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エピローグ(Kawasaki-side)

 吉田ユカは、鎮静を始めて1週間後に亡くなった。

 実は、鎮静薬の投与を始めた後、ユカは中々眠れずに僕らが試行錯誤することになった。ユカが不安に思っていた通り、薬の効果が出にくかったのだ。ハロペリドールでは眠れないだろうことは予測していたが、その次に使ったミダゾラムも効きが悪く、最終的にはフェノバルビタールという薬剤を使用して、ようやく眠ることができた。
 結果的に、ユカにとってはつらい時間をさらにもう少し延ばしてしまうことになってしまった。

「思うように眠れなくて、つらかったね。ようやくこれで、つらいのが楽になるのですね」

 フェノバルビタールで眠り始めたユカをみて、旦那さんの表情もようやく和らいだ。旦那さんは、これまでずっとユカと鎮静について語りあってきた、と話していたが、
「もうこれで本当に、話ができなくなってしまうのですね」
 とポツリと呟いたことが印象的だった。
 
 そして、ユカが病棟から家へ戻った日は、彼女が参加したいと言っていた、僕と幡野との対談イベントの2日前だった。
「きっと、上から見ていると思いますよ」
 と旦那さんは天を仰ぎながら笑顔で告げ、僕らとスタッフが見送る中、ユカの棺を乗せた車と一緒に帰っていった。
 もう、夏の終わりが近い、枯れた香りが吹く夜だった。

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 吉田ユカと別れてのち、僕は幡野とイベントで対談するため、東京に向かった。
 その巨大なブックセンターの控室で、僕は幡野にユカの死を伝えた。
「ああっ、そうなんですか……そうなんだ……」
 と言って、幡野は絶句した。
「実は、ユカさんから眠る前に『これから眠ります』ってメールが来ていたんですよ。それからどうなったんだろうなっていうのがあって。そうか……」
「本当はこのイベントにも来たい、とおっしゃっていたのですけどね。でも、今日のイベントで、吉田さんのことを話してもいい、と言われて来たんです。本当は、その内容を録音して、病室へ持って帰るつもりだったのですが」
 すると幡野が少し考えて、
「西先生は、どうしてユカさんのことをそんなに取り上げたいと思ったのですか?」
 と尋ねてきた。僕は少し沈黙をおいたうえで、
「……僕にとって、最初から安楽死を明確に希望してきたケースが初めてだったんです。そして僕に対しては『安楽死の代わりに鎮静をしてほしい』という希望でしたが、それは今の緩和ケアの常識からすると基本的にはナシな要求で。
 その点と吉田さんの思いをどうすり合わせていくのか? ということを考えさせられたんです。結果的に、安楽死を望んでいた彼女が緩和ケアのプロセスの中で最期を迎えることができたという意味で、安楽死に対する緩和ケアの可能性は感じられました」
 そう答えると幡野は、
「僕もそれは感じました。最後、彼女とのメールの内容を見ていて、緩和ケアの可能性については。先生や看護師、心理士さんの名前もあって、『これまでの医療不信はなんだったのか、とおもうくらい良い体験ができている』というメッセージを受けていたのでホッとしていたんです。緩和ケアにかかって最期を迎えるということにも希望が持てましたね」
 と言いながらも、以前に語っていた「格差」に対する懸念についても触れた。
「ただ、それはあくまでも西先生のケースなんだよなあ、とも思いました。彼女が自発的に物事を調べて考えて行動できる人だったということもあるし、ある程度の財力もあったり、旦那さんとの関係性も良いとか、様々な要因がトータルとしてできたのであって、僕は『これぞ格差だなあ』とも思いました。じゃあ、全国で同じことがみんな受けられるかと言うと正直難しいですよね」
「それを、私たちみんなが考えていかないといけないとならないと思っているんです。緩和ケアさえあれば安楽死はいらない、みたいな乱暴な話でもない」

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