997年には全病院でようやく家族や付添人による付き添い看護が廃止されたという経緯がある。最初の構想から約50年を経て、「看護は看護師の手で」はようやく実現され、一方で家族は入院患者の付き添いという重労働から解放され、看護師など医療者と協力体制をとって一緒に患者の支援をしていく体制が確立されていった。
 その歴史から見れば、私が研修医の時に「当院は完全看護ですから」と言っていた看護師は、かなり昔の用語を引っ張り出してきたことになる。
「完全看護」は言葉としても、現実としても、本当はもう存在しないのだ。

看護師だけが看護を行うという現実

 しかし現場では、看護師たちは「完全看護」的な働き方を求められているのもまた一方の現実だ。
 鳴りやまないナースコール。病室は全員食事介助が必要で、その目線の先には、看護師介助を待ちきれずにトイレに歩き出し、転倒する患者がいる。当然のことだが、看護師は1対1で全患者を看られるわけではない。急変も起こるし、薬の投与時間も守らなければならない・・・という現実の中で患者から「トイレ・・・」と言われても「オムツにしてください!」と言わざるを得ないというのも現実なのだ。
 看護師だって、仕事をサボろうと思ってトイレ介助をしないわけではないし、食事だって本当はゆっくり味わって食べてほしいと思っている。それをそのようにできない環境がある中で「患者の人間性を大切にしてかかわっていく」という基本に立ち返ろう、という精神論を掲げればうまくいくとでもいうのだろうか。

 僕は、看護師だけで入院生活の支援をすべて行うには限界があると思っている。看護の専門性も高まっている。入院患者の生活の全てが看護の対象であることは事実だが、それは看護師がその全てを自らの手で行うこととイコールではないのではないだろうか。

ベトナムで見た「社会で患者を支える」姿

 僕は先日、ベトナムの緩和ケア病棟を見学する機会があった。
 そこはまだ、日本の緩和ケア病棟と比べれば、環境はよいとは言えず、1つの部屋に男女混合で8名ほどの人が寝ているような状況ではあった(ただし、一般病棟ではベッド不足で1ベッドに2~3名が寝かされている状態なので、それに比べれば一人で1ベッドを使えるこの環境は良い方なのだという)。
 しかし、そこで目に付いたのは患者に付き添う家族・親類の姿だ。どの患者にも、基本的に誰かが付き添って様子を見ている。入院すれば、日中の時間のほとんどは誰も付き添いがいない日本とは対象的だ。
 こう書くと、
「日本は共働き家庭も増えてきて、家にも誰もいないのに、病院の付き添いなんて無理」
 という声も聞こえてきそうだが、それは「家族の病気に対しては、女性が介護・看護をするもの」という日本的固定観念によるものだろう。
 実際、2016年の世界銀行の統計によると、ベトナムの女性就業率は70%を超え、先進国最高であるスウェーデンよりも高い。それに対し、日本の女性就業率は50%弱で、先進国平均にも満たないのだ。
「共働き家庭が多くて(女性が)家族の看護・介護ができない」なら、日本よりもベトナムの方が本当は無理なはずなのだ。ではなぜ、日本ではできず、ベトナムではできるのか?

 その答えは、ベトナムでは親類縁者が近隣に多いということもひとつだろうが、ベトナムが「交代で付き添いをするのが当たり前」という社会だからだ。仕事も当然、家族が病気ということならそちらが優先される。みんながそうだから、男性も女性も、交代で仕事を休んで交代で付き添いをする。実際、ベトナムのホスピスでも子供を連れた男性も多く付き添いをしていた。
「大変ではないですか?」
 と、ある付き添いの方に声をかけたところ、キョトンとした顔をされ、
「大変ですけど、これが当然ですので」
 と答えられた。

入院病棟を社会に開こう

「完全看護」は存在しない。
 でも現実の病院は「完全看護」的な働きを求められ、その質を上げるための効率化は考えられる限りを尽くしても、「まだ足りない」と社会から責められる。それはもう病棟だけで解決できないほどになってしまっている。
 僕たちはもっと、病棟を社会に開いた方がいいのではないだろうか。病棟で起こっている現実を、社会に見てもらう。そのうえで、そこで起きていることに対して「社会として何ができるか」を一人一人が考えていった方がいいのではないだろうか。
 あなたが病人の家族親類なら、「できる限り時間をつくって患者に必要なことをしよう」と考えてみるのもいい。あなたが会社の人間なら、ベトナムのように「家族の付き添いは当然」という社風を作るために、システムを整えていくのもいい。
 そして大切なことは、僕たち医療者が家族や社会と手を取り合って、一緒にやっていこうという意識をもつことだ。決して、「人手が足りないから」その仕事を家族に分担してもらおう、という発想ではいけない。病める人のために、医療者ができること、家族ができること、社会ができること、をお互いに考え合い、支え合ってこそ、それぞれの地域におけるチームが作られていく。そして精神論だけではなく、システムでそれをやっていくことが求められている。

 最後に、もうひとり、僕が頼もしさを感じた看護師の話をしよう。
 その人は、緩和ケア病棟の看護師だったが、冒頭に出てきた家族のように「入院中は家族の付き添いは必要ですか?」と問いかけた方に対し、ちょっと考えてから、
「そうですね。できる限り付き添いをしてください。私たちは○○さんを医療と看護で支えますけれど、私たちができないこともたくさんあります。家族にしかできないことが、これからの時間にたくさんあるのです。私たちは、○○さんを『お預かり』するのではありません。だから、できる限り、病棟に来てくださいね」
 と答えたのだ。それを聞いた家族は、みるみる背筋が伸び、決意と責任を負った眼になって帰っていった。

 看護師は看護という専門をもった専門職だ。その専門性は「生活を支える」ことだが、家族や社会が看護師とパートナーシップをもって、新しい文化をつくっていく方が、結果的に患者にとって大きな力になるのではないだろうか。
 いずれ、僕たちもその病棟に入ることになるのだから。

(2021/7/5追記)
 2019年8月にこの記事を書いて以降、2019年末に始まったCOVID-19によるパンデミックのため、日本の病棟は「社会に開こう」とは完全に逆の方向に向かっている。
 入院病棟は全て閉鎖され、家族の付き添いどころか面会すらも禁止。患者の余命が数日という状況でも家族との面会は許可されることなく、「入院=今生の別れ」となる場合も珍しくない。

 この状況が長く続く中で、徐々に変化してきているのが看護師たちだ。

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