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ぼくは何のソムリエなのだろう。

うちの近所に、よく行くコーヒー店がある。
暮らしの保健室で出しているコーヒーをブレンドしてくれている店でもあるし、リレーショナルアートでも協力いただいているお店だ。

このお店、コーヒーだけではなくお菓子も美味しい。
お菓子担当のやましたさんは退職されてしまったけど、そのレシピは健在で、いまも変わらない味を提供してくれる。
で、そんなある日にパフェを注文してみた。そして、もちろんコーヒーも。自分で豆を選ぶこともできるが、こういうときは
「パフェに合うコーヒーを選んでいただけますか?」
と頼むことにしている。

そして運ばれてきたパフェとコーヒー。
この取り合わせが絶妙なのだ。
よく、魚介類に日本酒を合わせるとき、
「魚の生臭さを、日本酒が洗い流してくれる」
と表現されるが、まさにそれ。パフェの濃厚な甘みと少しだけの酸味をさらっと洗い流して、次の一口へ誘ってくれる。

味覚って、人によって違うはず。コーヒー豆だって何種類もある。
それでも「この味の組み合わせには、このコーヒーだ」と、ぴったり選べる職人の技に、思わず唸ってしまう。これはもうソムリエのようなスキルなんだなあと。

そこでふと自分に思いを馳せたとき、
「自分は何のソムリエなんだろう」
と考え込んでしまう。
医者になってからずーっとだが、僕は自らの技術で患者を治した、という感覚を持てたことがない。
患者は自ら治る力を持っている。それを少しだけ後押しするのが薬だが、その使い方を考えたのも、やっぱり自分ではない。

そんな折、外科医の中山祐次郎先生がこんなツイートをしていてさらに考え込むなどして。

僕ならではのスキルって何だろう?
どんな痛みでも緩和できること?いや、それも僕ではなく薬の力だろう。
いろんな言葉を駆使して、患者の気持ちを晴らすこと?いや、僕なんかの一言二言に、そんな力があるはずもない。
そこまで考えてきて、自分の底にどうしてもぬぐえない劣等感があるんだなということに気づいた。

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先日、幡野広志さんと田中泰延さんの公開人生相談に行ったとき、「自己肯定感が低い若者」の中で、いくら周囲から褒められてもそれを素直に受け取れないという女の子がいた。それを聞いて、幡野さんは「わかる」と言っていた。僕も「わかる」と思った。
そして幡野さんは、「僕は幼いころに親から褒められなかったから。あなたもそうではないか?」と問いかけていた。
でも自分は違う。親からは褒められて育ったほうだと思う。ただ、社会から褒められない子供時代だった。いじめられ、疎外されていた。重たいランドセルを何個も運んだり、崖から転げ落ちて笑われることが、僕の存在意義だった。いつしか本が一番の友達になったころ、僕は周囲から話しかけられることを自ら拒んでいた。
それでも、クラスではできる限り浮かないように、学級委員をやったり、クラスのイベントを企画したりはしていた。ただ、そのときはずっと「あいつが企画したものなんて、どうせつまんないよ」「きっと失敗するよ」という声が聞こえてくるような気がしていた。実際には誰もそんなことは口に出していないのだけど、僕の中の劣等感がずっと耳元でささやいていた。そのころからだんだん、自分を信じられなくなっていったのだろう。もちろん世間一般から見て、成功と言える経験もたくさんしてきた。でもそれら全てが、自分の力で勝ち取ったような気は少しもしてなかった。
僕はずっと周囲から認められたかったんだと思う。本を取り出して「話しかけるな」オーラを出している自分と、学級委員をやって「みんなに喜んでもらいたい」自分とが常に同居していた。承認されたいけど、素直に受け止められない。そんな承認欲求を拗らせた自分と、折り合いをつけられないままに成長して、劣等感にエサをあげ続けてきた。
それは今でも自分の心の奥に黒い澱のように淀んでいて、変な時に湧き上がってくることがある。最近カメラを買って、「どんな写真を撮ればいいのか」を幡野さんに相談したときに、「西先生は仕事が好きなのだから、仕事を撮ればいいんですよ」と言われたときもそういう感情が湧き上がってきた。「自分は仕事が好きなように見えるのか」という驚きとともに。

今の自分も、学級委員をしながら、休み時間に一人で本を読んでいたあの頃と何にも変わっていない。
だから僕はきっと、自らソムリエになることはできない。自信をもって言える、僕にしかないスキルを求めても、そのときにはきっと劣等感が肩から這い上がってくるんだろう。
じゃあ、ソムリエになることは諦めるのか、と言われれば、そうでもない。自らソムリエにはなれない。それなら僕はみんなにソムリエにしてもらう。出会った方々、一人一人が自分に何かを感じたら、それでソムリエになったということにしてもらおう。誰に褒められるわけではなくても、その人が勝手に自分を評価してくれればいい。僕がいま勝手に、このコーヒー店を評価しているように。

「承認欲求の解き放ち」を僕はする。
承認されたい自分になることを目指すのではなく、その承認をすべて他人に委ねる。どうせ、みんなには喜ばれない。その諦念と引き換えに、世界を信用する。
僕自身は日々を丁寧に生きる。目の前には仕事がある。苦しんでいる患者がいる。それをただ丁寧にしていくのみで、それに対する承認は解き放つ。劣等感が消えるわけではないけど、そいつもそこに「居る」ことを認めて、撫でながら過ごしていこう。

一流のものを教えてくれる人々は美しい。このコーヒー店もそのひとつ。
ただそれは、僕にとっての一流で、みんながどう思うかは知ったことではない。
自分もそう。誰からも褒められなくても、誰かにとってのソムリエであるかもしれず、その思いとともに世界の中で僕はただ一日を生きていく。


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